水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

氷がとけたら

2014年08月28日 | 教育に関すること

 もう何年も前のことだが、授業中に小テストを行った際に、思わず笑みのもれる解答に出会ったことがある。
 「氷が溶けると何になりますか」という問いに、「春になる」と答えた生徒がいたのだ。
 自分としては、もちろん「水になる」という答えを求めていたのだが、その着眼点のすばらしさに思わず二重丸をつけ、「待ち遠しいね」とコメントを書き添えた。
 あとで返却するときに、この答えをクラス全員の前で紹介した。
 「おー」というどよめきとともに、「なるほど」「そういう発想って斬新だな」との声が聞こえる。
 自分のことのようにうれしくなり、金沢大学の伝わる「四校寮歌」の一節を歌う。
 「氷塊のごと 我が胸に 抱く心の溶け出でて 語り明かさん 今宵かな 星影冴ゆる 記念祭 … 」
 その答えを書いた生徒は、その日のうちに、いじめっ子に体育館裏に呼び出され「てめえ、いいかっこしてんじゃねえぞ」とボコられ、学校に来れなくなってしまった … 。

 なんてね。そんな話はない。
 「氷が溶けると」「春になる」という「笑点」のネタみたいな話が、いまだに教育関係者がエッセイでつかったりする。新聞のコラムなんかでも、きっと複数回使われているのではないだろうか。
 たとえば、いつのまにこんなお仕事をされているのだろうと思われた元ヤンの義家弘介先生。
 アドバイザーを務める北海道芸術高校のページで、この話をお書きになっている。


 ~  「氷が溶けたら、何になりますか?」
 小学校の理科のテストなどでよく出される問題。答えは当然『水』であり、それ以外の解答は不正解とされるだろう。
 しかし、是非、違う視点から考えてみて頂きたい。
 もし、ある生徒が、この問いに対する解答として『春』と答えたなら、あなたはどうするだろう?
 それを不正解と断じることが果たしてできるだろうか? 雪国で生まれ育った私にはできない。
 閉塞感が漂う現代社会において、こういった発想こそが新しい可能性の扉を開く原動力になると私は思う。
 そして北海道芸術高校はまさにそこを大切にしている高校なのだ。
「政治について関心を持っているのは、ポスターの顔が嘘くさいところです」
 私は心の中で彼女に花丸をあげた。
 そこから初めて等身大の「なぜ?」が生まれ、そして、そこから学問が始まるのだ。 ~


 「小学校の理科のテストなどでよく出される問題」とあるが、「よく」は出ないし、「など」とあるが、他教科では出ないんじゃないかな。
 「不正解と断じることが果たしてできるだろうか?」
 問題の枠組みによるだろう。
 理科の問題で出されたなら、不正解以外の何ものでもないのだから、それはきちんとバツをつけてあげるべきだ。
 それならいっそ、ロックが水割りになるとか、ツバルが消えるとかの答えの方がいいのではないか。
 この程度の答えを「新しい可能性の扉を開く原動力」と持ち上げてしまうところが、われわれ学校の先生の貧困な頭脳を象徴する。
 STAP細胞をもてはやしたのとどこがちがうのだろう。
 こんな発想から「学問は始ま」らない。
 何と何が同じで、何と何が異なっているのかを、教え、学ばせることからしか学問は始まらない。

コメント
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