試験問題は、今風の言葉でいうと、ある文章、ある作品のオマージュだ。
年がら年中、何かいい文章はないかな、卓越した評論、心動かされる小説に出会わないかなと思いながら読んでいる。
この文章で問題を作りたいと思う時というのは、この文章を多くの若者に読んでもらいたいとの思いが生まれたときだ。
センター試験の問題に対する不満も、この点についてはある。はたして作成者は、全国50万の18歳近辺の若者たちに、ぜひともこの文章を読ませたいという情熱が根本的にあるのかという疑問。
問題を作る際には、この言葉に気をつけるといいよ、こういう視点で読んでみると作品への見方が変わるよというメッセージをこめる。
もちろん何も考えずに作られたようにしか見えない設問にも出会うが、いい問題は、文章そのものと作者への敬意と同時に、問題を解く者への愛情にあふれている。
結果として、切り取られた(あるいは全文を用いた)本文と設問の総体はもとの作品とは別種の一作品になる。
楽譜に書かれた作品が、演奏者によって全く別物になるのと似ている … というような思いで問題を作っている。
だから「過去問集」を見ていて、著作権の都合で本文を載せられないと但し書きのついた空白を見かけたりすると、作者の狭量と問題に対する「差別」を感じてしまうのだ。
「自分の文章が入試に出ていたので解いてみたら間違った」という述懐をする著者の方もときどきいらっしゃるが、入試問題のなんたるかを知らないということだろう。もしくは偏差値の不足か。
こんなふうに内心思っている教員の創造力は、世間一般にはほとんど認められていないのは哀しい。作り続けるしかないけど。