言い換え力(1)
1 a (x+y)2
b x2+2xy+y2
c x2+y2
a=bは正しい。a=cは間違いである。これを教えるのが数学である。
2 a 濁った空気に光があたると、光の道筋が見える
b チンダル現象
c ドップラー効果
a=bと言うが、a=cとは言わない。これを教えるのが物理である。
3 a 明治維新
b 近代化の出発点
c 産業革命の契機
a=bと言えるが、a=cとは言えない。これを教えるのが歴史である。
主に高校2年生で使用される教材「ミロのヴィーナス」(清岡卓行)は、次のように書き始められる。
~ ミロのヴィーナスを眺めながら、a〈 彼女がこんなにも魅惑的であるためには両腕を失っていなければならなかったのだ 〉と、僕は、ふと不思議な思いにとらわれたことがある。 ~
「両腕がないからこそ美しい」という逆説的なこの主張は、文章全体を通して筆者が主張したい内容である。
自分の主張を読者に伝えるために、筆者は何をするか。
この内容をよりよく伝えたいと欲求した場合どうするか。
そのためには「技術」が必要である。
何かを徹底したいという思いは、基本的には「しつこさ」となって現れる。
文章における「しつこさ」は「繰り返し」という形になる。
だから評論文を書く技術とは、「繰り返し方」の技術と言える。
ある主張を述べる時、主張そのものを何回も書くのではない。
言い換えるのである。
形を変えて表現するのだ。
筆者は、手を変え品を変えして、繰り返し表現することで、自分の言いたいことを少しでも伝えようとする。
だから評論文を読むとは、繰り返されている内容を読むということである。
「両腕がないから美しい」という内容は、どのように形を変えて繰り返されているだろうか。
~ このことは、僕には、b〈 特殊から普遍への巧まざる跳躍 〉であるようにも思われるし、またc〈 〉部分的な具象の放棄による、ある全体性への偶然の肉薄 〉であるようにも思われる。
……しかも、それらに比較して、ふと気づくならば、d〈 失われた両腕は、ある捉え難い神秘的な雰囲気、いわば生命の多様な可能性の夢を深々とたたえているのである 〉。
……それは確かに半ばは偶然の生み出したものであろうが、なんという微妙なe〈 全体性への羽搏き 〉であることだろうか。……したがって、僕にとっては、ミロのヴィーナスのf〈 失われた両腕の復元案 〉というものが、すべて興ざめたもの、滑稽でグロテスクなものに思われてしかたがない。 ~
a=bと言うことが出来る。
さらにa=c、a=d、a=eと言うこともできる。
しかし、a=fとは言えない。
これを教えるのが国語である。
それぞれの表現の関係について「a=bとは言えるが、a=cとは言えない」ということを教えるのが国語である。
「=」の度合いが最も厳密なものが数学であり、一定の幅があるのが国語である。
数学における「=」ほど厳密なものではないとしても、「=」で結ぶべきところは結ばなければならない。
冒頭の1~3の例と同じように、生徒の頭の中で「=」で結びついていないことがらを、結びつけてあげることが、「教える」ということである。
国語における「=」とは「言い換え」のことである。
どのように言い換えるのか。
同じことがらを、言葉で言い換えるのだから、必然的に、使用される言葉の次元が変わってくる。
具体から抽象へと様々な階層に位置される言葉によって表現されることになる。
傍線部a~eの中の、「両腕を失って」、「巧まざる跳躍」、「部分的な具象の放棄」、「羽搏き」は、同じ内容を異なる次元の言葉で言い換えている。
次元を越えた「言い換え」を見抜いていくことで、筆者が「しつこく」主張したい内容がわかってくる。
見抜いた結果、ある部分とある部分が「=」で結ばれる。
この関係を「相似の関係」と言う。(「同等」「同値」「同じ」「類比」なんでもいいけど)