センター試験の2番は上林暁「花の精」。
上林? だれ? いや、さすがに名前は知っているが、作品を読んだことはない。
これを機に読んでみようという気もおこらない。他に読みたいのが山積みになっているというのもあるし。
自分がセンターの作成者だったら、どういうのを選ぶかな。現代小説を選んではいけないという決まりはないのだから、なるべく今を描いたものを選ぼうとするだろう。
せっかく全国50万人に若者に読んでもらえるのだから、試験であっても何か残したいと考えるだろうけど、作成の先生方にはそんな思いはない感じだ。
「花の精」は、病気で長く入院している妻をもつ「私」の数日をきりとっている。
サナトリウムで療養しているということは、容態が急変する可能性は少ないものの、回復する日がくるかどうかは微妙な状況だと言えるだろう。はっきり書いてないが、40代ぐらいのおじさんという設定か。
そんな主人公に世の中はどう見えるか。
山手線の電車にはねられたあと、ドイツで踊り子とラブラブになったあと、友人を欺いて女性を手に入れたあと、世の中がどう見えるのかということを、国語の時間に勉強させる。
いまを生きる高校生が、自分の人生とはまったく違った状況における人間の心情を類推する作業は、他人の心を思いやる力をつけるために大事だ。
昔の作品で、サナトリウムにいる妻を思うおっさんの心情を読み取らせるのもいいけど、今の小説にいいのはあるんだけどなあと、朝倉かすみ『平場の月』を読んで思う。
50すぎの青砥は、検査に訪れた病院の売店で、須藤と出会う。
その昔、気持ちを告白し、断られた相手だ。
何十年かぶりの再会。いろんなものを抱えたり、手放したりしてきた2人の人生は、売店でのあいさつだけで終わるかもしれなければ、思いも寄らぬ展開をみせることもある。
本人たちの表面的な意志とはうらはらに、距離感が縮まっていく様子と別れが、朝霞、志木、新座といった身近で、絶妙にふつうの土地を舞台に描かれていく。
~ 合鍵を持つ手に力が入った。あの日じゃなくてもよかったのだ。もっと言えば結婚なんてしなくてもよかった。須藤と生きていけたら、それでよかった。須藤と過ごした場面が青砥のなかに流れ込んだ。 ~
「一緒になろう」と口にしたが故に、離れざるを得なかったことに気づく青砥。
「あの日」の問題ではなく、言うか言わないかの問題なのだ。
好きな人ができたときに、コクっていいのが若者。
両思いが明白でも、言わない方がいいのが大人だ。
人と人とのつきあい方の本質に、若いも若くないもないというのは、原理としてはそのとおりでも、現実はそうではない。
どこでその線をひいていいのか明確でないのが難しい。
「平成くん」は30代だったが、コクらない人生を選ばざるを得なかった(と自分で判断していた)。
自らの身にふりかかった「幸福」をそのまま純粋に受け入れられる度合いの高い人ほど、若いと言っていいかもしれない。
目の前の小さな幸せをより確固たるものにしたくて、青砥は須藤を失う。
失って気づくことがあり、失って見える世界が変わる。
~ 公園。秋の夜、須藤のアパートから青砥の家まで歩く途中のセブンーイレブンの前。ヤオコーの駐車場。病室。無印良品の店内。外階段。須藤の部屋。須藤の寝床。場面はまどいをひらくように青砥を囲み、細部を拡大させた。須藤の目。泣きぼくろ。横の髪を耳にかける手つき。喉の白さ。からだを傾けてやったヤッソさんの真似。滑りの悪いベランダ窓を開けるガニ股の後ろすがた。へったくそなストーマの台紙の切り方。声も聞こえた。威張って呼ぶ「青砥」。笑いながら呼ぶ「青砥」。たしなめるように「青砥」。うんと湿り気のある「青砥」。「わたし、いつも、青砥を見てたよ」。聞こえるたびに痛みが刺す。 ~
昼休み、花屋から自転車を拾いに行くまで歩いた道を思い出した。駅前の焼き鳥屋、吉野家、ロータリー、タクシー乗り場、そして南口の駐輪場。勤め先まで自転車で走らせていたときのことも思い出した。広がる空、右上の太陽、前髪を煽る風、こめかみを伝う汗、自転車を漕ぐ足、ハンドルを握る手。どれも色裡せ、腑抜けのようにぼやけていた。須藤がいなくなっただけで、世界はこんなに変わるのだった。(朝倉かすみ『平場の月』光文社) ~
『田村はまだか』と、あとなんか一つ二つ読んだ気がする作家さんだが、こんなにすごい作品を書かれているとは。先日の直木賞にノミネートされてたら、確実だった。