水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

ローマの休日

2009年06月11日 | 日々のあれこれ
 「老婆の休日」というすばらしいギャグをとばしたあと、「ローマの休日」を見るたことある人? とたずねたら、数人手をあげた。
 へえ。今の高校生はどんなタイミングで見るのだろう。
 「みんな、こういうすばらしい映画は見た方がいいよ。DVDが500円で売ってるのだから。英語の勉強にもなる」といって、オードリーヘップバーンが(いまオードリーっていうと芸人さんになってしまうな)、髪をばっさり切るシーンで理髪師にダンスに誘われて「I wish I could」と断る言葉を話したら、仮定法はならってませんと言われた。
 自分が映画をみて気がついたように話したが、自分が高校1年のとき、担任の小川英雄先生からならった話だ。
 よく30年も前のことを憶えているなと思う。
 人格者であられた。のちに母校の校長にもなられたとうかがったが、さもありなんと思う。
 ちょっとまてよ。ということは、今教えている子が30年経ってふと高校時代を思い出したとき、おれの顔がたまたま思い浮かんだとして、思い出すのは「老婆の休日」になってしまうのか。
 しかも、これだってたしか桂文珍師匠のネタではなかったか。
 それとも、「念ず」を教えるとき、終電でローゲーを「念ずる(がまんする)」男のまねをして受けたが、こちらを思いだしてくれるだろうか。
 他にないのか、おれ。
 ふじの君がコメント欄で、無理やり「立派な」と形容してくれたが、ほんとは「ユニーク」だけ言いたかったのではなかったか。
 もう少しおちついたほうがいいのかもしれない。

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係り結び

2009年06月09日 | 日々のあれこれ
 先週から教育実習生が来て勉強しているが、誰も授業を見にきてくれない。
 ちがう教科であっても、見るべき人のは見た方がいいと思うんだがなあ。
 その対象になってないのね。ぐすん。
 今日なんかも、「老婆は羅生門のところで休んでいたんですかね。これが、老婆の休日です」は少し受けた。
 こういうハイソなギャグを学ばずに何を学ぶのだろう。
 って冗談みたく聞こえるかもしれないが、実習で学ぶべきことって、ほんとにこういう生徒との呼吸のはかりぐあいみたいなものではないかと思う。
 この教材をどう教えるかなんてのは、本にある程度書いてある。
 生身の高校生を相手にできることを体感してほしいなあ。
 この先指導教官になる可能性は少ないような気がするけど。

 古文の時間に「係り結びの法則」を教える。
 古典において唯一「法則」とよばれるものだが、「ボイルシャルルの法則」なんてのにくらべると、法則とよんでいいのかとも思う。
 唯一であるからなのか、なぜか中学校でも教えられている。
 助詞の種類も、用言や助動詞の活用も教えずに、「係り結びの法則」だけ教える中学校の古典は、なんというか尋常ではない。はっきりいって、ばかなんじゃね?という感覚だ。
 中学校の先生からすると、「高校入試に出るから、しょうがないじゃないか」ということになるだろう。
 たしかにそのとおりだ。
 指導要領も読まずに適当に問題をつくっている高校教師もまたどうしようもない。 
 それが学校の教員の知能レベルというしかないが、それが世の中である。
 そんなに世の中の人みんなが、理路整然としていて、相手のことを思いやって、心優しく接してくれるなんてことはないのだ。
 どちらかといえば、真逆の娑婆を生きねばならぬだから、これくらいのことを理不尽といっててはいけない。
 おそらく中学校の先生は、なぜこんな法則が存在するのかを知らずに教えているにちがいない。
 なぜなら、私も知らないから。
 ただし、答えがどこにあるかは知っている。
 大野晋先生の『係り結びの研究』(岩波書店)を読みさえすればいいのだ。
 ということで、何年も本棚にかざっておいたこの名著ををひもといてみた。
 ふむふむ。
 なるほど。さすが大野大先生だ。
 「ぞ・なむ・や・か」の結びは連体形、「こそ」の結びは已然形、というたんなる約束ごとではなかった。
 日本語の文構造全体の性質がそこには現れていることがわかった。
 授業化できるかな。
 
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動的平衡

2009年06月07日 | 日々のあれこれ
 昨日はClとTrbを21:00近くまでレッスンしていただいた。
 最後らへんにみてもらっていたメンバーを駅まで送る。
 2年のYがうまくなってぬかされそうでくやしいとか、ぜったい県にはいきたいとか、1年はみんないい感じだとか、誰それが心配だとか、Shaftの今日のカットはOKですよとか、いろんなお言葉・情報をもらえた。
 つい先日入部してきたような気がするけど、そうか君たちもう3年なんだっけ? という感覚だ。
 年々時の流れがはやくなっていくように、部活の進行もはやまっていく。
 先日入部してきた一年生もだいぶ部員らしくなってきたが、気がつくとこの子たちもあっというまに3年になり、OBになりという流れをすすんでいくのだろう。 川東吹奏楽部というユニットは二十年以上存在し続けているが、メンバーは毎年入れ変わり続けている。
 部活というのは「モーニング娘。」みたいなものだ。
 顧問は「つんく」かな。
 「人間のからだ」みたいとも言えるのかもしれない。
 福岡伸一先生によると、人間のからだは、分子レベルでは驚くほどのスピードで絶えず入れ替わり続けているらしい。
 人間の細胞は何年前と今とではまったく入れ替わっている、というような話はきいたことはあった。
 でも分子レベルでみたばあい、そんなものではなく、三日前に食べた牛丼がもう心臓の一部になっているという感覚であるようだ。

 ~ 個体は、感覚としては外界と隔てられた実体として存在するように思える。しかし、ミクロのレベルでは、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかないのである。(福岡伸一『動的平衡』木楽社)~

 今いる100名強の部員は、なんの必然もなく集まってきたはずで、そういう意味では「たまたまそこに密度が高まっている分子の『淀み』」なのかもしれない。
 退部するという子をとめられないし、いつ新しい部員がはいってきてもだいじょうぶだ。
 分子の「淀み」でしかないのに、人間の身体はそうとうにたしかな存在としていろんなことをする。いろんなことを考える。
 部活も同じだろうか。
 
 
 
 
 

 
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羅生門

2009年06月05日 | 日々のあれこれ
 もう何回も教え、数え切れないほど読んでるからかもしれないが、「羅生門」は作品としてはあまりおもしろくない(言っちゃっていいのだろうか)、というか物足りない。
 たとえば羅生門からは、臭いがしない。気持ち悪くならない。
 下人が雨やみを待つ羅生門の楼の上には、数多くの死体が捨てられている。
 だから冒頭から相当臭わないといけないはずなのに、そんな感覚をもたせてくれない。
 下人が階段を登り、中をのぞきこみ「下人は、それらの死骸の腐乱した臭気に思わず、鼻を覆った。」という記述を見てはじめて、たしかにそうだろうなと思うのである。
 羅生門が死人の捨て場所になっていると冒頭に書かれているのだが、それならわざわざ楼の上にもってあがるより、門近辺にも捨てられていると考える方が自然ではないだろうか。
 「引き取り手のない死人を、この門へ持ってきて、捨てていくという習慣さえでき」てから、どれくらいの日数が経つのだろう。
 「羅生門の修理などは、もとよりだれも捨てて顧みる者がな」い状態なのだから、死人の数が一定数に達すると、誰かがそれを処理してくれるとも思えない。
 しかし下人が目にしたのは、「いくつかの死骸が、無造作に捨ててある」状態だ。
 「いくつかの」の表す数と「捨てていくという習慣」がもたらす数は、矛盾する。
 という違和感が最初からあるからなのだろう。
 下人が「盗人になるか飢え死にをするか」との二者択一で悩むとき、それ以外にもあるでしょ、考えてしまう。
 主人公である下人の悩みは、机上の空論だ。
 もし生身の人間がこの下人の状況におかれたとき、「盗人になるべきか、飢え死にをするべきか」という単純な二者択一はしない。
 近代小説は、基本的に主人公が苦悩することで近代小説たり得るのだが、その苦悩そのものにリアリティがないと、感情移入することができない。
 感情移入することだけが小説を読む目的ではないし、感情移入させることが授業の目的ではもちろんない。
 しかし、しょせんエリートが机の上で、観念でつくった作品にすぎないのだよという視点も提示したいと思う。
 こういう作品をありがたがって、何十年もにわたり高校生の教科書に載せ続け、主題を考えてみましょう、と十年一日の国語をやってて、この先日本はだいじょうぶなのか。
 でも、あんまり聞いてないからいいのかな?(うちの生徒さんがたはみんなちゃんと聞いてくれます)。

 
 
 
 
 
  
 
 
 
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名人

2009年06月03日 | 日々のあれこれ
 本校は、学校中だいたいは掃除ができており、「男子高でこんなにきれいなんですね」と来校者に言われることもある。
 教室は担任が、共有スペースは担当がそうじに気をつかい、それなりに美麗を保っているのは、万が一汚い場合には叱責されるからだ。
 「東階段よごれてるなあ、誰だそうじ監督は」的な言葉が発せられたとき、担当は気づかれないように走ってそうじしにいく。
 そうじ当番のミスであっても許されない。
 「いやあ、今週のそうじ当番つかえないんですよお」などと軽く言い返したりしようものなら、翌日机が無くなっていても不思議ではないのが、私学である。
 ただし、職員室は微妙だ。
 印刷機付近がけっこうちらかってて、ゴミ箱がいっぱいだった。
 責任を問われない箇所は、こんなにいい加減になるのかと思いつつも、それが人の業というものであり、イエローハット社員みたくはなれないものである。
 で、朝ゴミをまとめて捨てようとしてたら、若い先生に「あっ、やります」と言われた。
 おれもまだまだだ。
 「なんでおれがゴミ捨てやんなきゃいけないんだよ、だれかやれよ」的な光線を発してしまっていたのだろう。
 誰にも気づかれずにすうっとゴミ出しにいけないようでは、まだ未熟だ。

 中島敦の「名人伝」という小説は、ある弓の名人の一生を描く。
 天下一の弓の名人になろうと志を立てた紀昌(きしょう)は、名人飛衛(ひえい)に弟子入りし修練を積む。
 数年の後、師からは学ぶものはなくなったと自覚した紀昌は、師を射て自分が天下一になろうと考えてしまう。
 師は、あらたな目標を与えるべきと知り、西に甘蠅(かんよう)老師という大家がい、その人の技に比べればわれらの弓は児戯に過ぎないという。
 紀昌は西に向かう。
 紀昌を迎えたのは、柔和な目をしたよぼよぼの爺さんだった。
 気負った紀昌が弓をかまえ、渡り鳥の群れに向かって矢を射ると、五羽の鳥がおちてくる。
 それをみて老師が言う。
 「ひととおりは、できるようじゃな。しかし、それは射之射じゃ。おまえは不射之射を知らぬようだ」と。
 そして、弓も持たず、矢もつがえず、しかし弓をかまえて見えざる矢を射るかっこうをすると、はるか遠くの空にごまつぶのように見えていた鳥が中空を落ちてくるのだ。
 このとき紀昌ははじめて、芸道の奥の深さを知った。
 この大家のもとで九年にわたる修業をつみ、山をおりてきた紀昌の顔は、以前とは比べものにならないほど柔らかい顔になっていた。
 晩年、紀昌が知人の家である器具を目にする。
 昔手にしたことがあり、何かに使った気はするが、何の道具か思い出せない。
 知人にそれは何かと尋ねるのだが、知人は冗談を言っているのだととりあわなかった。
 しかし紀昌が、本気で弓のなんたるかを忘れていることに気づき、知人は驚くのだった。

 「しょうがねえな、おれが捨てるか」という顔でゴミを捨てているようでは、捨之捨にすぎぬ。
 不捨之捨の境地に達するにはまだまだ修業が足りない。
 教室に行き、ふと黒板付近を目にし、そこあるチョークがいったい何をするものなのか思い出せない状態になってはじめて名人と言える。
 指揮棒で指揮をするなど、児戯に等しいのである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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ROOKIES~卒業~

2009年06月02日 | 演奏会・映画など
 今日体育の研究授業を見て驚いたのだが、体育館ではこの授業一つだったので、とんでもなくスペースをとって授業していた。
 1年生のバスケットボールの授業だ。
 レイアップシュートの練習にコート3面で6ゴール使い、1対1のときは4面つかっていた。
 こんな学校はなかなかないんじゃないかな。
 だから、体育の授業で一番問題となるのは運動量の確保だが、ハード面から解決してしまっている。
 見ていると、生徒諸君はみんなよく言うことをきいて動く。
 これが高校生一般の姿であるとは思えないので、そういう意味でもわれわれは恵まれている。
 42名のクラスだが、このメンバーそのままを、例えば優秀なバスケの指導者が鍛えたとき、県大会の上位を狙えるくらいになるだろう。
 このままの42名を吹奏楽の優秀な指導者が鍛えれば、A部門で県大会上位を狙えるくらいにはなるだろうとも思った。
 ノウハウを持った指導者が、素直に努力できる高校生の集団を指導しさえすれば、ふつうに結果はついてくる。
 映画「ROOKIES~卒業~」が感動的な作品であることはまちがいないのだが、熱血教師が熱血だけの一年ちょっとの指導で甲子園に出られるという設定に違和感をおぼえてしまうと、心からは楽しめなくなる要素もあるといえる。
 二子玉学園ナインが、甲子園出場をかけて決勝を戦ったあいては、笹川高校という甲子園の常連校だ。
 優秀な指導者と情熱に燃える部員とが合理的かつ厖大な努力を積み重ねないかぎり、全国大会の常連にはなれない。
 それは吹奏楽の世界からかんたんに類推できる。
 「夢をあきらめるな」という強い思いだけで勝てる相手ではない。
 ぜったい甲子園にいく、普門館のステージに立つという強い思いをもっている高校生は何万人もいる(ほんとに本気なのは何千人かな … )。
 あきらめない気持ちを持ち続けるために必要なのは、やはり上達のスキルと練習量なのだろう。
 だから、試合のシーンだけでなく、それを支える他の場面ももう少しあってもよかったかなとも思ったが、2時間の作品にそこまでもとめるのも酷かもしれない。
 現役高校教師的視線からもう一つ言うと、卒業式が騒然としてしまうタイプの高校の場合、ふつう部活動はそれほど盛んではない。
 4月の新入部員勧誘の時期に、いろんな部活やサークルがチラシをくばり旗をたてて新入生をよびこむシーンがあったけど、現実にはこういう光景はなかなか存在しないのだ。
 でもじゅうぶん楽しかったし、泣ける。
 卒業式の日、二子学ナインが川藤に一人一人わかれの挨拶をする。
 「熱中時代」で北野広大が一人一人の思い出を言いながら別れを告げるシーンの逆パターンで、心にせまるものがあった。 



 
 
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風評被害

2009年06月01日 | 日々のあれこれ
 関西の方で休校していた学校がだいたい再開しているようだが、もうほとんどの人は興味を失っているようですね。
 埼玉県でも、修学旅行を中止にした中学校がたくさんあってかわいそうだったが、今日県の方からお達しがきていたようだ。
 いわく「新型インフルエンザによる修学旅行の中止はしないように。中止した学校はできることなら時期をかえて実施するように」との内容だ。
 まあ、お役所の仕事ですわ。
 中止はいきすぎとの世間の声が大きくなってきたからだろう。
 中止したのは学校であり、われわれが無理強いしたわけではありませんということでもあるのかな。
 関西大倉中学高校が再開するにあたり、風評被害を警戒し、私服での登校も認めているという。
 つまり「関西大倉のやつらはあぶないぞ、近づくな」的なことをいう輩がいまだにいるということなのだろう。
 インフルエンザ患者のいる学校に「指導がなってない」「責任とれ」と電話する人たち。
 感染した人たちをせめる風潮。
 病んでる。
 行政のひとたちは、人権のDVDつくってる暇あったら、現場にでてこういう状況下で何をやるべきかを模索してほしいものだ。
 2兆円を給付金にしてばらまいて、気がついたら14兆円とかの補正予算が可決されている。
 何百億もかけて各省庁にエコカーやテレビを購入する。
 百何億でマンガ記念館をつくる。
 だいたい億っていくらなのだろう。
 ハープ何台買えるのか。カツ丼何杯食えるのか。
 日本中いたるところで病んでいるのはまちがいないのだが、なすすべなし。
 せめて教え子達に立派になってもらい、なんとかしてもらうしかない。
 
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