水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

12月20日

2009年12月20日 | 日々のあれこれ
 昨日終業式をしてしまったので、今日から冬期休業である。
 机の上の山が整理できさえすれば少しのんびりした気分になれるかもしれないが、まったく見通したたず。
 練習の方は、今日は休みも少なく午後はずっと合奏できたので、少し曲がすすんだ。
 部員、顧問ともにそろっているのが一番いい状態なのだと、あたりまえのことを再認識した。
 レッスンに来ていただいている先生をお見送りするとき「よいお年を」とごあいさつする。
 年の瀬になってしまった。丑年も終わりだ。
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「以」の用法

2009年12月19日 | 国語のお勉強(漢文)
 頻出の文字だが、意外と整理されないままになっている文字。
 3年生は確認してください。
 昨日預かった3年の添削問題を見たら、ほりうち君はじめあまり訳せてなかったようなので。

1 「以」は前置詞。
  「与~(=with)」「為~(=for)」と仲間。
2 漢文では、前置詞句はVの前に置かれる(「於」は例外)。
   与彩登山。 … 彩「と」山に登る。
   為恵梨香作餃子。 … 恵梨香の「為に」餃子を作る。
3 「以」はbyのイメージ。
   以参考書学漢文。 … 参考書を「以て」漢文を学ぶ。
4 「~を以てVす」が基本形だが、評論文では倒置法が頻出する。
   学漢文以参考書。 … 漢文を学ぶに参考書を以てす。
   こっちの方が英語的でわかりやすいかもしれない。
5 訳し方は倒置の場合も同じで「~で~する」。
6 「以之V」の「之」が省略され「以V」となっている時(返り点がつかない場合)は、訳さなくてもいい。

 まとめると、
 「~を以てVす」「Vするに~を以てす」はともに、
 「~を・~で・~によって … する」と訳す。
 返り点のない「以」は訳さなくていい。どうしても訳したかったら「そして」かな。

 

  
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「結局、女はキレイが勝ち」

2009年12月18日 | おすすめの本・CD
 「やればできる」に続いて読んでしまった。
 勝間さんの本を読めるのは元気な証拠だ。
 どうにもピッチがあわなくて、曲にならなくて、どうしていいかわからなくて、それでも大丈夫おれについてこい、と粘り強くやれるうちは、勝間さんの本が読める。
 ときどき心が折れかかり、香山リカさんの本をぱらぱらするときは、無理しない方がいいときだ。
 今はぎりぎり読める状態かな。
 勝間和代というだけで、本も読まずに批判する人もいるくらいメジャーになってしまった人だから、この本には相当いろいろ文句を言う人がいるだろう。読みもしないで。
 でもね、読めば頷かざるをえないことばかり書いてある。
 人間ほんとうのところをつかれるのが一番イタいものだが、この本の一節(または全節)に反発する気持ちがうまれたとき、それは自分の一番イタイところをつかれた時だ。

 考えてみると、これまでも彼女はほんとうのことしか言ってない。
 結果が出ないのは努力してないだけだ、と。
 みんなわかっているのだ。
 心の底では分かり切っているからこそ、素直な人は読んですぐ行動するし、そうでない人は理屈をこねる。
 または香山さんの方にいく。

 たとえば、「やはりかわいい子を選びます。だって性格がいいから」とある男の人が言ったと書いてある。
 これは男の本音であろう。
 もっと言えば、誰だって、気だてがよくて、見た目がアイドルで、スタイルがよくて、ノリがよくて、でもいやしてくれて、家庭的な面もあって、ときどき甘えてくれて、でも甘えさせてくれる子とつきあいたいよね。
 ちがうかい、男子しょくん。
 でも、自分だけそんなうまい具合に人生が運ぶわけはないのをよおくわかっていて、あの子はすっごい美人だけどきっと性格良くないよ、なんて言ったりする。
 それで、それなりの子と、あの子はおれが支えてあげないといけないから、なんて理由をひねりだして、つきあったりするんじゃないだろうか。
 理由以前に好きになってしまっていた、と多くの人は言うだろうが、たぶん各人の脳は、無意識のうちにものすごい計算式を使って一瞬にして理由を編み出し、その直後に「一目惚れ」させてるというのが本当のところだと思う。
 勝間さん本の主旨からはずれてきてしまった。

 勝間さんという方は、高度資本主義社会の最先端を生きている方だと思うけど、一方で「世間」なるものもちゃんととらえて、机上ではなく現実の娑婆を生きていらっしゃると思う。
 そこが大学の先生の書く本とは異なるし、従来の「成功本」と一線を画す部分ではないか。
 カツマーを宗教的信者と評する人はいるけど、実はカツマ教ではなく「おばあちゃんの教え」に近い。
 それがたまたま高度な資本主義的価値観とも整合できる地点で結びついたもので、そういう意味で日本における理想的なポストモダンを勝間さんが歴史上初めて体現したと思うのだ(一文、長!)

 「能力と仕事だけで『何とかなる』は大間違い。」
なんて、まさしくそれだ。
 勝間さん自身、仕事ができれば文句ないでしょ、という人生を一時期歩み、娑婆というのはそういうものではない、理屈じゃない、近代的価値観だけで説明できるものではないと気づいてから、新しい人生がはじまった。
 
 宇佐美寛先生の教えも同じだ。
 自分のやりたいことを通すためには、根回しも大事であり、相手に対する敬意、あいさつ、服装、言葉遣いが大事であると。
 自分の「志」がほんとうにかわいいなら、その「志」を実現するために、頭を下げるくらい何でもないはずだとおっしゃっていた。 そのご論考は極めて論理的で一点の隙も見せない文章を書いていらっしゃるが、生き方はこうなのである。

 音楽家にしても、純粋に自分の実力だけでおまんまを喰っていける人はほとんどいない。
 神の域に達しているごく限られた方達のみ、大人の生き方ができなくても仕事はもらえる。
 同じくらいの実力ならば、やはり人当たりのいい方に、仕事がまわってくるのは当然だ。

 見た目をよくするのは相手に不快感を与えないため。
 そんなことに気をつかえないようで、いい仕事などできはしない。
 それは、仕事というものが、けっきょく他人とのコミュニケーションの上にしか成立していないからなのだろう。

  … なんて偉そうに書いてしまったが、若いうちはなかなか納得できない面もあるだろうね。
 でもそれが娑婆というものなのです。
 だから部活でも、演奏以前に、あいさつや返事や片付けをちゃんとやろうと言うのです。
 
 
 
  

 
 
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アンサンブル

2009年12月17日 | 日々のあれこれ
 アンサンブルのチームをいくつかみたが、予想してたほど悲惨な状況ではなく、それなりに譜面は読んでいた。
 でもまだまだ音符を音にしただけであることにはちがいがない。
 これをどう音楽にしていくか。
 一つ一つの音符をどう吹くか。
 どの音符からどの音符をひとまとまりにするか。
 それをどういうイントネーションで話すか、唄うか。
 「こんにちは、元気ですか?」を「こんにち、はげんき、ですか?」と吹かないようにする。
 こういう時は明るい声で言おうとと教える。
 直接書いてないけど、こういうお約束があるんだよと教える。
 国語の授業と似たことをやっているなとつくづく思う。
 もし数学の先生だったら、音楽を教えながら、数学と同じだよなと思いながら教えるのではないだろうか。
 音楽も、たとえば美術作品も、国語も数学も、アプローチのしかたはちがっても、つまるところ、やろうとしていることは同じじゃないだろうか。

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何のために

2009年12月16日 | 日々のあれこれ
 何のために勉強するのかに答えがないのと同じくらいに、何のために働くかにも答えはない。
 人が人であるからとしか答えられないのだ。
 内田樹先生のブログに書いてあった。

 ~ 人間だけが労働する。動物は当面の生存に必要な以上のものをその環境から取り出して作り置きをしたり、それを交換したりしない。ライオンはお腹がいっぱいになったら昼寝をする。横をトムソンガゼルの群れが通りかかっても、「この機会に二三頭、取り置きしておこうか」などとは考えない。「労働」とは生物学的に必要である以上のものを環境から取り出す活動のことであり、そういう余計なことをするのは人間だけである。 ~
 
 この具体例には、ものすごく納得できませんか。

~ どうして人間だけがそんなことをするのか。それは「贈与する」ためである。ほかに理由は見当たらない。もし、腹一杯のライオンがそれでも獲物を狩ったとしたら、その獲物は誰かに(仲間のライオンかハイエナか禿鷲かあるいは地中の微生物か)「贈り物」として与える以外には用途がない。 ~

 なるほどねえ。

 ~ 「働く」ことの本質は「贈与すること」にあり、それは「親族を形成する」とか「言語を用いる」と同レベルの類的宿命であり、人間の人間性を形成する根源的な営みである。 ~

 だから「どうして働くの?」という問いは、「人間てなぜ人間なのですか」と問うのと同じになってしまうと先生は言う。
 では、なぜこのような問い(「なぜ働くの?」)が、今あちこちで発せられているのか。

 ~ それは「働くことは自己利益を増大させるためである」という歪んだ労働観がひろく定着したせいである。働くと、その程度に応じて、権力や威信や財貨や情報や文化資本が獲得される。だから働け、というのが近代固有の労働観である。 ~

 「先生、なぜ働かないとだめなんですか?」
 「なんでって、はたらいてお金が手に入れば、いい暮らしができるじゃないか」
 と、われわれは答えたりするけど、それは近代的なものの考え方だというのだ。
 この考え方だと「うちはお金に困らないので、就職しなくていいですか?」
 と聞かれたら、「ああ、別に … 。どうぞ」というしかなくなる。
 教育者たるもの、それでいいのか!
 仕事というのは、お金のためだけにするものではないと言えてはじめて、人にものを教えられる存在だ。
 なぜ勉強をしないといけないのか。
 なぜ部活をやるのか。
 本質は同じではないかと思う。
 それをやることで、自分にどんな利益があるのかを第一に考えたなら、理論的に納得できる理由を見つけるのは難しい。
 部活など、その最たるもので、たくさんの人が莫大な資源をつぎこんでいるけれど、そこから何か具体的な利益がうまれるのかと言われれば、形あるものは何も生まれないとしかいいようがない。
 努力の価値、頑張れる力、協力する喜び、ひとつのものを造りあげる感動、人としての成長 … 。
 いろんな言葉で部活の意義は語られるが、定量的な何か、数値におきかえられるような価値、つまり近代的価値、資本主義的価値は生まれない。
 資本主義的価値観であらゆるものごとをとらえる人にとっては、部活など非合理で、不条理で、無価値なものに見えてしまうのは当然だ。
 ここ数年、最近そういう感覚の生徒さんに接する機会が増え、さらに、そういう考え方をされる親御さんと出会うことが多くなった。
 つまりわれわれ世代の問題だ。
 根本のところで価値観が異なる場合、心を通じ合えるのはなかなか難しいものだ。
 わかってもらえないだろうなあと思いながらも、旧来の活動をしていかねばならないのである。
 
 
 
 
 
 

 


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答案返却

2009年12月15日 | 日々のあれこれ
 期末考査の答案を一気に返却する日。

 大学入試の結果は普段の勉強の積み重ねである。
 なあんてことを誰もが言う。
 生徒さん方も繰り返し耳にしているはずだ。
 でも、それを本気にしている子がどの程度いるのだろう。
 今はまだあまり頑張れてないけど、3年になれば本気で受験勉強に取り組むつもりで、そうすればきっと模試の成績も上がるし、入試も結果が出るんじゃないかと漠然と考えているのではないだろうか。
 テストの○つけをしていると、そんな心配がふつふつとわきあがってくる。
 なので、くりかえし「定期考査の勉強をちゃんとしよう」と話す。
 今日も、そういう学年だよりを書いた。
 昔は、わたし自身、学校の勉強と受験勉強は性質が異なる面があると思っていた。
 実際に、学校の成績はいいけど模試ではまったく歯が立たないという生徒さんもけっこうみかけたから。
 でもここ数年、少なくとも本校については、学校の成績=受験の実力という図式が成り立つ。
 普段の定期考査で80点平均をとっている子は、センター試験で8割をとる。
 学校の勉強はほどほどにしておいて、自分独自の受験に向けた勉強をしようとする子はいる。それで期末や中間はたとえば5割ぐらいしかとれてないとすると、センターでも5割しかとれないのだ。
 もちろん超進学校の場合はまた事情も異なるのだろうが。

 何のためにこんな勉強をするのだろうとか、なんで大学に行かないといけないのだろうと悩むことも必要ではある。
 若いから。
 でも悩んでも答えは出ない。
 本質的に答えはない。
 なぜと言われたら、人間だからとでもいうしかない。
 悩んでもいいけど、そういうものなんだろうなぐらいに考えて、しょうがないやるか的なノリでもいいので、やった子は結果が出る。
 自分にやる気が出ないからといって、そういう悩みモードに入ろうとするのは(おれも昔はそうだったけど)、やはりごまかしであり、逃げなのだと思う。
 
 
 
 
 

 
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DVD鑑賞

2009年12月13日 | 日々のあれこれ
 全国大会のDVDを練習の最初に少しずつ観ることにしている。
 春日部共栄さん、精華女子さん、淀川工科さん、習志野さん、大阪桐蔭さん、東海第四さんと観てきた。
 どの学校さんもまさに圧倒的だ。
 もし普門館で聞いていたら、あの学校にしては今年は少しよくないかなとか、個人的趣味としてはちょっとちがうななどと思ったかもしれない。
 しかし、コンクールからずいぶん時間が経ち、真っ最中の当事者よりも離れた視点に立ったとき、全国金賞団体とは、まさに桁違いの上手さだ。
 演奏そのものと、その演奏の背後にある莫大なものが画面からうかんできて、圧倒される。
 
 人はものまねによって多くのものを学ぶ。
 というか、学びの基本はものまねだ。
 ミラーニューロンという脳細胞がその働きを担っていることが、最近の研究で明らかになってもいる。
 まず観ること。
 考えてみると、初心者軍団であるということは、みんなでいろいろ工夫して真摯に素直にとりくんでいけるという点はプラスに考えられるが、圧倒的に上手な先輩が多数は存在しない点はマイナスだ。
 もっともまねしやすい対象が少ないから。
 レッスンの先生にはそんな頻繁にはおこしいただけないし。
 ただすごいなあではなく、問題意識をもって観られたらなおいいと思う。

 
 
 
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土曜日

2009年12月12日 | 日々のあれこれ
 冬期講習に三日目、授業開始10分ぐらいで「先生、今日ノってますね」と生徒に言われた。
 やっと土曜にたどりついたという思いが、口調の軽やかさに出てたのだろう。
 まだまだ名人伝の境地にははるかに達しない。
 午前に講習を2コマ。
 1組はいつもの延長だが、5組はふだん漢文だけを教えていて講習は古文なので、けっこう気を遣って、というか気をこめてやっていて、終わった後ぐったりくる。
 午後は、合奏と採点。
 採点の〆切も近づいてきて苦しかったが、なんとかなりそうだ。
 今週ものりきれたかなと思っていたら、チャリーズもわりと早く鍵をもってきたので、すばやく退勤し、なんとなく南古谷ウニクスに寄ってしまった。
 いつもとちがい、映画館のチケット売り場に人がならんでいる。
 いったい何ごとかと思ったら、「ONE-PIECE」の公開日だったのですね。
 掲示板をみると、軒並み満席になっている。
 はじめてみた。
 せっかくなので「理想の彼氏」を観たら、予想以上に楽しかった。
 ラブコメは、洋ものがいい。
 邦画だと、なんかせつなさが前面に出すぎてしまう。
 客席はたぶんおれとカップル2組との計5人だったんじゃないかな。
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5億円

2009年12月10日 | 日々のあれこれ
 今年の映画ベスト3など決めようかなと考える季節になったが、東京都の作ったオリンピックのPR映画が製作費5億円という記事には驚いた。
 たとえば「ブラック会社に勤めてるんだが、俺はもう限界かもしれない」(マイコかわいかった!)の制作費っていくらくらいだろ。
 5億円かかっているのだろうか。
 昨年度末の予餞会で上映するのに学年で作った映画は、制作費5万円ぐらいだったと思う。
 ただし出演者はノーギャラだし、BGM用に買ったCDなどは自腹なので、そういうのも含めればもっとかかっている。
 バッティングセンターロケの費用も入ってないな。
 400名以上の卒業生に45分楽しんでもらえたと思うから、コストパフォーマンスは高い。
 石原都知事も電通ではなく、わが学年団に依頼してくれれば、もう少し安くつくってあげられるのに。10分でいいんでしょ。
 まあ都民のみなさんは心が広い。
 この5億を、たとえば10分割して、都内に住む才能ある若手映画監督にあげたら、いつかきっと面白い作品に出逢える。
 オリンピック招致にかかった百数十億を、全部そんなふうに使ってたら、オリンピックを呼ぶ以上に、文化的にもりあがったこと間違いない。
 
 
 

  
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況んや松井をや

2009年12月09日 | 国語のお勉強(漢文)
 試験前、ある生徒さんのノートがすごくきれいにまとめられていて、きれいにまとめてあるなあと感嘆の声をもらしたものの、一番書いてほしいことが書かれてなくて、ただちに全員に確認し、書いてもらった。
 漢文「隗より始めよ」での話だ。
 「況んや~をや」の解説をした。
 「Aすら且つ~、況やBをや」という、専門用語で「抑揚形」と言われる表現だ。
 黒板に当然この句法をまず書く。
 そして例文をあげて読めますかと問うた。
 ここで写させて、自分で訓点をつけてみなさいとするべきだった。
 「新庄且活躍、況松井乎」という例文を使った。
 これこそ、ノートしないといけないのだ。
 教科書にも参考書にも書いてないことなのだから。
 公式だけ写せばいいのなら、プリントして配った方が早い。
 大事なのは具体例だ。
 
 ちなみに今使っている問題集には、
「Aすら且つB、況んやCをや」と説明されている。
 すぐれた格闘家は、すっと対峙した瞬間に相手の技量を見抜く。
 ステージに入場してきた雰囲気でバンドの力量がわかるのと同じで。
 このページをみたとき、問題集を作っている方のおおよその技量が垣間見えた。
 次元をそろえて、または意図的にかえて、言葉をつかえるかどうかが、説明の基礎である。
 AとBとが△で、aとbとは□なんだよ、って整理してあげることを説明とよぶ。
 抑揚形は、AもBもx(エックス)なんだけど、Bの方がよりxだよね、と言わねばならない。
 代ゼミの宮下先生は「Aすら且つ~、況んやA’をや」と言うくらいだ。
 これだと差が少なすぎる気がして、A、Bを使っているが、その後にCはもってこれない。 
 「新庄すら且つ野茂、況や松井をや」になってしまうから(なんとなく通じそうだけど)。
 
 わかっているかどうかは、どれだけ具体化できるかだ。
 これはわが師、宇佐美寛先生にお教えいただいた。

 楽譜も、いかに具体化していけるかなのだろう。
 目の前にある音符の羅列はかなり抽象度が高い。
 数学に近い。
 音符を読み、フレーズを理解し、表現記号の意味をつかみ、自分でビジュアル化しという基礎作業をまずやる。
 うちの部は、ここでまずつまづく。
 さらに、そこから具体的な映像が浮かび上がるくらいになったなら、音楽が生まれてくる。
 
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