昨日の野球応援の初戦は、たぶん初めて行く所沢球場。
応援席にイスがなく芝生だったから、かえって照り返しが少なくて過ごしやすかった。
初回いきなり1、2番打者に連続ヒットを打たれ、大丈夫かと思ったが、落ち着きをとりもどしたながい君が後続を断ち、2回以降は危なげないピッチング。
埼玉屈指の進学校で男子高同士の戦いは、おかげさまで5回コールド勝ちできました。
それでも、日陰のまったくないこの球場で、9回までまるまるとか延長とかになったら、正直きついだろうなと思う。
案の定、学校にもどったあとは、やたら元気な子と、ぐったりしている子と二分化してた。
学校にもどって冷房がついててよかった。
節電も大事だけど、必要なときは冷やさないとかえってお国のためによくないだろう。
妻がパートに出ているスーパーでは冷房をつけてないという。
生鮮品の冷蔵パワーがものすごく、なしでも過ごせるかららしいが、冷房をつけると文句を言うお客さんがいるのもその理由の一つらしい。
節電節電と言い出すと、それで思考停止してしまって、節電しない人は人にあらず的な感性になってしまうのだ。
日本人らしいではないか。よその国は知らないけど。
戦争中に、戦争負けんじゃね? などと言おうものなら、よってたかって非国民となじられたのと同じだろう。
「電気が不足します」という情報が大本営発表と同レベルのものであるのも同じだ。
今日は一日練習。最初の集合で「時間が長いけど集中していこう」と部長がげきをとばす。
終わってみると、ぜんぜん時間が足りない。
ただ、この感覚を部員全体でどの程度共有できているか、正直不安だ。
明日、二回戦にいってきます。
さて、野球応援の練習もはじまった。
本音を言えば、この時間をコンクール練習につかえたなら、と思わないでもない。
しかし、費やす時間でははかれないものを手に入れられる面がたしかにある。
応援がやってみたくて入部した子もいる。
日頃学校中を使わせていただいているのだから、その恩返しにもなる。
どうせ行くのなら、昨年以上に応援させてもらいたい。
足りない楽譜を購入するためにミュージックエイト社のホームページをみてたら、野球応援「黄金の9箇条」というコラムが載っていた。
【第1条】音を出していいのは「攻撃」の時だけ
【第2条】3アウトになったら、途中でも即演奏中止
【第3条】「旗」は掲げたら最後、試合終了まで微動だにさせてはいけない
【第4条】木管楽器を使用する以上、覚悟が必要
【第5条】グラウンドへ向けて吹いてはいけない
【第6条】水・後頭部・楽器の三つを保護せよ
【第7条】「打楽器」禁止だったらペットボトルを使え
【第8条】決め所は1・7・9回の攻撃開始時
【第9条】勝っても負けても、エールを忘れてはいけない
国語の先生的視点からは、次元の異なる内容をたんに羅列しただけではだめですよと言いたくなるが、参考になる。
とくに7条。4条でも注意されているので、木の楽器の子は原則居残りにしてるが、応援組に加わりたかったら、ペットボトルをもってきてもらおう。
6条も大事だな。
応援から帰ると、もう練習できない状態になってしまうことも多々あるのだが、なんとか体調管理をして、本来のやるべきことも着実の進めていかねば。
2チーム制にして交代で演奏する方式を今年はとってみようかとも思っている。
チームK(かわごえ)とチームH(ひがし)かな。
3条は、応援団のない本校には関係ないが、なんとも古風な教えだ。
どおくまん『花の応援団』をつい思い出してしまった。
こういうしきたりは、誰かがいいだすと、一人歩きする。
何年も前になるが、「かっとばせ~○○、( )倒せ~」と、( )に相手高校名を入れて野球部さんが声援を送っていた時があった。
どこ高校だったけな。
そしたら、途中で向こうの応援団の方(高校生)がおれのとこに話があると言ってきて「倒せ」は失礼だからやめてください、ふつう言わないものです、と意見する。
誰に対しても謙虚なこの俺様のことだから、申し訳ありません、そのしきたりを知らなかったのでご勘弁くださいと「どげせん」のごとく謝ったのだった(なぜに俺が)。
「倒せ」を言わないのは、今すっかり浸透してるし、あえて言おうとは思わないけど、言ったってよくね? 倒さなきゃ勝てないんだし。
9条。試合後のエール交換。本音では負けた上に相手を讃えたりしたくないし、一分でも早く退出するのが本当はいいのだ。
わたし的には、応援おたがいお疲れ様でしたの気持ちで、相手校の顧問の先生方に向かってお辞儀をして帰ることにしている。
試験最終日。三年生は試験後に大学の説明会。
先々週のロングの時間に1セット目を行い、2セット目の今日は、うちらは他校と一緒くたのはやだ、別の日にしてというスタンスであった早慶さんの説明会だ。
わざわざご来校いただいているのだから、文句を言う筋合いはないのだが、大事な生徒さんを二時間弱も拘束してしまったことを思うと、今後の企画の見直しを進路指導部に申し入れたいと思った。
早慶を受けない子も含めて全員残して話を聞いてもらう我々としては、話を聞くことによって、大学ってどういうところか、大学は自分たちに何を求めているのかを感じ取ってほしいし、説明会に来てくださった大学を受けるかどうかは別にして、もっと勉強しようという思いを抱いてほしいのだ。
そういうことを感じさせる方もいれば、そうでない方もいる。
大学の問題というよりは担当の方の問題なのかもしれない。
今日の二大巨頭であらせられる早慶さんの方のお話を聞きながら、ほおっておいても受験生の集まる大学さんのお話だなとの感想をもってしまったのだった。
大学はブランドで選ぶのではなく、やりたいことができる大学かどうかを調べて入ってほしいと早稲田さんがおっしゃられたり、就職は結果にすぎません、就職のために大学にきてはいけませんと慶応さんがおっしゃられたら、
もし自分が他大学の入試担当だったとしたら(仮定法過去)かるく殺意を抱いてしまうかもしれない。
でも、本校の3年生はほんとにみんないい子たちだ。
ちゃんと話をきき、反応もしてあげてるし。学年主任一人ふてくされてるのはおかしいな。
現代文の評論の読解は、筆者の言いたいことは何かをつかむことが目標だ。
言いたいこと。その文章で一番大事なところ。その文章を書かせる原動力。
主題とか主旨とも言われる。
主題も主旨も要旨もテーマも、人によって使い方が異なるという不思議な世界がこの国語業界だ。
出口氏は「主張」と言い、藤田先生は「イイタイコト」と言い、古くは高田瑞穂先生が「たった一つのこと」と言った。
言い方はなんでもいいとしよう。
小論文の添削をしてて、とにかく一番書いてほしいこのことを書いてくれない子が多い。
その原因はおそらく2種類。
a そのことが一番大事だとわかってないこと。
b おぼろけにわかっていても、それが大事なこととして立ち現れるような書き方を身につけてないこと。
言いたいことをつかんでもらうための方法を、上記の先生方はじめ我々は模索してるのだが、その一つの方法として、思いついたネーミングがある。
「『切実なる思い』をつかめ」
「イイタイコト」「たった一つのこと」よりも、さらに切実度を増してみた。
どんな文章でも、それが書かれなければならなかった理由がある。
原稿料を稼ぐためという重要な別次元のものは置いておく。
文章を書く人には、原稿料など入らなくても、どうしても書きたい何かはあるはずだから。
その文章が書かれたのはなぜか。
筆者はなぜその文章を書かざるを得なかったのか。
要約文を書くときには、まずそれを考えなさいということを第一に添削している。
「思い」をみつけたなら、そこが要約のメインになるのは当たり前で、メインの内容がそれだとわかるために、その他のすべての部分が使われてないといけない。
だとしたら、誰でも言えるような一般的な内容は、わずか200字のなかに書く必要はなくなる。
入試で出題された文章の場合、筆者がどうしても書かざるを得なかった内容と、出題者の読みとってほしい内容とが当然重なる。
多くはおじさんである書いた人と、多くはおじさんである出題者が、何をみんなに読ませようとしているのか。
その「切実なる思い」をせいぜい酌み取ってあげるべきだ。
それが国語の勉強だ。
唯一の文句を言わせてもらえるなら、2チームが別れた後のお兄ちゃん側の男子に、恵ちゃんよかったなと言ってほしかったな。いや、おれは絶対かんなちゃんだとか。
この男子たち、旅に出る前は図書館司書の長澤まさみちゃんにぞっこんだった。
一人の夢は当初まさみちゃんとの結婚だったのだ。
ところが、旅に出る日に仮病での早退を手伝ってもらったあと、保健の先生もいいと言い出す。
ばかだよね、男子って。いや、男って。
だいたい男子というのは、いったん女性を好きになるとそのままでいる。
なので、長年生きていると、そういう方が増えてこまる。
女性はたぶんファイルを上書きしてしまうので、同じ気持ちをひっぱりながら久しぶりにあう時のテンションのちがいに寂しくなることがあるものだ。あ、一般論で。
恵ちゃん役の子の印象が強かったので、調べてみたら、おくりびとの本木さんの娘さん、つまり樹木希林のお孫さんだそうだ。
役名は恵ちゃんではなく恵美ちゃんだった。
栴檀は双葉より芳しとは、まさにこのことではないか。
将来が楽しみだ。
昨夜は、学年の呑み会。
お誕生日であることをアピールして無理矢理祝ってもらった。
XJapanの歌をキーを下げざるをえなくなっていた老いに哀しみはおぼえたものの、さらなる奇跡が許されるならば、もうしばらくこの世においていただき、若い役者さんたちの育っていくところを目にしてみたいものだ。
「今の時代、自分のすきなものだけ作ってられる人がどこにおる」
今は店をたたんでいる和菓子職人だった旦那(主人公のおじいちゃん)に言う樹木希林さん(主人公のおばちゃん)のセリフ。
希林さん自身て、どうだったのかな。スクリーン上ではなく現実の世界で。
今でこそ仕事を選べる大女優さんだと思うが、これまでの人生をふりかえった時、きっと苦労したこともあっただろうし、意に沿わない仕事だってずいぶんやってきただろう。
あくまでも推測だけど、そうでなかったら、こんな自然にこの台詞が出ないし、深みは現れないのではないかと思うのだ。
「ピンク色のかるかんなんか作れっか」という橋爪功さんしかり。
「周ちゃん(橋爪さんの役)の気持ちわかるよ」と言う原田芳雄さんしかり。
このレベルの役者さんでさえ、自分のやりたいことだけを100%満たした人生を送ってきたわけではないと言うだろうし、それは今でさえ同じと言うかもしれない。
功成り名を遂げた役者さんでさえそうだとしたら、普通に娑婆を生きる一般人が、好きなことだけで生きていけるはずがない。
自分の好きなことをやりたいことを見つけて、それを職業にするために学部を選び、大学を選べという脳天気な進路指導は、世間を知らないか見えてない学校の先生のたわごとだ。
それでも男は、矜持を守り、夢を捨てきれず、意地を通そうとする。
橋爪功演じるおじいちゃんは、昔ながらのやり方でしか「かるかん」を作らないし、オダギリジョー演じる父親はバイトしながらバンド活動をつづけている。
男が追い求めるものは時に、家族をも犠牲にしたときに立ち現れる「世界」なのかもしれない。
しかし、リアリストである女性に、その思いは伝わらない。
女性は基本二種類だ。
「世界」を追い求める人を愛せないリアリストと、「世界」を追い求める人しか愛せないリアリスト。
現実から目をそらして夢を追い続ける父に嫌気がさして離婚した主人公の母親は、前者だった。
別れたあと、兄ちゃんは鹿児島の母の実家へ、小学校4年の弟は、ギター弾きの父親と博多に住むことになる。
ある日お兄ちゃんは、全線開業する九州新幹線の上りと下りがはじめてすれちがう瞬間、ものすごいパワーが生まれて奇跡が起きるという噂を耳にする。
なんか、あったよね、こういうの。小学校のとき。
都市伝説なんかもそうだと思うけど、突然どこかからわいてきて、けっこう本気でみんなが信じてしまうような噂。
いや、信じてはいなかったか。
小学生ともなれば、もちろん信じてはいないのだけど、もしかしたらって考えてしまい、本気で夢想できる時代。
おれだって、昔ぜったいUFO見てるし。4年のとき、飼育小屋のとこで。
お兄ちゃんはその奇跡を起こすべく計画を立てる。
仲間とお金をつくり、弟に連絡して、熊本県の川内市ですれちがう瞬間に遭遇しようとする。
桜島の大噴火という奇跡が起こり、九州では暮らせなくなった家族4人が再び大阪にもどるというのが、お兄ちゃんの計画だった。
家族が離れて暮らすことも、火山灰の降る街で暮らすことも、すべて納得できない航一(なまえ思い出した)の願う一大奇跡だ。
弟の龍之介は、もちまえの明るさで、父との二人暮らしを乗り越えていて、いつも遊んでるのが3人の女の子という、うらやましさだ(本気でうらやましく思ったおれってなんなんだろ。
兄からの電話をうける龍之介をバックアップし、自分たちもそれぞれ奇跡をかなえようと出かけることになる。
それぞれの思いをもつ7人の少年少女たちの出会い。
綿密に計画を立てているようで、どこに泊まるのかさえ考えてない子供らしい無鉄砲な旅。
積み重ねられていく一つ一つのシーンから、恥ずかしくなるくらいの懐かしさやいとおしさを感じられた。
すれ違い目撃前夜、たまたま泊めてもらうことができた民家の縁側で、背中合わせになって身長を比べ合う兄弟のシーンは、今年の白眉だった。こうやって書いてて泣きそうになるくらいに。
子ども達のたくらみを、それと気づきながらやさしく見守る大人たちに支えられて、子ども達はあぶなっかしい旅を終え、それぞれに世界の現実に近づき、それを受け入れようとしていく。
これを成長というのだろう。
一つ思ったのは、役の上で子ども達を見守る大人たちの目線が、現実とも重なって感じたのだ。
きっと撮影現場では、一生懸命に演じる子どもたちを、あたたかく見守る大人がいただろう。
つまり役者の卵を見守る、名優達の目線という形で。
きみたちもがんばれば、おれたちのような役者になれるよ。
きっと辛い思いもたくさんするけど、こっちだってまだまだ途上のつもりだけど、こっちにきてみなよ、的な。
龍之介の友達で恵という女の子がいて、この子は女優を目指している。
昔女優を目指して夢破れ、今はスナックを経営する母親役の夏川結衣が娘に言う台詞。
「本気? あんたなんか、女優になれんたい。ほんとに本気? 人をけ落としていくあつかましさがないとなれんよ。あんたみたいに人のいい子には」
こんな台詞にも、なぜか現実の夏川結衣さんが重なってしまうのだ。
そういう目でみると、他のシーンにも何重かのメタ性がかいま見えるような気がする。
まあ、でもすべてのシーンがここまで愛おしい作品て、ほんとに奇跡的だと思った。
是枝監督、いっこ下だけど、もう押しも押されぬ大監督でしょ。
先々週ぐらいの週刊文春の映画評ではあんまり星がついてなかったけど、あの人たち映画評論やめた方がいいかもしれない。
ちょっと理屈をこねた洋画だとけっこういい点つけるんだよなあ。植民地根性の抜けない人たちだ。
さて、是枝監督のいっこ上で、今日50歳になりました。
実感がわきませんが。
まさか50になった時点で、こんなに中身に成長がない自分は予想できなかった。
でも、60歳にもなった国会議員が、復興大臣という立場で東北に出かけ、おまえら自身でしっかりやれなんて言っているのを知ると、そんな人に比べたらよほど自分は成熟してると思うし、十分かなとも思う。
すべての奇跡に感謝したい。
試験前の部活のない貴重な日曜は、試験問題づくりと添削と塾の説明会という充実した内容だ。
いえ愚痴ではありません。
200字要約を読んでいると、どれくらい読めているかがほんとにわかる。
とくに一文と一文とのつなぎ方にそれが現れる。
授業で読んだ教科書教材の要約だから、書くべきことば、書くべき内容は、そう大きくははずさない。
AとBとCを書けばいい。
ただし、AでありBだからCとするのか、AだからBと言えCにもあてはまると書くのか、そこに理解度が現れる。
要約は国語力がつくとよく言うが、むしろ国語力がよく現れる。
添削にあきると試験にもどる。
添削で見えた問題点を、試験問題に反映させようと思ってみると、おのずと問うべき箇所は見えてくるし、問い方も決まってくる。
うん、添削しながらの問題作成は実に本質に近づける。
結果としてできる問題は、記述式でもいいし、選択肢でもいい。
センター試験の形式ではほんとうの国語力はわからないとおっしゃる方もいるが、そんなことはない。
いい問題さえつくれば、3問か4問で、きちっと正規分布ができる。
一学期唯一の学年集会で10分ほど話す。
なぜか今学期は設定されてなかったのだが、勉強ぐらいしかやることのないLHRだったので入れてもらった。
ほんとうはもっとしゃべる機会がほしい。
進路指導部長の話のあと、「受験は団体戦だ」という、3年生定番の話をする。
話しながら、実際そうなんじゃね? と思う。
純粋に個人戦を戦って、より望ましい結果を出せるほどの強い自己をもっている子はほとんどいないのではないか。
ウェイトトレーニングひとつとっても、トレーニング場に自分一人だったら、そんなに追い込めないよねという話に何人かは納得してくれたような気がしたが。
ふりかえってわがバンドはどうか。
これはまさに団体戦を挑むしかないだろうなあ。
個人戦は厳しい。
たとえばコンクールにC部門(20人以内)しかなかったら、うちが勝てる要素はかぎりなく少なくなる。
アンコンは毎年よく健闘してると思う。
なんとか40人、50人の戦いにもちこんで、一人一人が足りない部分を補いあって、総体として何かを作り上げることによって、勝負していくしかない。
サッカーでも、個人技に秀でた選手を集めても組織として機能しなかったら勝てないし、その逆もある。
組織として機能するためにどうするか、そうなると音楽以外の要素も入ってくるから、ますます団体戦になってくるのだ。