新人戦明けのオフ日なので久しぶりに朝爆睡しようと思ってけど、ゼミ旅行に行く娘の送りを依頼されたので、そこそこに起きて役目を果たし、そのいきおいで登校してセンター試験をとく。
まず評論。何々。ツイッター? 教えて君と教えてあげる君? パクリとオリジナル?
「鐔」「漢文脈と近代日本」と続いた昨年までの流れとうってかわって、いかにも今の話題だ。
佐々木敦先生か。講談社現代新書の『ニッポンの音楽』は手元にあるが、読んでない。
昨年の東大で出た蜂飼耳先生に続いて、早稲田文化構想の先生だ。
ここ何年かのなかで、読みやすさという点では一番読みやすい本文だろう。
読みやすいから解きやすいとは限らない。
限らないが、昨年に比べるとずいぶん基本的な設問が並んでいる。
問3、5は易しい。問4も、⑤のみえみえのダミーにひっかかりさえしなければ大丈夫。問2は、正解は選べるけど、「社会全体の知的レベル」という表現が自分的にはキズに見える。本校の入試だったら直すと思う。大体そこまでの問題意識を表現しているとは思えないので。
問2から5までのつくりは、例年以上に東大二次の構成と似ている。第二問の小池昌代さんのとあわせて記述にしたら、そのまま通用するだろう。
問6はものすごく時間がかかてしまった。選べねえと思って、設問をみたら「適当でないもの」だった。同じミスで時間をかけてしまった受験生さんはいないだろうか。おれだけかな。
一昨年の小林秀雄の文章は、コンクールの選曲で言えば「ディオニソス」、昨年の漢文脈の話は新アレンジの「くるみ割り人形」。だとしたら、今年のはニューサウンズの曲みたいなものか。
とっつきやすく、親しみやすいが、だからといってみんながみんな点数がとれるわけではない。
ただ、平均点があがることだけは間違いない。
第二問も、読みやすさの点では第一問と変わらない。
「戦争中ってどれくらい息のつまる暮らしをしてたのだろう?」というような現実感のない世界に対する、漠然とした不可解さにとらわれなくてすむ。
「小説というより随筆」と書いてあるセンター速報を目にしたが、小池さんの小説を読んだことないのかな。
一見なんでもない随筆風ではじまりながら、一転どろどろかつ幻想的な男女の契りに入っていくことがあるのだ。この作品も、そうなってもおかしくない空気感があるのに、完結してしまっているとこが物足りない。だから選ばれたのだろうが。
第二問の難易度は平年なみといったところか。
古文はあいかわらず難しい。去年よりは読みやすいけど、去年が異常だったのだ。今年のも後半は十分難しい。注や設問であんなに解説風のことを書き込まないといけないのは、文章選びに失敗してるのだ。
漢文の、1秒で解ける漢字一字の設問が4点。一方、3分は読み込まないと解けない古文の設問が7点。
敬語の問題も5点だけど、確信をもって選ぶにはそこそこ時間を要する。
逆に言うと、それだけ漢文はコスパが高いのだ。なのに、おろそかにしようとする受験生が多いのはもったいない。
~ 空港からバスに乗っていると道路沿いの桜並木が眼についた。
暮れかけた青紫の空を背景に淡いピンクの花が映えている。ムンバイに発ったのは三月のなかばだったから、桜はまだ咲いていなかった。
この桜をアナンとラクシュミーに見せてやりたい。
瑞希は窓の外をすぎていく桜を見ながら、ムンバイでの日々を思いかえした。
アナンとラクシュミーは前に逢ったときより、ひとまわり大きくなっていた。ふたりはいつか日本にきたいという。瑞希も必ず日本を案内すると約束した。
アナンとラクシュミーが日本へきたら、自分が楽しいと思ったことはぜんぶ体験させたい。
美しいと感じたものはぜんぶ見せたい。自分が美味しいと思ったものはぜんぶ食べさせたい。
だが、ふたりにとってそうすることが幸せなのか。
考えるたびにわからなくなる。日本を見せたいと思うのなら孤児院の全員にそうするべきで、ふたりを優遇するのはエゴではないか、自己満足ではないか。
そもそも、ふたりの喜ぶ顔を見たいというのも自分の欲望だ。
無償だから善意とは限らない。ボランティアといいながらも自分が楽しんでいるのなら、それは観光というべきだろう。院長のラニは、あなたができる範囲でやればいいといった。
しかしその範囲とは、どこまでなのかがわからない。
孤児院の子どもたちは豊かな自然と美味しいカレーと大勢の友だちに囲まれて、貧しいながらも笑顔が絶えない。ネットや携帯やゲームやコンビニやファストフードや有名ブランドがなくても、ひとはじゅうぶん幸福なのだと彼らに教わった。先進国からきたような顔で、お節介を焼くのはおこがましい。同情も憐憫も必要ない。
子どもたちに必要なのは、充実した医療とバランスのとれた食事と自立に必要な教育だ。
そうした分野ですこしでも力になりたい。閉ざされた未来を開いてやりたい。そう考えるのもエゴであったにせよ、それができれば満足だった。 (福澤徹三『死に金』文藝春秋) ~
子どもには、自分が楽しかったことは体験させたいし、美味しかったものは食べさせたいと思う。
ただ、親子の場合は、自分ができなかったことの押しつけや、代理人にしてしまう危険があることは、気をつけなければならない。
自分も、娘達がまだ言うことを聞いてもらえる時分には、演奏会や映画につれていったり、ぶんぷくのカツ丼を食べさせたりした。おいしそうに食べる様子をみて喜んでいたのは自分だった。
対部員でも同じだ。自分がいいと思った音楽を知らせてあげたいし、音楽座さんのミュージカルを全員で観に行ったのも、とにかく経験させてあげたいとの思いからだ。
子どもにとっても、部員にとっても、それは大きなお世話なのかもしれないが、受身ではあってでも経験があるのとないのとでは異なる。
もっといえば、自分の学年の生徒全員に、おすすめの本を読ませたいし、GOGOカレーを食べさせたい(個人的には最近重くなってきたけど)。
「純連」や「くるり」程度が美味しいと言ってる人に、「みかみ」の辛味噌ラーメンを食べさせたい(これは、少しちがうかな)。
逆の面から見ることもできる。うちの部員たちは、音楽座さんを観に行ったり、ダンスのレッスンを受けたりはできても、自分が顧問のままでは、全国大会を経験させてあげられない。
人に何かをしてあげるということは、何かをしてあげられないとの現実と背中あわせだ。
「無私」の思いとは、その想定をすることではないだろうか。
ボランティアでインドまででかけ、子ども達の面倒を見ながらも、自分にはなぜ何もできないのだろうと瑞希は悔しがる。
帰国後、瑞希は矢坂の死を知る。
矢坂から預かったサボテンを世話しているうちに、自分に託されたメッセージに気づく。
矢坂は亡くなったが、矢坂の思いは瑞希に伝わることになって生き続ける。
何億のお金があっても、それが自分の見栄や欲望を満たすためだけに使われるなら、しょせんは「死に金」だ。
自分の残した莫大なお金を「死に金」にしない方法を見いだした矢坂は、瑞希との出会いを心から喜びながら、旅立っていったにちがいない。
センター対策の講習が今日で終わった。あと出来るのは祈ることぐらいか。
土曜は新人戦なので、その日会場応援に行ってくれる先生に気持ちを託すしかない。
センター対策も、このまま学年配置が換わらないとしたら、あと一回なのだ。
新テストの導入は2020年、さらに基礎学力検査が前年の2019年実施が予定されている。
この春入学する一年生をもたせてもらい、さらに次の代は、文科省のスケジュール通りにすすめば新テストを受ける計算になる。
もう問題作成部会とか立ち上がっているのだろうか。
今までどおりの科目テストに加え、総合問題が課せられると言われているが、ちゃんと作れるのかな … 。
思考力や人間性を測る問題を模索する前に、まずは今のセンターで、平均点が乱高下しない問題を作ってほしいものだ。
朝日新聞の「私の視点」欄で読んだ、田口文雄さんという方の文章は、現場の感覚からはきわめて真っ当な意見だと思える。
~ センター試験のような全国一斉テストで問われるのは、まさに「大量に覚え、短時間でうまく解く」ような能力だ。深い思考力を問うものではない。今回の入試改革の狙いがそこから抜けだそうというのなら、別の方法がある。すでに各大学が実施している2次試験である。
各大学の担当者は、とうの昔にセンター試験の欠点に気づき、そこを補うために、よく練った問題を2次試験で出題してきた。個々の解答にも、じっくり向き合って丁寧に採点してきた。そんな2次試験を有効活用できないものか。2次の配点を厚くし、出題も「自ら課題を解決できる能力」を測る方向にさらに磨いていけば、入試改革の本来の目的は達せられるのではないか。むしろ、そのほうが学生の思考力もきちんと把握できるように思う。 (田口文雄「大学入試改革 あれもこれもでは禍根残す」朝日新聞1月15日)
「国語力」で考えてみるとどうだろう。高校までで身につけておくべき力とは、どの程度のものか。
与えられた文章を読み取ることができ、読み取った内容を自分の言葉で表現できるようになる――。
これぐらいで十分なのではないだろうか。
むろん、自分から必要な情報を手に入れようとし、さらにそれを批判的に読むことができ、自分なりの意見をまとめるレベルに達すれば理想だが、それは大学で教わればいい。
上記の力を国語力と設定するなら、現在の「センター試験+二次試験」で十分計測可能だ。
たとえばセンター試験で8割、東大の二次で5割とれたら、高校までの日本人の国語力としては十分なものだろう。
このレベルに達している子は、論理的思考力や表現力は自然と身についている。
ちなみに、センター8割、東大5割のレベルは、一般的な国語教員の平均的学力を越えているので、自分もガチで受験したら、とれるかどうか自信がない。
センターはさすがにいけるかな。東大の現代文は、去年から採点基準が厳しくなってるらしいので、難しいかもしれない。
だから、また莫大な予算を投じて試験制度をがらっと変えるよりも、修正でやれることはあると思う。
いったい、誰得の改革なのだろう。
などと言っても、新しい試験が生まれる流れは止められない。本質を見誤らないようにして教えていくしかないのだろう。
~ 「おなじ癌でも甲状腺ってやつは治りが早いな」
「ただ全摘だから、甲状腺ホルモン剤は一生欽まなきやいけませんけど」
「面倒だな」
「でもよかったです。はじめての入院だから勉強になったし、矢坂さんにも逢えたし」
「最後のはよけいだ」
「じゃあ矢坂さんは、わたしと逢わなくてもよかったんですか」
「いいも悪いもない。逢うものは厭でも逢うし、逢えないものは死んでも逢えん」
「矢坂さんって運命論者なんですか」
「そんな大層なもんじゃない。ああいえばこういうってだけさ」 ~
点滴を受けながら横たわる矢坂は、すでに全身に癌が転移し、余命幾ばくも無いことを本人も自覚していた。
げっそり肉が落ちた頬と、黒ずんだ肌は、とても52歳には見えない。
矢坂の終わりが近いとの噂が流れ、つきあいのあった者たちが、急に見舞いに訪れるようになる。
別居して20年にもなるが籍は入れたままの妻、つきあいの深い組関係の組長、舎弟、若い頃つるんでいた仲間 … 。みな、矢坂の金が目当てだった。
矢坂が何をやり、どれくらいため込んでいるかを知っている面々ばかりである。
矢坂が銀行に預けるわけはなく、誰かに託すことも考えられない。なんとか金のありかを教えてもらえないものかと、見舞いにかこつけて必ずそれを聞きだそうとする。
矢坂はまともに取り合おうとしない。おまえらに金を渡すくらいなら、そのままあの世へ持って行くと言い捨てる。
そんな矢坂が、唯一心を許して話せる相手がいた。入院してすぐ知り合った女子大生の瑞希だ。
矢坂があくどいしのぎで金を貯め込んでいることなど知るよしもない瑞希は、癌治療の入院中に屋上で何回か顔見かけた矢坂と話をかわすようになり、退院した後も、時折矢坂の病室をたずねた。
その日は、ボランティアでインドに行くために、しばらく見舞いに来られないと言いに来たのだった。
~ 去年の夏休み、瑞希はムンバイの孤児院へボランティアにいって、ふたりの孤児と親しくなった。
あすからふたたびインドへいくのは、その孤児たちに逢うためだという。
「その子らの名前はなんていった?」
「アナンとラクシュミー」
「あんまり逢ってると情が移るだろう」
「とっくにそうなってます。ふたりが大きくなるまで応援したいんです」
「わざわざインドまでいかなくても、孤児なら日本にだってたくさんいるぞ」
「ええ。できれば日本の施設にもいきたいんですけど、そこまで余裕がなくて」
「看護師になったら、もっと余裕がなくなるんじゃないのか」
「そう思います。矢坂さんみたいに、わがままな患者さんもいるし」
瑞希はくすりと笑った。矢坂は鼻を鳴らして、
「まあ、ほどほどにするんだな」
「ほどほどにしかできないのが悔しいです。結局は自分の都合を優先してるから、自己満足とかエゴとかいわれても仕方ないんですけど――」
「それでいい。他人がどういおうと自分のやりたいことをやれ」
やがて瑞希が腰をあげると、矢坂は窓際にあったサボテンを持って帰るようにいった。 ~
自分を訪ねてくる者と瑞希との決定的なちがいは、私利私欲の有無だ。
自分のことしか考えず、そのためには金だけが必要だと考える者たち。
一方で、ボランティア活動をしながらも、それさえ自分のエゴにすぎないのではと悩む瑞希。
自分は … 。
決して、金の「ため」に生きてきたわけではない。
結果的に莫大な金を貯め込むことになったが、それが最終目的ではないと、矢坂は自分をふりかえる。
若い頃からかわいがってい刈谷というすじものが見舞いに来る。
矢坂を尊敬し、矢坂のように成功したいと口にしてきた男だった。
「はっきりいいますよ。金貸してください。そうやってため込んでるだけの金は、結局死に金じゃないですか」と刈谷は言う。
金のありかを教える気は無いという矢坂に、「必ず矢坂さんを越えてみせますよ!」と言い放ち、刈谷は去って行く。
~ 女は金で縛り、客は女で縛った。
そうして稼いだ金であらたな店をだす一方、闇金の顧客も増やしていった。商売柄、裏社会との交際も増えて、組織に加わるよう何度となく声をかけられたが、どこの盃ももらわなかった。
組織に入らなくとも、その筋の連中は金で動かせる。警察でさえ金をつかませれば意のままになる者がいる。焦げつきのある債務者は筋者で追いこみ、商売敵は家宅捜索をさせて片っぱしから潰した。彼らを自在に操ることで商売はますます繁盛した。
だが、いまは店も手放して闇金の事務所も引き払った。
残ったのは、すべてを犠牲にして貯めた金だけだ。
刈谷は闇金や風俗店でしのいでいるところは自分と似ているが、大きく異なるのは金への執着だ。刈谷は金で得られる物や地位に執着している。つまり見栄を張りたいのだ。
見栄は金と時間をむだにするうえに、よけいな負担を背負いこむ。それなりに稼いでいるのに行き詰まるのは、見栄のために負担を手放せないからだ。刈谷の場合、それが大きな弱点になる。とはいえ金だけ貯めこんでも、なにかに遣わなければ、刈谷がいったとおり死に金である。
「しかしおれの場合は――」
矢坂は胸のなかでひとりごちた。
金を貯めたのは結果であって、誰にも頼らず生きていこうと思っただけだ。
不本意なところで終わりを迎えたが、すくなくとも当初の目標は達成した。
思惑どおりに事が運べば、貯えも無為にしなくてすみそうだった。
いつにすべきか迷っていたことは、ようやく決心がついた。
矢坂は大きく息を吐いて、サボテンのなくなった窓際に眼をむけた。 (福澤徹三『死に金』文藝春秋) ~
知識偏重におちいる一点刻みの試験はよくないということで、センター試験が見直されることになっている。
思考力や判断力などを総合的に測る問題を出題しようとする方向性が模索されているという。
本当にそういう試験が作れるのなら、それはそれでいいのかもしれない。
昨日の夕刊で次の文章を読んだ。
~ 少女に爆発物を巻き付けて自爆を強いる過激派の卑劣。70年前、特攻という人間爆弾に称賛を送った国があった。(朝日新聞「素粒子」1月13日) ~
ナイジェリアで起こった、少女の自爆テロ事件を知ったとき、「少女?」と思った。
女の子たちは、逆らうと生き埋めにすると脅され、体に爆弾を巻き付けられて、遠隔操作で爆破されたというのが真相のようだ。
まさに卑劣としか言いようがないし、こうやって書いててさえ辛くなる光景だ。
自爆でもなんでもないではないか。
まさかこの所行と、先の戦争における特攻隊を同列に扱う記事を、朝日新聞で目にするとは。
ずいぶん前に、死刑を執行した法務大臣を「死神」と揶揄したのも、このコラムだった。
そのときには相当問題になり「不適切だった」と朝日新聞も非を認めたはずだ。
今回の記事は、騒ぎにはなってないだろうか。
高校生の知力を問題にする以前に、このレベルの文章が、何のチェックも受けずに記事になってしまう方が、よほど問題だ。高校生の学力とか言う前に、おのれを知力をなんとかした方がいい。
授業はないが、三年生の登校日。大講堂に集まって、センター試験、そのあとに続く入試に向けての決 起集会。
3年の先生方から一言ずつ語ってもらい、最後は小生のしめ。
今年も「1・2・3・ダー」をやろうと思ってはいたが、知らない子も増えているのではないかと危惧し、おそるおそる訊ねると、まったく問題ないことがわかった。
ひょっとしたら猪木師匠のオリジナルからではなく知った子もいるのかもしれない。こんなに息の長く、しかも広まるものになるとは、師匠も予想しなかったのではないだろうか。
「道」の暗誦に続いて、せーのというと、みんな思い切ってやってくれた。いけるかもしれない。
2014年追試問題の簡単な解説プリを書き終えて印刷し、添削を二つ。
放課後は、バンドのレッスン。
「できてても、できてなくても、本番はやってくる。おまえたちができるまで待ってはくれないんだ。なんとかしろ」と先生から檄を飛ばしていただいた。やるしかないと思う。
昨日の演奏は中島先生が撮影してくれたので、みんなで観てからパート練習、合奏では新人戦の先にある演奏会用に「オペラ座の怪人」もやってみた。全体練習は午前で終了。午後ゆとりがあるのはありがたい。
学年だよりは、三年前のをちょっと直して配ることにした。今の生徒諸君は初めてみるのだから問題ない。むしろいいものは積極的に使い回しせねば。
机周りと小講堂の本を少し整理して、4袋分ブックオフにもっていったら、まあまあお小遣いになったので、近くのミスターギョーザで味噌ラーメンにギョーザまでつけていただく。要修理楽器を預けにいき、その流れでウニクスで「海月姫」を鑑賞。
「あまちゃん」「ホットロード」「海月姫」と、その役どころはかなり異なると思うのだが、能年玲奈色というか、結果的に彼女以外のイメージがわかないよねと最後には思わせるところがすごい。
学年だより「孤独」
3年前の成人の日に、鴻上尚史氏(劇作家・演出家)が、「さいたま新聞に」寄稿された文章を紹介したい。
20歳になったから大人になるのではない、現に何歳になっても大人になってない人はたくさんいる、大人になるには孤独を経験しなければならないと、鴻上氏は述べる。
~ 孤独には、「本物の孤独」と「偽物の孤独」とがあります。
一週間、誰とも話さなかったから孤独なのではありません。
誰とも話さなくても、メールをやりとりし、インターネットで会話していれば、それは孤独ではありません。
孤独とは、「一人で自分と向き合う」ことです。例えば、あなたがすてきなアドバイスを受けたり、役に立つ本を読んだりしても、一人でかみしめる時間がなければ、それはあなたのものにはなりません。今聞いた役に立つ情報を、右から左に伝えるだけでは、あなたのものになっていないのです。
二十歳を過ぎて出会う解決不可能な問題は、親に判断を任せない限り、自分で解決するしかありませんが、「偽物の孤独」しか経験してない人は、アドバイスしてくれる人を求めて、ウロウロさまようのです。
ただ「本物の孤独」の時間を持った人だけが、うんうんとうなりながら問題に取り組むことができるのです。
もし「本物の孤独」を経験したいと思ったら、あなたは、携帯電話の電源を切り、パソコンやテレビから離れて、あなただけの時間を持つ必要があります。その時間が長ければ長いほど、あなたは「本物の孤独」と出会い、自分自身と会話を始められるのです。
「本物の孤独」はしんどいですが、あなたに暗闇を進んでいく勇気をくれます。終わりが明確でない暗闇を一歩一歩、歩く時、あなたは初めて大人になるのです。 (鴻上尚史「成人するあなたへ~本物の孤独と出会おう~」より) ~
果たしてセンターで何点とれるのか、そもそも自分はどこかに受かるのだろうか、春から新しい生活が過ごせるのだろうか … 。そんな不安な気持ちをいだいている人も多いと思う。
表面では、がんばろう、最後まで粘ろうと思いながらも、心のどこかで逃げ道を探そうとしてたり、ほんとに今のやり方でいいのかと迷ってみたり。
それが当然だと思う。目標に対する思いが真摯であればあるほど、不安はわいて当然だ。
でも、それを乗り切れるのは自分しかいない。
自分のことは自分のこととしてひきうけるしかない受験は、間違いなくみんな1ステージ上の人間にかえる。ネバーギブアップ。
周りがどうあろうと、自分の世界に入り込み、粘りきってみようではないか。
南古谷ニューイヤーコンサート
「斐伊川に流るるクシナダ姫の涙」
「見上げてごらん夜の星を」(合唱)
「宝島」
の3曲を演奏。楽しんでいただけましたでしょうか。
応援におこしいただき、ありがとうございました(_ _)
指揮のレッスンを受けたのち、合奏。今日演奏する3曲と新人戦のマーチ。
昼食、個人練のあと、楽器を積み込み、会場の東邦音大に向かう。
南古谷界隈のいろんな音楽系団体が一堂に会するこの会は、グランツザールあってこその企画だ。
他の地区でも同じような催しが行われてはいるが、川越市内では、やはりこの東邦音大さんのホールが最もゴージャスで、かつ演奏しやすい。ありがたいことである。
ウィーン市民には楽友協会ホールがあり、南古谷の人々にはグランツザールがある。
この会には10年以上参加し続け、秋の講習会などでも使わせてもらっているので、気持ち的には完全にホームだ。MCには緊張感ゼロで、お客さんともふつうにやりとりしながら進めていける。ハコは大事だと思う。
片付けて学校にもどると、17時の最終バスに間に合わなかった。
駅までみんなを送り、無事ニューイヤーが終わった。次は新人戦だ。
学年だより「行けばわかるさ」
① 礼儀正しく
自分の目標を達成するために最も必要なのは、礼儀正しさだ。
今までたくわえてきた学力を思う存分発揮するために、発揮できる環境に身を置こう。
周囲から「なんだあいつは」と思われていない環境に自分をおくことが大事だ。
勉強にかぎらず何事においても、自分の力を発揮できる人は、ちゃんとした身なりをし、あいさつをする。
どんな世界を生きていくにしても、自分の好きなことだけを好きなようにやって、やりたいことができる人は(ごく一部の天才をのぞき)いない。
あいさつのできない人、場に応じた立ち居振る舞いができない人からは、チャンスは逃げていくし、礼儀正しい人は、何か困ったことがおこった時にも助けてもらえる。
入試の時には、門のところのいる警備員の方や、大学の職員、先生方にさわやかにあいさつしよう。
最寄り駅や、高坂駅の駅員さんにも「おはようございます」と声をかけよう。
② 間際まで
試験が近づいたからといって、「そろそろ調整か」などいう感覚で、のんびりしてはいけない。
睡眠時間はきっちり確保する必要はあるが、間際までがっつり勉強し続けよう。
そのテンションのキープが大事だ。
身体をゆったりしすぎると、頭の回転も遅くなる。
たぶん今のみんなは、人生で最大脳を使っている状態のはずだ。
今なら、いくらでも情報は入っていく。
間際までこの状態をキープし続け、センターが終わった、一校終わった、といちいち気を抜かないこと。
試験自体はすべて終わっても、合格発表が出て、進学先が確定するまでは、いまのテンションで勉強し続けないといけない。
~ 「道」 byアントニオ猪木
この道をいけば どうなるものか 危ぶむなかれ 危ぶめば道はなし
踏み出せば その一足が道となり その一足が道となる
迷わず行けよ 行けばわかるさ ~