水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

言い換え力(2)

2019年01月19日 | 国語のお勉強

    言い換え力(2)

 評論文の筆者は、自分の主張を伝えるために、様々な言葉を用いて説明する。
 同じ言葉をそのまま繰り返すのではなく、様々な次元の言葉で説明し、読者の理解を得ようとする。つまり「言い換え」によって説明していくのである。
 「言い換え」られた内容と、もとの内容とは「相似」の関係になる。「相似」表現を発見できれば、繰り返し述べられている内容が明らかになる。キーワードの発見にもつながる。
 「相似」表現は、次のような「言い換え」で成り立っている。

1 語句レベルの「相似」表現

a 語種、語感による「言い換え」
 ① 文字数を換える
 (例) 個=個人 礎=基礎
 ② 和語、漢語、外来語を言い換える
 (例) 考える=考慮する
     ほのめかす=示唆する
     思い・考え=思念・観念
     十分とはいえない=不十分だ
     伝え合い=コミュニケーション
     なかだち=媒体=メディア
     つくりごと=虚構=フィクション
     わざ=技術=テクニック
 ③ 文語・雅語的な語、口語・俗語的な語の言い換え
 (例) 最近=今日(こんにち)
          ~で=~において
     うそでない=いつわらざる

 簡潔性や表現の重々しさが好まれる評論文では、漢語、外来語が多様される。
 説明がすすむにしたがって、より凝縮した語句に言い換えられていくことが多い。

b 意味・イメージによる「言い換え」

 ① 意味の近い語に言い換える
 (例) 規格=同質=画一
 ② イメージの近い語で言い換える
 (例) 跳躍=はばたき
     希薄化=解体=没落
 ③ 比喩で言い換える
 (例) 編集能力=料理の腕
     学者や批評家=知的料理人

 本来の意味はまったく異なる語であっても、同じ内容の言い換えである場合がある。
 とくに名詞の使われ方は、筆者によって相当に恣意的である。
 だから、言葉そのものの意味よりも、「+(プラス)」イメージの言葉か、「-(マイナス)」イメージの言葉かを意識し、「言い換え」であると判断していくとよい。

c 内容説明的な「言い換え」
 ① 指示表現
 (例) これは、それらが、…
     人間中心の見方は=この観点は
 ② 内容を詳細化したもの
 (例) 感性=独特の好み
     真面目な聴き方=集中的・精神的な聴取行為
     個性的でありたいという欲望=平均性を嫌い個性的であろうとする意志

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運命

2019年01月18日 | 学年だよりなど

  学年だより「運命」


 松岡修三氏は、「運命は変えられる」という。


 ~  「運命で人の未来は決まっているから、努力しても無駄」という考え方の人もいるようです。
 でも僕は、「宿命」は変えられないけれど「運命」は変えられる、と思っています。
 宿命というのは、辞書的に言えば「前世から定まっている運命」のこと。文字のイメージからしても、「自分が生まれる前から棲みついちゃってるな」という感じがします。たとえば、僕が松岡家の次男として生まれたことは宿命。僕らが人間として生まれてきたことも宿命です。これは、どう頑張っても変えられない。
 一方、運命は、「人間の意志にかかわりなく、身の上にめぐってくる幸福や不幸」のことですが、「めぐりあわせ、将来のなりゆき」という意味もあります。文字のイメージからすると、「ものごとの運びようによって、変わってくるんじゃないか?」という気がします。必ずしも絶対的なものではなく、自分の受け止め方や行動でコントロールできるものだと思うんです。 ~


 日本の、埼玉県の、○○市のとある家庭に、平成3年か4年に男子として生まれたという事実は、がんばっても変えることはできない。
 松岡氏の言う「宿命」に該当する。
 川越東に入学したことはどうか。結果としてそうなっただけという感覚で入学した人もいるかもしれないが、やはり自らの意志で選び取ったものだ。
 そこでたまたま○○という部活と出会う、○○くんと出会うというようなことは偶然にも思えるが、自分が選び取った環境の中で生まれた関係であるのだから、偶然という名の運命だ。


 ~ 運命というのは、どういう学校へ行き、どんな人と出会い、どんな経験や仕事をするか、そのなかで自分のどういう才能を伸ばしていくかによって、大きく変わると思います。
 チャンスはどこにあるかわかりません。とらえ方によって、それがチャンスになるかどうかも違ってきます。ウィンブルドンのセンターコートに立てるのは強い選手ですが、見方を変えれば、その対戦相手となる〝強い選手と当たっちゃった選手″だって入れるのですから。
 運命がどこでどう変わるかは、すべて自分自身の気持ちや行動しだい。だから、「努力しても無駄」なんで思わないでください。
 宿命は変えられないものとして受け入れる。そのなかで努力して〝いい運命″をつくりあげでいこう!  (松岡修三『弱さをさらけだす勇気』講談社) ~


 模擬試験や定期考査の成績、試合で勝つこと負けること、思いを寄せる子に声をかけることかけられないこと……。
 「結果は結果として受け止めて」という言い方をするが、たまたまそうなったのではない。
 あくまでも自分の意志で行動して得たものだ。
 うまくいったことも、いかなかったことも、自分の意志の積み重ねの結果としてそこにある。

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言い換え力(1)

2019年01月17日 | 国語のお勉強

言い換え力(1)

1 a (x+y)2
  b x2+2xy+y2
  c x2+y2 
 a=bは正しい。a=cは間違いである。これを教えるのが数学である。

2 a 濁った空気に光があたると、光の道筋が見える
  b チンダル現象
  c ドップラー効果
 a=bと言うが、a=cとは言わない。これを教えるのが物理である。

3 a 明治維新
  b 近代化の出発点
  c 産業革命の契機
 a=bと言えるが、a=cとは言えない。これを教えるのが歴史である。

 

 主に高校2年生で使用される教材「ミロのヴィーナス」(清岡卓行)は、次のように書き始められる。


 ~ ミロのヴィーナスを眺めながら、a〈 彼女がこんなにも魅惑的であるためには両腕を失っていなければならなかったのだ 〉と、僕は、ふと不思議な思いにとらわれたことがある。 ~


 「両腕がないからこそ美しい」という逆説的なこの主張は、文章全体を通して筆者が主張したい内容である。
 自分の主張を読者に伝えるために、筆者は何をするか。
 この内容をよりよく伝えたいと欲求した場合どうするか。
 そのためには「技術」が必要である。
 何かを徹底したいという思いは、基本的には「しつこさ」となって現れる。
 文章における「しつこさ」は「繰り返し」という形になる。
 だから評論文を書く技術とは、「繰り返し方」の技術と言える。
 ある主張を述べる時、主張そのものを何回も書くのではない。
 言い換えるのである。
 形を変えて表現するのだ。
 筆者は、手を変え品を変えして、繰り返し表現することで、自分の言いたいことを少しでも伝えようとする。
 だから評論文を読むとは、繰り返されている内容を読むということである。
 「両腕がないから美しい」という内容は、どのように形を変えて繰り返されているだろうか。


 ~ このことは、僕には、b〈 特殊から普遍への巧まざる跳躍 〉であるようにも思われるし、またc〈 〉部分的な具象の放棄による、ある全体性への偶然の肉薄 〉であるようにも思われる。
 ……しかも、それらに比較して、ふと気づくならば、d〈 失われた両腕は、ある捉え難い神秘的な雰囲気、いわば生命の多様な可能性の夢を深々とたたえているのである 〉。
 ……それは確かに半ばは偶然の生み出したものであろうが、なんという微妙なe〈 全体性への羽搏き 〉であることだろうか。……したがって、僕にとっては、ミロのヴィーナスのf〈 失われた両腕の復元案 〉というものが、すべて興ざめたもの、滑稽でグロテスクなものに思われてしかたがない。 ~


 a=bと言うことが出来る。
 さらにa=c、a=d、a=eと言うこともできる。
 しかし、a=fとは言えない。
 これを教えるのが国語である。
 それぞれの表現の関係について「a=bとは言えるが、a=cとは言えない」ということを教えるのが国語である。
 「=」の度合いが最も厳密なものが数学であり、一定の幅があるのが国語である。
 数学における「=」ほど厳密なものではないとしても、「=」で結ぶべきところは結ばなければならない。
 冒頭の1~3の例と同じように、生徒の頭の中で「=」で結びついていないことがらを、結びつけてあげることが、「教える」ということである。

 国語における「=」とは「言い換え」のことである。
 どのように言い換えるのか。
 同じことがらを、言葉で言い換えるのだから、必然的に、使用される言葉の次元が変わってくる。
 具体から抽象へと様々な階層に位置される言葉によって表現されることになる。
 傍線部a~eの中の、「両腕を失って」、「巧まざる跳躍」、「部分的な具象の放棄」、「羽搏き」は、同じ内容を異なる次元の言葉で言い換えている。
 次元を越えた「言い換え」を見抜いていくことで、筆者が「しつこく」主張したい内容がわかってくる。

 見抜いた結果、ある部分とある部分が「=」で結ばれる。
 この関係を「相似の関係」と言う。(「同等」「同値」「同じ」「類比」なんでもいいけど)

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言い換え力(0)

2019年01月16日 | 国語のお勉強

 本業は大丈夫なのかと心配する人がいるくらいテレビにも出まくっていらっしゃる林修先生。
 ていうか、本業を知らない人もいるんじゃないかな。
 林先生の暮らしぶりを追うドキュメントを前に見たことがある。
 根本的に頭がいいうえに、働きまくっているから、われわれ文人が想像もできないレベルの仕事量をこなしている姿がそこにあった。
 そもそも次元が違いすぎた。ただ、生き方、仕事術、食べ物の本まで出されているにもかかわらず、参考書や問題集は書かれていない。
 どんな授業をされるにだろうと興味がある。教員に成り立てのころ、一生徒として代ゼミや駿台に通ったことがあるが、さすがは今それはしにくい。
 昨年末「モーニング」に連載されている「ドラゴン桜2」に、林先生は登場した。
 林修先生の推薦で私立龍山高校にやってきたのは、太宰府修先生。
 口癖は「つかれた……、うまれてすいません」。
 その太宰府先生が、先週号ではあつい現代文の授業をしていた。

 文章は、構造でできている。
 その構造は、「同等関係」「対比関係」「因果関係」の3つに分類できる!……

 東進ハイスクールでの林先生の授業が垣間見られる。
 「同等」「対比」「因果」の三つ。
 駿台の霜栄先生は「同値」と「対値」という。
 出口汪先生は「A=A’」「A ←→ B」という。
 もとをたどれば、数十年前に駿台の藤田修一先生が言われた「現代文の記号的解釈」ではないだろうか。
 自分は「相似」「対比」「因果」と教えている。

 現代文の授業で教えていることをふりかえってみるなら、こことここは「=」、これとこれが「 ←→ 」という説明ばかりだ。
 教えることがこんなに少ない科目って他にあるだろうか。
 「傍線部はどういうことか?」という問いには、傍線部と同じ内容を別の言い方で答えるだけだ。
 言い換えているだけであって、何の発見も洞察もいらない。
 こんなに頭を使わなくていい科目って他にあるだろうか。
 
 太宰府先生は、「言い換え」がすべてだ、他の科目でも同じだ、と強調する。
 国語力とは「言い換える力」。
 ということは、言い換えるための言葉を持たねばならない。
 そういう意味では「語彙力」でもある。
 話がわかりやすい人は、言い換え力がある。
 国語力がないと、1も100も、aもXも、りんごもゴリラも、「やべ」「かわいい」ぐらいにしか言い換えられない。
 技術がないと、目の前にある四分音符を、同じ強さで同じニュアンスでしか表現できないのと、本質は同じかもしれない。
 
 勉強すれば東大に受かる程度の言い換え力は身につく。才能はいらない。
 ただし、指原莉乃さんクラスの国語力になると、努力だけでは身につかない。自分には無理だと思う。

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エア・ラーメン

2019年01月15日 | 学年だよりなど

  学年だより「エア・ラーメン」

 
 50歳を越えて、ますますウザいほどのアツさにみがきがかかる松岡修三氏だが、開幕した全豪オープンでもアツい解説をしてくれることだろう。
 松岡氏は、何かを食べるときも、「なんとなく」は食べるなと説く。


 ~ まず複式呼吸を何度か繰り返します。次に空気を吸い込んだ瞬間、食べ物が入ってくる胃を意識しながら「ハッハッ、ハッハッ」と声を出して息を吐き出します。そうすると、胃の中がおいしく食べるための最高の状態になります。
 ラーメンの食べ方も独特だといわれます。食べる前から割り箸を握って、麺をすする動きを繰り返すエア・ラーメンをしています。 (松岡修造『人生を変える修造思考』アスコム) ~


 松岡修三氏はこうやってラーメンを待つという。
 みなさんも、学食でチャレンジしてみたらどうだろう。
 なぜ、そこまでやらないといけないの? ネタじゃないの? と思った人もいるかもしれない。
 しかし『人生を変える修造思考』を一冊読み通してみたなら、多分笑えなくなる。
 そして、自分も何かやらなきゃという気持ちがわいてくる可能性もある。
 ここまでやったら、修造氏は食べる前に勝っていると思わないだろうか。
 「おいしく食べることは僕にとっての勝負です」と修造氏は言う。
 もちろん、その店との勝負ではない。
 自分が、いかにいいコンディションで食べることができるか、いかにいい食事ができるかの勝負をしているのだと言う。
 一週間後にフランス料理を食べる機会があったとしたら、その日に向けて体調を整える。
 当日は、朝食、昼食には脂っこいものをひかえてお腹に負担をかけないようにしておく。
 一食にかける準備さえ、ここまで徹底する。
 況わんやテニスの試合をや。現役時代、試合に向けて修造氏がどれだけの準備をしていたかは、想像に難くない。
 そして今、錦織選手や大坂選手の試合を解説するために、どれほどの準備をしていることだろう。
 翻って、自分はどうか。
 エア・ラーメンまでせよとは言わない。たとえば授業を受けるにあたって、せめて割り箸を割って待っているくらいは出来るのではないか。
 授業が始まって初めて「おれは何を食べようとしてるんだっけ?」というそぶりの人さえ見かける。それで、おいしく味わえるはずがないし、自分の実にならない。
 試合がはじまった瞬間には、勝つか負けるかは決まっている。
 試験が始まった瞬間には、何点とれるかはすでに決まっている。
 いい勉強ができるか、いい練習ができるかの、自分との「勝負」は、戦う前に決まる。
 本番は、すでに定まった運命の確認作業だ。
 運命を変えたければ、本番が始まる前までに、自分を変えておくしかない。

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地道に

2019年01月15日 | 日々のあれこれ

 大学入試も、面接試験も、芥川賞も、あるコミュニティーに所属させるべき人物かどうかを審議するためにあるという本質的な部分は似通っている。
 入試は学力が測られると考えられがちだが、試験問題自体が大学の先生方の価値観に基づいて作成され、その傾向を調べ、答えてほしい答えを書いた人が受かることになる。
 面接はまさにそのままで、入室した瞬間にほぼ決まるという話は、たしかにそうだろう。
 答案ではなく人そのものを見てしまうなら、AIなど足下に及ばない人間の総合判断力は、本能的に決めてしまっているはずだ。
 芥川賞、直木賞は、日本語で書かれていて、世間一般で文学という枠に入る作品というだけで、相当しぼられている。
 選考委員が、作品や作者を自分たちの仲間として迎え入れられるかどうかの判断になる。
 今期は、芥川賞は「1R1分34秒」と「平成くん、さようなら」、直木賞は「熱帯」と「宝島」の両賞2作ずつの大盤振る舞いになると予想してみた。
 コンクールの審査はどうだろう。
 数年前に新人戦が始まったころは、自由曲の選び方に幅があったけど、今は夏のコンクールに近づいている。
 コンクールの演奏とはこういう方向性であるべきだといイデア的なものをみんなが目指す演奏になっている。
 楽しくはないけど、かぎりなく勉強になった。出てよかった。
 今日のミーティングで確認できたことを、一つずつ地道にやっていきたい。

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新人戦

2019年01月14日 | 日々のあれこれ

第11回 埼玉県吹奏楽コンクール 新人戦

 月日 2019年1月14日(祝)

 会場 羽生市産業文化ホール

 時間 第2日目5番 11:30~11:42

 曲目 「五月の風」「マードックからの最後の手紙」

  銅賞をいただきました!

  応援ありがとうございました!

  精進いたします!!

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紙に書く(2)

2019年01月10日 | 学年だよりなど

    学年だより「紙に書く(2)」


 流れ星を見た瞬間に自分の願いを唱えることができた人は、それを叶えられる。
 なぜか。その瞬間に躊躇なく口に出せるほど、ずっと思い続けているからだ。
 「えっと、何をお願いしようかな……」と考えているうちに、流れ星は消えてしまう。
 「チャンスの女神には前髪しかない」という西洋のことわざも、同じ主旨を表しているのだろう。
 思いを継続して持ち続けていない人は、そもそも女神が通りかかっても気づかない。


 ~ では、こうした「ずっと願っている状態」を擬似的に作るにはとうすればいいのでしょうか。それはやはり、夢のことを考えるきっかけを増やすことです。その意味では、紙に書いて、毎日の生活動線上にある身近なところに置いておくことで、その紙を何度も見る可能性を高めるのも、夢へのマインドシェアを高めるコツです。例えば手帳の1ページだったり、ベタですがトイレに張り紙をしたり。夢を紙に書いたものを撮影して、スマホの待ち受け画面にしてもいいでしょう。
 ある人は、「デジタルのメモは、ブラックホールの彼方に消えてしまう」とよく言っています。もちろん検索可能性の高さは時にすごい威力を持ちますし、僕もうまく使い分けして活用していますが、デジタルのメモは、何度も見返すきっかけを作ることはなかなか難しいという欠点があります。 (前田裕二『メモの魔力』幻冬舎) ~


 「ずっと願っている状態」が、人生の「軸」となる。
 いま何をすべきか。それを考える時間がもったいないのだ。
 AをとるかBをとるかを即決するには、自分の「軸」に従えばいい。
 試験の前の日のカラオケに行こうと誘われて断るのは、みなさんの体に一定の軸があるからだ。
 授業が始まる前にノートを出すのを面倒がるのは、その軸が確固たるものではないからだ。
 ささいな局面で、自分が何をするかを迷っている時間がもったいない。
 極力時間を有効に使うために決めておく行為をルーティーンという。


 ~ スケジュールを、スケジュール帳以上に細かく見ていくと、例えば、「朝起きる→顔を洗う→歯を磨く→10分間テレビを見る→軽くストレッチする→着替える……」など、非常に細かいイベントの連続によって成り立っています。これらのイベントを積み重ねるときには必ず何らかの尺度によって、意思決定が成されているはずですが、その尺度が、自分の人生の軸に関連・依拠していなくてはなりません。例えば10分の時間を与えられたときに、TwitterやInstagramなどのSNSを見るのか。友達に電話をかけるのか。本を読むのか。PCを開くのか。ぼーっとするのか。この意思決定の向きは、本来、自身の価値観の軸つまり人生のコンパスによって指し示されるべきだと思っています。……勝負は書くか書かないか。もはやこれはテクニックの問題ではなく、自分の人生とどれだけ真剣に向き合うかという、「生き方」の問題なのです。 ~


 今すぐノートを取り出そう。自分の目標を書いて、「軸」を明確にしておこう。

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平成くん、さようなら

2019年01月08日 | おすすめの本・CD

 始業式。
「3年生諸君、体調管理を最大限気をつけてしっかりラストスパートせよ、結果を出すことも大事だが、どこまでがんばれたかを体に残すことが大事」という学校長の言葉に深くうなずく。みなさんが「平成」最後の卒業生になるとのお話にも。
 そうだった。受け持っている今の一年生たちは、新しい年号の証書をもらって卒業していく。
 昭和の終わりに奉職し、30年間お世話になり、新しい年号で教師生活を終えるのだなあと、思う。

 そんな時期に『平成くん、さようなら』という小説を上梓し、ちゃっかり芥川賞の候補になっている古市さんは、まさに機を見るに敏な方だ、文藝春秋だしな、ためしに読んでみるかと年末に手に取ってみたが、なんとこれは! 自分的感覚では「火花」や「コンビニ人間」以上に鉄板で受賞すると思った。新幹線の中をきっちり充実できた。

 平成がまもなく終わりとなる現代日本を舞台にした作品だが、「安楽死が法的に是とされている」という結構になっているので、パラレルワールドものとも言える。
 その設定以外は、これでもかと描写される具体物、ブランド名で現実そのままだから、主人公の平成くんが古市氏自身のメディアでの姿と重なって、私小説的おもしろさも感じる。
 ちがうか、主人公は平成くん――「へいせい」ではなく「ひとなり」と読むのがほんとうなのだが――と同棲する、同い年の愛ちゃんだ。
 イラストレーターの愛ちゃんと、若手評論家の平成くんは、雑誌の対談で出会う。
 愛ちゃんの方からアピールし、二人で暮らすようになって二年が経つ。
 

 ~ 平成くんといることは、とても居心地がよかった。私が不眠で苦しんでいる時には「寝ないでポケモンGOができて羨ましい」と本気で言っていたし、仕事が思うように評価されなかった時は「バカに褒められても嬉しくないでしょ」と笑ってくれた。(古市憲寿)『平成くん、さようなら』文藝春秋 ~


 愛ちゃんへの好意はあきらかに抱いていながら、二年も同棲していながら、彼らの間に肉体的な結びつきはうまれていない。
 その理由を論理的に説明はされ了承はしているものの、心から納得しているわけではない。
 さらに、平成の終わりとともに、「安楽死するつもりだ」と平成くんが言い始める。
 「自分は終わった人間だから」と論理的に説明されても、到底受け入れられはしない。
 残される人の気持ちを想像しようともしない態度も許せない。
 こんなキャラクターの男ならあり得る展開かもしれないと読み進めていくと、終盤思わぬ展開になる。
 人間としての平成くんの姿が立ち上がってくるのだ。

 小玉ユキ『ちいさこの庭』は、コロボックルのような小さくて不思議な生き物と人間との交情をせつなく描く短編集だ。
 「四百年の庭」で、相手のことを思うが故に別れようとする武士の姿に泣いてしまったが、平成くんの終盤では同じことをたぶん感じていた。平成のおわりにこんな小説を読めて幸せだった。

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紙に書く

2019年01月07日 | 学年だよりなど

  学年だより「紙に書く」


 新年おめでとうございます!
 今年の目標は設定できているだろうか。今年の目標、三年後の目標、10年後の目標があり、それを自分の軸として設定しておけば、日々の行動は自然と決まってくる。
 大事なのは、目標を紙に書いておくことだ。
 「夢は願えば叶う」という言葉は、巷にあふれている。
 ただし、願っただけで夢を叶えた人はいない。
 夢を具体的な目標として設定し、強く願い続けながら、継続して努力した人だけが結果を手にすることができる。
 そのためには、まず言葉として紙に書くところからスタートしなければならない。
 SHOWROOM社長の前田裕二氏は、徹底した「メモ魔」として知られる。
 「夢を紙に書くと現実になる」という話の正しさをこう説明する。


 ~ 一つは、マインドシェアの問題です。つまり、その夢について、まず紙に書いた時点で、潜在意識に刷り込まれる度合いが高くなります。書く瞬間に脳が受けるインパクトは思いのほか大きく、その結果、紙に書く行為は記憶に残りやすいためです。もちろん、まず言葉にすることに大きな意味があるので、どうしても紙に書けない環境下で何かやりたいことを思いついた場合は、デジタルメモでも構いません。しかし、しっかり脳に染み込ませる意味では、情報量が多く右脳でも記憶しやすい、アナログの文字にして一度見つめてみるべきだと思います。
 夢へのマインドシェアが高くなるほど、すなわち、夢について考える時間が長ければ長いほど、夢をかなえるために必要なことをブレイクダウンして考えたり、現在地点との距離を測ってその差分を埋めるための努力方法を見極めたり、また、妨げになりそうな障害や課題をつぶしていこう、という問題意識も芽生えます。
 こうした、夢への思考を深めていけるのも、具体的な「言葉」があるからです。ふんわりとしてつかみところのない願いを持っているだけでは、よほどの強運がない限り、夢は自分から近づいてきません。言語化の過程で、抽象的な夢を具体化したり、また抽象化してみたりして、自分の夢にまつわる言葉群があらゆる抽象度でとんとん磨かれていく。こうした、思考することができる言葉を携えておくことによって、考えるきっかけが、時間が、マインドシェアが増え、夢が現実のものとなりやすくなるのです。 (前田裕二『メモの魔力』幻冬舎) ~


 夢を紙に書くという作業は、その行為自体は難しいものではない。数学の問題を一つ解く、100mダッシュを一本走るより、よほど簡単だ。
 その簡単な行為を実際にしてみる人は、どれくらいいるだろう。「なるほど、そんなことか」と、ノートや手帳にちょっとメモしてみる人と、ペンを持たない人の差は大きい。

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