1941(昭和16)年9月3日の大本営・政府連絡会議の席で永野海軍軍令部総長は「帝国国策要領」の説明で「開戦時機を我方で定め先制を占むる外なし」と言葉が出てくる。(『杉山メモ(上)』原書房)
誰でもこの一節から、少なくとも「奇襲」を想像することは容易である。真珠湾奇襲は後に言う程の奇想天外な作戦ではなかったような気がする。
この件は近頃読んでいるグルーの『滞日十年』にも、1月27日のくだりに「東京では日本が米国と断交する場合は大挙して真珠湾を奇襲する計画を立てているという意味の噂が盛んにおこなわれている。」と記されていた。
真珠湾奇襲は成功したからこの国の近現代史に深く刻まれているが、果たして成功したのだろうか?成功させてくれたのかもしれない、…。
グルーの日記には、標題が付いていて「真珠湾奇襲の最初の噂」とある。当然グルー大使から本国に報告はされている。と云うことは、幾度かそういう噂がたって、アメリカ側では想定内の日本の奇襲だったのかもしれない。