玄冬時代

日常の中で思いつくことを気の向くままに書いてみました。

桶屋が儲かる式

2021-12-17 19:14:31 | あれこれ

想像だが、上手くすれば、風が吹けば桶屋が儲かる方式だが、日大事件でアベがおとなしくなるかもしれない。

しかし、次に抬頭するのが、独裁的で、嘘がうまく、仮病上手なコイケとか、維新の面々というのも鬱陶しい、・・・。

こういう人たちが幅を利かすのが、「この国のかたち」というのは寂しいばかりである。

普通に国民の方を気にしながらやっている岸田首相が一応新鮮に見える。いかに酷かったアベ・スガ政権の8年ということか。

アベ・スガは国民の方を明瞭に向いていなかった。それならどこか向いてやっていたのか、未だによく解らない。彼ら自身も良く説明できないんじゃないのかな。

二人は政治というものを経験学的に身につけているだけで、彼らの政治は、思想も理念もない。あるのは野心と欲望と利権だけである。

岸田氏は見ていると、政治家としての一定の教養と知識がある。政治家には優秀な頭脳も必要だが、アベ・スガは狡賢い頭脳は確かに有ったが、公共への対応頭脳が著しく欠けていた。

アベが逮捕されるか、落選する国にならないと、この国のかたちは何時までも流動的だ。

先日行った大磯で見た「木下邸」、中はレストランになっている。今度行ったら食事をしようと思う。

 

 

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少数派だった

2021-12-16 19:15:08 | ブツブツ

先日の選挙で維新が伸びたことによって、4年前の希望の党の票はまだ生きていた。それが立民党の比例票に上乗せされると簡単に思っていたが、実は浮動票ではなく、右傾の党に付着したという説もあるようだ。

今思うことは、本当に、コイケのようなただ妖怪な人、アベのようなただ守旧の人を支持するセンター・ライト層というのが育っていたことに驚いている。

もう「愚直」とか、表面だけで保守を掲げる立民党の生き残る道はない。

中曽根や小沢や小泉によって粉々に壊されたリベラル層をもう一度結集し、常に弱い者の側に立って強靭な権力と対決していく中規模政党を目指すほかないだろう。

しかし、こういうふうに自分勝手に思う安易なリベラル層は段々少数派となるのだろう。

選挙に行かない層がリベラル系というのは単なる願望や空想に過ぎない。どうにも、この世の中は、自分が願っている方向に行きそうにないというのが、朧気ながら見えてきたは寂しいものだ。

鉄は強靭だ。

 

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この頃、落ち着いてます

2021-12-15 19:21:23 | ブツブツ

最近は政治に目が行かなくなった。岸田政権になってからである。記者会見やっても、委員会の質疑を見ても、気にならなくなった。何となくまともに見えてくる。

いかに前政権が酷かったということかもしれない。

そのぶん、アベが外野でうるさい。よほど懼れることがあるのだろう。

誰でも悪いことをしたら応分の責任は取る。いくら最高権力者に上った人間だからといって特別扱いは良くないでしょう。

あたり前のことがあたり前に行われて、人々の暮らしというのが成り立っているのだろうと思う。

昨日、やっとインフルエンザのワクチンが入ったという連絡があったので、主治医の処に行って打ってきた。今年はワクチンの流通が少ないとのことだ。

待合室は爺さんと婆さんばかり、何とか世間に迷惑を掛けまいと必死に頑張っている。スガさん、自助はやっております、ご安心を、…。

なんか面白い雲だと思った。

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冒頭の文章

2021-12-14 19:20:18 | ブツブツ

朝目が覚めた時、今日はえらく寒いと思った。中々布団から出れない。

ふと、日本国憲法の前文「日本国民は正当に選挙された~ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。…」を枕元から取り出して読んだ。

身体を起こして、傍の机に在る佐藤卓己の「八月十五日の神話」を取り出して、小さな文字の8・15詔書をLEDを明るくして読んだ。「朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み、…ここに忠良なる爾臣民に告ぐ…」とある。

文章の冒頭とは、その文の方向・所在を暗示させる。大きく時代が変わったことが、此の冒頭の文章でよく分る。

もう一度、憲法前文に戻ると、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないように…」とある。ここで「政府」とあるがゆえに、国民には罪がないかのように思わせる。

しかし、この前文は非常に理想的な民主政治体制を言っているが、全体のトーンが謝罪文か反省文の感じがするのが否めない。そこが安倍晋三が吐き気がするくらい厭な処なのだろうが、そんな人のことはどうでも良い。

しかし本来感じるべき、その謝罪の気持ちを希薄化させてしまったのは、いったい誰なのであろうか。正当に選挙された国会における代表者たちかもしれないし、彼らを選んだ国民でもある。

こういう面倒くさい事を朝から想うこと自体、コロナの影響なのか、自らの玄冬期なのか、その両方かもしれない。

湘南の山側の公園から

 

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近頃の公人と私人

2021-12-13 19:13:35 | 時事

公的医療機関でもコロナ患者を排除することを知った。昨日までの主治医がコロナと知れば、急に冷酷になるのも知った。主治医じゃないとワクチンも打ってくれないことが判った。

公と私の境界が段々解らなくなったような気がする。公部門を私部門が侵食するのは案外簡単だった。いつの間にか世の中が変わって行った。

思えば、小泉―竹中時代に世の中は「官から民へ」の宣伝にすっかり踊らされたような気がする。あの頃ボーとしていた我々庶民に政権からの「公」金を使った情報操作が始まったのかもしれない。

そして、近頃は「公」ということを明確な概念を持たない人が政治家をやっていることがよく解った。国会議員とはまさに公人である筈だ。都合の良い時だけ公人で、都合の悪い時は私人という。

アベは公務員の秘書を何人も付けた自分の妻は私人と言った。スガは総務省の許可権のもとにある企業に勤めさせた息子を他人と言った。

イシワラは自らの政治団体がコロナで儲からなくなったので、国から企業のようにお金(「雇用調整助成金」)をもらった。

なんか「公」と「私」の境界がまるで解っていない政治家が、何故だか偉くなる。不思議な政治状況だ。

今日の富士山

 

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