ふぶきの部屋

皇室問題を中心に、政治から宝塚まで。
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なりふり構わなくなって来た愛子女帝擁立派

2020-07-13 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

 今までだって反日系愛子女帝を擁立するようなブログは多々ありました。保守系を気取った実は「愛子女帝派」のブログもあります。

また、全く事実と違う皇室話をさも事実のように垂れ流す、しかも皇室に関係があると思わせるようなブログ主すらいます。

何でそこまで愛子内親王を女帝にしたいのか。

彼らにどんな徳があるのか?

逆になぜ秋篠宮家をそこまで貶めるのか。何がそんなに憎いのか?と思います。

しかし、今回堂々とネットニュースで「愛子さま皇太子への道」というサイトが紹介され100人の関係者がいると紹介されてしまいました。

これで興味を持った人がアクセス数を延ばし、そして賛同する人もいるでしょう。

何というか、まるで新興宗教みたいなサイトで「愛子内親王が皇太子になれば国民は幸せになれる」みたいな論調なんですね。本当に恐ろしいことです。

 秋篠宮家へのバッシングが始まったのは雅子妃誕生後

浩宮時代から徳仁親王のお妃選びは難航していました。

候補に上った女性達が次々結婚したり、スキャンダルを起こしたりでうまくいかない。

それと並行するように、「難しい外交官試験を突破した小和田雅子」はFOCUSにも取り上げられ次第に名前が知られて行くようになり、やがてお妃候補の一人になります。

しかし、昭和の頃は宮内庁も真っ当で「チッソの孫娘を入内させれば大変な事になる」という事で相手にしませんでした。

反日の外交官である小和田恒氏がどこから「娘を皇太子妃に」という野望を抱き始めたかはわかりません。一説には福田元首相あたりと繋がっていたからとも。

彼らは1970年代に吹き荒れた「反天皇制」グループで、本来なら娘を入内させるなんて考えない筈ですが、敵の真っただ中に娘を送り込むことで、内部から崩壊させるという手を思いついたのかもしれません。

小和田雅子入内 → 男子出生 → 小和田家の孫が皇太子から天皇になる → 彼らにリベラルを植え付け反日に導き、やがて皇室は終了する → その頃は小和田家は誰も残っていない

そんな図式が浮かび上がります。

小和田雅子自身の意思はともかく、計画としてはエレナ女王のパーティに手書きで小和田雅子を入れ、皇太子を誘惑するところまではうまくいきました。

しかし、当の本人は全然そんな気はないし、宮内庁も相手にしない。

そこでマスコミを使って執拗に小和田雅子を追いかけ、あたかも「お妃候補」にずっと残っているかのような印象操作をしたのです。

たとえ小和田雅子が「私は皇太子妃になりません!」と言っても、それすら「お妃候補」の証拠になるという具合に。

何より皇太子徳仁が小和田雅子を気に入ってしまった。

そこにあるのは「愛」ではなく、彼女の見た目と学歴だったろうと思います。

それというのも、1989年に弟の礼宮が川嶋紀子嬢と婚約したのですが、この紀子嬢が国民だれもが愛さずにはいられない程可愛らしく清貧でありながら上品、そして何よりも礼宮と深く愛し合っていることがわかった。

国民は「紀子ちゃんフィーバー」を通して「憧れのプリンスとプリンセス」のラブラブな生活を満喫していました。

これに危機感を覚えたのが小和田家です。

そこで「紀子様は堕胎経験がある」「川嶋家が東宮家に怒鳴り込んだ」などとあらぬ都市伝説を流し中傷を始めました。

若くて絵になり、公務も祭祀もきっちり行う、おまけに早々に懐妊して眞子内親王を出産。国民的人気が高い秋篠宮家に対抗策を打ち出さなくてはなりません。

「見た目と学歴重視」は美智子皇后の考えでもあります。

血筋を追えばコンプレックスが刺激される。ゆえに「頭がいい。美しい」が全ての后の条件を上回り、皇太子はそれに従ったまでです。

ハーバード出身、東京大学に学士入学しオックスフォード大に留学。外務省勤務だった雅子妃のキャリアは美智子皇后好みでした。

しかし、マサコ妃は根本的に「皇太子の役割」を理解せずに入内し、自分の思う通りの生活が出来ない事に不満を持ち、能力不足も重なり次第に仕事をしなくなります。子供を産むなんて考えられない・・・というような状態です。

その間、秋篠宮家には佳子内親王殿下が生まれ、このままでいけば男子誕生も間もないと思われました。

ここから本格的なバッシングが始まり、秋篠宮家はどんどん隅に追いやられて行きます。

 秋篠宮家に手を差し伸べなかった宮家

秋篠宮家の行く末を本当に考えてくれていたのは秩父宮妃だけですが、宮妃の死後、高松宮妃も三笠宮家も高円宮家も常陸宮家も秋篠宮家を支える側には回ってくれませんでした。

特に高円宮家は東宮家と組んで便宜を図っていました。

宮家が何ゆえに秋篠宮家に目をかけなかったか。

その原因は継仁親王と美智子妃の存在です。

彼らは「美智子妃入内」の頃からの恩讐があるのです。

昭和時代は、昭和天皇と香淳皇后のおかげで何とかその絆が立ちきれずにいたものの、平成になってその糸は切れました。

宮家としては美智子皇后のやることなす事全部「掟破り」でしたし、それに追従する天皇にもあきれ果てていたでしょう。そしてその子供である徳仁親王もまた同じ愚を重ねたのです。

「皇室の藩屏」たる宮家や旧皇族・旧華族を完全に敵に回した余波は、紀宮の婚姻の遅れにも影響を与え、現在の眞子内親王・佳子内親王の婚姻にも影響があります。

血筋と家柄こそがもっとも重要な皇室にあって「美と知」がそれを上回る価値があると言い切った平成の天皇と皇后の在り方は、徳川家や宮家の正当な血筋を持つ皇族からしたら相容れないのです。

プラス「お金」と言われたらもっとです。

 

 愛子内親王を皇太子にすることによって皇室の形を変えようとする勢力

なぜこのように「愛子内親王を皇太子に」とかいうサイトが堂々と紹介されたりしたのか。その大きな原因は「天皇の退位と皇嗣誕生」にあります。

 天皇は退位してはならない

これは皇室典範の条項にある文ですが、明治に作られた旧皇室典範で決められました。

江戸時代以前、天皇が「幕府」への抗議の為に退位するという件が多々あり、その度に改元したり、争いが起こったりしたので、明治政府は近代的な世の中では「改元は一天皇一度きり」「天皇の退位は認めない」としたのです。

その代わり、天皇が病気や重篤な精神病になった時は「摂政」を置くと定めました。

 「摂政」に悪印象しか抱かなかった上皇

大正天皇の時、身体の弱い天皇は末期になると政務を行えなくなりました。そこで政府は皇太子を「摂政宮」として天皇に代わり政務を行わせます。

摂政宮というのは、ほぼ天皇と同等の地位にあることです。

これにいい感情を持たなかったのが貞明皇后と言われています。つまり、大正天皇はまだそこまで重篤ではないのに、政府の「大正天皇おろし」により無理に皇太子を摂政にした・・・傀儡にされたと思ったらしい。

大正天皇はとても家庭的な人で、側室も持たず、子供達にも優しく、その分おおらかというか西洋風の生活を好んだりしました。そういう甘さが他の皇族の反感を招き、伏見宮を覗いてほとんどの皇族から見下されていたようです。

真実はわかりませんが、「摂政=政府のいいなり」という考えが平成の天皇の頭の中に刷り込まれていたのは確かでしょう。

認知症疑いをもたれていた天皇は譲位を考え始めます。

色々噂はあります。美智子皇后が生きている間に息子の晴れ姿をみたいと思ったとかね。

でも、とにかく平成の天皇は自分の体調が悪くても「摂政だけはだめだ」と思ったのです。そこには戦前の日本を思い出させるものがあったからでしょう。

天皇の「戦前否定」は相当なもので、昭和天皇との不和もここから来ているのです。

また摂政を置き、皇太子をその地位につけるとボロが出て廃される恐れもあると思ったのかもしれません。

退位出来ない地位に押し上げることが父の愛とでも思ったのでしょうか。

 

 皇室典範に「皇嗣」「上皇后」の言葉はない

徳仁親王の即位により、秋篠宮殿下は「皇嗣」になり、美智子皇后は「上皇后」になりました。

なぜ「皇嗣」なのか。

秋篠宮が徳仁親王の子ではないので。というのです。

しかし、それなら「皇太弟」にすればいいだけの話でした。「皇嗣」というのは皇位継承権のある男子の中で最も有力である程度の意味でしかありません。「大兄」のようなものです。

しかし、政府はそれを認めてしまいました。

恐らく、有識者会議も総理も「皇太弟」と「皇嗣」の違いがわからないのでしょう。

また、「上皇后」という言葉も過去にはありませんでした。

なぜなら、過去において譲位した天皇は100%仏門に入るので、皇后もまた同じ。「院」で呼ばれるのが普通だからです。

本来、天皇の母ですから「皇太后」でないといけないのですが、それでは未亡人になると勝手に思ったんですね。

しかし、上皇が仏門に入るでもなく神道の宮司になるでもなく、仮仙洞御所に新銭湯御所まで建てさせるに至って完全に「二重権威」になってしまいました。

仙洞御所の使用人は御所とほぼ同じ。仮と新仙洞御所の予算は10億を超え・・上皇は自由に皇居に出入りして研究に励む。天皇は行事の度に上皇に挨拶しにいく。これでは天皇は格下になる。

 

 上皇・上皇后が行った掟破りが愛子内親王の立太子を後押し

このように、上皇・上皇后が行って来た数々の「皇室改革」があってはならない「愛子内親王の立太子」という幻想を呼び込み、そして実現できると信じるよすがになっています。

諸悪の根源は上皇と上皇后なのです。

例のサイトは「男女平等論」「長子相続」を盾に愛子内親王の正当性を訴えていますが、それは違います。

過去に、聖武天皇の后、光明皇后と藤原家が無理やり阿部内親王を皇位につけ、国は大きく揺れました。もう少しで皇室とは縁もゆかりもない道鏡が天皇になるところだったのです。

それを阻止した和気清麻呂が現代にいるかと言えば・・・残念ながらいません。

今、もし出来ることがあるとすれば、政府によって「内廷費」を削減することです。

 現在3億の内廷費 → 半減

 使用人を半減

 新御所を狭くする

 御用邸使用件を皇嗣家と共有

 天皇になったのだから奥志賀への静養を認めない

これだけでも十分に効果的と思いますけど。

 

 天皇の地位はあくまで「男系=父が天皇であること」それこそが皇室の権威を保つもの

この事をよく国民は考え、安易に「愛子内親王を天皇に」と考えてはいけません。

万が一愛子内親王が天皇になったら「男系」を保つ為、一生独身でいなければなりません。男系の血筋をなくす「女性宮家」などもってのほかなのです。

また、生まれた時から奇妙な動きや表情しかしない。成績もスキーの腕前も全てにおいて「ねつ造」するような内親王を天皇にしていいのか、よく考えましょう。

 

 

 

コメント (17)
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