令和も3年。平成は遠くなりつつありますが中でも上皇夫妻の存在感が当たり前のように希薄になっています。
そのうち、顔も忘れてしまいそうですが、昭和生まれの私達にとって「美智子妃」は憧れの存在であり、世界に誇ることが出来る「皇太子妃」でした。
しかし、時代が変わり次第に美智子皇后の過去が暴かれてみると「国民はこんなに騙されていたのか」と失望するばかり。いや、こっちが誰かにきちんと伝えないとまだ夢の中にいるおじいちゃんやおばあちゃんも多いでしょう。
戦後の日本、高度経済成長の象徴、華族制度がなくなりみんなが平等になった自由の象徴だった美智子妃は「聖女」のように敬われ美辞麗句で包まれていました。
しかし、現在は「彼女こそ戦後教育の悪しき象徴」になってしまったのです。
「聖女」から「稀代の悪女」へ変貌していった一人の女性。
日本の歴史上、もっとも有名でその名を残すことになる「美智子妃」「美智子皇后」「上皇后」の真実はどこにあるのでしょうか?
雅子妃や紀子妃と異なり、上皇后が生きた時代と私達は必ずしもシンクロしているわけではありません。歴史の一場面、あるいは時代背景としてしょうがなかった部分もあると思います。
それらをなるべくわかりやすく解説しながら、上皇后の素顔を追って見たいと思います。
なぜなら上皇后の存在こそが雅子妃を生み出し、そして今のような皇室に作り替えてしまった原因なのですから。
1934年 正田美智子さんが赤ちゃんの頃の写真
昭和9年は後の満州事変などを控え、つかの間の昭和の平和な時代の終わりくらいの年です。
中国は中華民国と満州国が並立しているような時代でした。
東京宝塚劇場が開場したのもこの年。
1935年ごろ
1936年ごろ
1940年ごろ
満6歳の正田美智子は七五三を迎える。
時代背景としてはヨーロッパではナチスドイツが侵攻し戦線が拡大。
皇紀2600年。
大本営が「世界情勢に伴う時局処理要綱」を発表。
「贅沢は敵だ」のポスター・・・ダンスホール閉鎖、敵性用語撤廃等々。
洋服の方はベルベッド地で一目で高級品とわかりますね。
着物の方も非常に豪華だなあと思います。貧富の差が激しかった当時、爵位などはなくてもいわゆる「お金持ち」の部類に入っていたのでしょう。
1941年 雙葉幼稚園にて。
1941年 雙葉国民学校入学
言うまでもなく昭和16年は12月9日真珠湾攻撃があり日米開戦となった年です。
1947年3月 雙葉小学校卒業
丁度、我が家の郡山の宮夫妻が同年代になるのですが、小学校時代の思い出と聞くと「ほとんどない。働かされてばかりいたからまともな授業をしてなかった。戦後は墨塗り教科書が思い出」と語ります。
当時の小学生にとって国語や修身の教科書に墨を塗って読めなくすることは、価値観が180度変わった事を指し示す重大な出来事で、先生達の態度がころりと変わった事で人間不信に陥った人達も多かったようです。やがて彼らが安保闘争などに傾倒していく気持ちもわからないではありません。
正田美智子嬢も、学校で「教育勅語」を暗唱していた筈です。
「朕思ふに・・・」で始まる教育勅語は日本人の根幹を示す大事な教えだったと思いますが、「墨塗り」によって「朕=天皇」を否定する考えが頭の隅によぎったのかなと思ったり。
一方、その1世代上の大正初期生まれの私の両親はどっぷり戦前の教育に浸っていたし、母は教育者で「教育勅語」を暗唱させる側にいたのです。台湾で日本人の子達でなく裕福な中国人の子供達にも同じような教育を施していました。父は戦争で負傷した後に台湾へ渡ります。
二人に思想のぶれや考え方の変化はありませんでした。
正田美智子は雙葉中学ではなく、聖心女子に入学しました。
雙葉が自宅から遠かったことで祖母のきぬさんが雙葉への進学に反対。
学校側の了承を取り、聖心女子に入学したのでした。
1951年ころ 運動会の?写真
1951年 軽井沢のテニスコートにて
1951年(昭和26年)当時といえば、すでに華族制度はなくなり11宮家も臣籍降下をしていました。宮邸はGHQに取り上げられ、その後は莫大な税金をかけられて世間に放り出される始末。
皇族や華族の屋敷を買い取ったのは、戦後のゴタゴタでお金を手にした「成金」達。
栄華を誇った特権階級が軒並み没落していき、有楽町のガード下には華族のお姫様が「パンパン」として立っていたなどという話を聞く事もあったようです。
国全体が飢えと貧困に苦しみ、引き揚げ者達で日本中が困っていたころの正田家は大変裕福な家庭に見えます。
正田家が経営する日清製粉は戦後も順調に成長して行ったのですね。
このような「新興貴族」の台頭が旧皇族や旧華族達のプライドをずたずたにしたことはいうまでもありません。
特に聖心女子大学のキャンパスは元香淳皇后の実家である「久邇宮家」の跡地。
正田美智子と香淳皇后の招かれざる縁というか、対立の構図はすでに出来上がっていたのかもしれません。
1951年秋 河口湖へ修学旅行
1953年 聖心女子大への入学試験後
1953年 聖心女子高等学校の卒業式
軽井沢のテニス大会で優勝
1955年 四国に家族旅行
成人の日の記念論文「はたちの願い」に応募し2位入賞
タイトルは「私達は虫くいのリンゴではない」
「成人の日を前にして、過去二十年の私の足どりを静かに顧みる時、私の脳裏には、 ある老人の語られた言葉が強くよみがえって来るのです。
「不安な、よりどころのない環境から、貴女達年齢の者に共通した性格が生れて来ている」
世間ではいわゆる「アプレ気質」で通っている私達に共通した性格、それは他の多くの人からも聞くことなのですが、私達年齢の者が二種に大別される--つまり感受性の強い 小学校五、六年のころを、変転の激しい不安な環境の中に過ごした結果、ある者は極端に 空想世界へと逃避し、他はあまりにも現実を見つめすぎる傾向が強いというのです。
前者は実生活に立脚した夢を忘れ、後者は非現実の存在すら認めようとしない、つまり、その中庸をとって夢を抱きつつ、しかも、それを実現させようと努力する 人間が少ないという事でしょう。
ギャング映画の主人公に魅せられて強盗を働いた、こんなのは前者の極端な例です。
また、ちょっとした過失から後先見ずに自殺を企てるなどは後者の例と思われます。
「この世界はリンゴの実のようだ」とハーディーの書いたテスはいっています。
「虫のついた実とついてない実と…」そして、自分は虫食いのリンゴの中に 生まれついたのだといっています。
この二、三年、私達の経て来たさまざまな体験を思い返して見るごとに、 私がはとかく自分もテス同様、虫食いの世界に生まれて来たのだと投げやりな 気持で考えがちでした。いいかえればいくら夢にむかって努力した所で、あの恵まれなかった 過去から急に明るい未来が生れ得るものではないと信じていたのです。
しかし成人の日を迎えるに当り私はもう一度、自分に聞いてみようと思う。
「私達が困難な時代に生れて来たことは確かだ。 しかし私達はこれを十九世紀の宿命論者のように全くの運命としてあきらめきってしまうべきなのだろうか。そして戦争で背負わされた多くのハンディキャップをいつまでも宿命として負って行って良いのだろうか」と。
もし、この答が「イエス」であったなら、そしてもし私達すべてが、自分は宿命的に不運な世界に生れついたのだと、考えて投げやりな生活を送ったとしたなら、私達の時代が来た時、それが暗たんたるものである事だけは間違いありません。
私の“はたちのねがい”―それは私達年齢の人々が過去の生活から暗い未来を予想するのを止め、未来に明るい夢を託して生きる事です。それは同時に、現在を常に生活の変り目として忠実に生きる事でもありましょう。現在は過去から未来へと運命の道を流れていく過程の一つではなく、 現在を如何に生きるかによって、さまざまな明日が生れて来る事を信じようと思います。
あるフランスの詩人が「生きているというのは少しずつ新しく生れて行く事だ」という意味の言葉を言っています。そして、これを私は成人の日を迎える私共の深く味わうべき言葉だと思うのです。自分の力で常に新しい自己と未来を生み出して行く、そして次に生れて来る未来を息をひそめて待つという生き生きした期待にと毎日を生きたいと思います。
戦争と戦後の混乱を背景に過ごした私達の生活は、確かに恵まれたものではありませんでした。しかし、それはすでに過去のものであり、私達の努力次第で明日は昨日に拘束されたものではなくなるはずです。成人の日を迎える今日、私はこう言いたいのです。
「むしばまれたリンゴは私達の世界ではない。私達がその中に住んでいたのは単にある一つの “期間”であったに過ぎないのだ」―と。」
まさに才色兼備・文武両道・眉目秀麗・・美辞麗句が浮かんでは消えるような方です。
しかし、この論文の中の「わたしたち」は「恵まれなかった」と言いますが、正田美智子自身は本当に恵まれない戦前戦後を過ごしたのでしょうか?
そして「宿命的なハンディキャップ」とは、自虐史観の事なのか、それとも「可哀想な過去を持つ私達の世代」が引きずる何かなのでしょうか?