平凡 1954年6月号
「さようなら学習院 大学ご卒業の皇太子殿下」
お妃最有力候補は北白川肇子さん。
島津純子・廸子さん姉妹も候補。
1956年(昭和31年)振袖でカルタ遊びをする
1956年春 新潟スキー場で
1956年 プレジデント(全学自治会長)として活躍する。全学自治会長になると洗礼を進められるが受けなかったとされる。
1956年 テニスの軽井沢トーナメント試合で三冠獲得
テニスの練習の後、友人たちと昼食
1957年3月15日 正田美智子が取得した中学校教諭・高校教諭の資格免状
1957年3月 聖心女子大学卒業
作家・武者小路実篤と。
独身時代のポートレート
「女優足」と言われる独特な足の格好は、「くせ」だったのかなと。相当自意識の強いお嬢さんであることは確か。こんなに写真を撮る度に気を張っていたのでは身が持たなかったのではと思ったり。
せっかく教師になる資格を持ちながら就職はしなかった。
確かに当時の女性は22歳くらいでお嫁に行くのが当然ですし、とはいっても公務員なら共稼ぎも可能。「働く」ことがまだ名誉にはならない時代でしたね。
1957(昭和32年)年8月18-19 軽井沢テニストーナメント表
正田美智子22歳の夏
1958年3月 23歳 日清製粉を見学
1958年5月4日 日本郵船飛田給体育場でのトーナメント後、一緒にプレーした皇太子殿下からのお土産のちまきをいとおしそうに見る
何気ない写真・・・でもカメラを意識しているんじゃないか?と?
アメリカ新聞 1958年6月18日
「日本の皇太子妃最有力は元プリンセス北白川嬢」
1958年7月 軽井沢のテニスを観戦
1958年8月9日 軽井沢のテニスコートで
1958年8月10日 軽井沢のテニスコートで
1958年夏 ダンスパーティで。ダンスを習っていた
なんていうか、学生時代から青春をテニスにつぎ込んでいた正田美智子さんという感じです。女子のプロテニスプレイヤーなどいなかった時代?
時代が違ったらプロになっていたのかなと。
皇太子の写真を見ると、遊んでばっかりいたような印象しか持ちませんけどね。
戦争が終わって10年あまり。皇族がこんな優雅な青春を送っていたとは。
1958年9月 単身ヨーロッパ旅行。
宮内庁から「皇太子妃」を打診された正田美智子嬢が、聖心女子大同窓会世界大会に出ることで色々時間稼ぎをする。要は考える時間確保の為の旅行と言われて来ました。
しかし、この当時、一部外務省の人間くらいしか海外旅行が許されない時代、単身で海を渡るのはものすごく異例。
私達が小さい頃にこの写真を繰り返し見せられたものですが、何の疑問も抱かなかった自分が不思議です。っていうか、教えられていなかったんですよね。
これは国がご用意した「旅行」であると。
婚約がすでに決定した時のご褒美旅行なのか・・・悩みに悩んでって感じではありません。ちなみに聖心女子大の同窓会が海外で行われたのはこの時だけです。
帰国し「美智子は参ります」と言った・・・とテレビでは報道してました。
正田家は一貫して「辞退」だったけど、美智子さんが「皇太子殿下の為に」と輿入れを決意した美談になっています。
しかし、写真を見る限り本人は乗り気だったようですけどね。
独身時代の美智子さん
1958年11月4日
1958年11月8日
私達が小さい頃、なぜ美智子妃が皇太子妃になったかという話については
「学習院や旧皇族や旧華族をあたったけれど、皇太子妃にふさわしい人がみつからなかたった」
正田美智子嬢は日清製粉のお嬢様でお金持ちで頭がよく聖心女子大では成績トップ。しかも美貌の持ち主。彼女に勝てる人はいなかった・・・・と。
でも、ぎりぎりまで北白川嬢が残っていたことを考えると、昭和天皇や香淳皇后の間では北白川肇子さんで決まっていたのではないかと思われます。
しかし、それを覆したのが小泉信三ら宮内庁内カトリック勢力だった・・・と言えるでしょう。
昭和の侍従長として有名な入江相政もまたカトリックでした。
戦後の進駐軍の流入と共に、バイニング夫人と共にあらたな勢力となったキリスト教信者。皇室は神道ですからこれはいけない筈ですが、公に「信仰の自由」が法律で決まった以上、皇室が表だって「NO」は言えなかったかもしれません。
彼らは、一定の勢力として「皇室を改革」していく事に情熱を燃やしていました。
すなわち、「現人神」から人間天皇への変化。そして皇室を「菊のカーテン」から引きずり出し、国民のアイドルのような存在にすること。
昭和天皇や皇族方の中では、「皇太子妃は旧皇族・旧華族がよい」という考えがあっても、実際に皇室を動かしている職員達の勢力では「皇太子妃こそ庶民から上がるシンデレラストーリーでなければ」と考えた。
家柄よりも、資産状況と学歴や美貌を優先したわけですね。
そして、それら宮内庁と正田富美さんの間で何らかの「裏取引」があった。
正田美智子を入内させる代わりに・・・というもの。
海外旅行もその一つだったかもしれません。
しかし、実際には美智子妃誕生後の正田家はひたすら身を慎み、目立たない様に暮らすしかなかった。富美さん晩年の「私が名前を上げたら困る人達が50人はいる」発言。
本当に誰のことで、何の話だったのか・・・100年後の歴史家にゆだねるしかないのかもしれませんね。
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ご自分の長女である東久邇成子さんが「庶民」としてつましく暮らしているのをご存知な香淳皇后は「新興貴族勢力」の正田美智子には絶対反対。
しかし、昭和天皇は、「科学的に」近親者との婚姻よりはよいと思った。
そんな科学者天皇の考えを利用し、民間妃を皇室に入れ、どんどん価値観を変えていった人達の急先鋒が入江侍従長だったのかもしれませんね。
(私、小さい頃からこの人の顔はテレビで知っているけど、まさにお公家さんという顔で、話し方も穏やかな中に厳しいものがあり、「お上」と天皇を呼ぶ神々しさに立派な人だと思っていたんですけど・・・ねえ・・・)