2005年11月15日 紀宮ご結婚
紀宮の結婚は、久しぶりの皇室の行事でした。
それこそ皇后さまは力を入れて準備しようとされたのです。
が、紀宮様の希望で式も披露宴も非常に質素に行われました。
紀宮さまが着用されたドレスはシンプルだけど上質な絹で作られ、そのあまりにもシンプルないでたちに、「もう少し着飾ってもいいのに」という声も聞こえていた程です。
皇族方はみな、色が被らないようにドレスを選んで着用したのですが、雅子さまはなんと、アイボリーのドレスをお召しになったのです。
お蔭で純白の紀宮様のドレスよりも華やかに見えてしまいました。
女性週刊誌は必死に「シャンパンゴールド」と呼びましたが、どう見ても「白」は「白」でした。
この頃、雅子様は「白」を選ぶ事が多かったのは事実です。
精神的に追い詰められると服装や髪型などに気を遣うゆとりもなくなり、女官の助言も聞き入れませんでした。
雅子様はご自分に似合うドレスを選ばれただけなのですが、それが一部で批判を招きました。
さらに大変だったのは披露宴の時です。
事前に皇后陛下からは「成年皇族は全員着物」という事で指示が出ていました。
紀宮様は、お母様を思って、お母様が大事にされていた着物を選んでお召しになったからです。
秋篠宮家以下、全ての宮家の妃殿下が着物。勿論、親族方も着物をお召し。
ところが、そこに現れた雅子様を見て、みなぎょっとしてしまいました。
なんと、ワインレッドのドレスにバックストラップの靴を履いてお出になったのです。
勿論、女官達は「今回はお着物でないと」と散々申し上げたのですが、雅子様は窮屈な着物が大嫌いでした。
それに、いくら何でも出席者がみな着物という事はあるまいと考えたのですね。
所が、本当に全員がお着物だったのです。
そうでなかったのは秋篠宮家の内親王お二人だけでした。
急にばつが悪くなった雅子様は口をつぐんでおしまいになりました。
席は天皇陛下の隣りで、いくどか声をかけられましたが、心の中が恥ずかしさと屈辱感と怒りで一杯だったので、最後までいる事は出来ず、途中で中座してしまいました。
控室に入ると、雅子様は女官がお茶を持ってくるのも払いのけて
「あなたたちのせいよ!」と怒鳴り始めました。
「何で私に恥をかかせるの。みんな着物だったじゃない」
「あの・・着物である事は事前にお伝えしましたが、妃殿下が」
「私が悪いっていうの?私が勝手にドレスを選んだったって?」
「それは・・・」
「全部あなた達のせいよ。覚悟しなさい」
雅子様は吐き捨てるように言いました。
周りが何と言っても「着物は嫌」とおっしゃったのは雅子様なのです。
しかし、それを否定されると途端に不機嫌になり、癇癪を起こす。
女官達は皇太子様が来てくれないかとドアの方を見ていましたが、その頃、皇太子様はほどよく酔っていらして、妻の様子を気にもかけていませんでした。
「なによ。ひどいわ。私だけを仲間外れにして」
雅子様の瞳に大粒の涙が。
いつだってそうだ。何も教えてくれない。
意地悪されているんだ、自分が病気って言われるから。病気でもなんでもないのに。
馬鹿にされているに違いない。
産んだ子が娘だったから?
雅子様の妄想はどんどん広がっていきます。
今回とは関係のない所まで遡っては悲しくなり、泣いては周りのものを投げたり、机を叩いたりします。
帝国ホテルの部屋の中ですから、女官達は備品に何かあったら大変と、壊れやすいものは全て片付けてしまいました。
結局、その日の夜、皇居で行われた紀宮様のご結婚をお祝いする内内の夕食会には欠席されました。
雅子様は心の底から両陛下を憎いと思いました。
なんて意地悪で、なんて心のない、どうして私は皇室に入ってしまったのだろう。
自分の両親だったら私に合わせて洋服を着るに違いない。
なぜ着物なのか、着物を着ないといけないってなんだ。
みんな、じろじろと見ていた。あの冷たい視線を思い出すとぞっとする。
夫はなぜああも、ぼんやりと笑っていられるのか。
妻がバカにされているのに怒りもしない。
雅子様はいつまでもいつまでもそれを考えては悔しくて鬱々とします。
20日はご夫妻でベルリンフィルのコンサートへ行く公務がありましたが、雅子様は出ないとも言わず、出るとも言わず、ずっと皇太子様を待たせた挙句、コンサート会場へのお出まし10分前にドタキャンしました。
これで少しはすっきりしました。
とはいえ、ベルリンフィルのコンサートは単なる鑑賞公務ではなく、「日本におけるドイツ年」の行事の一つだったのです。
勿論、ドイツ関係者は「どうなっているんだ!」と怒りましたが、東宮職としては雅子様の体調が思わしくないのだの一点張りで逃げました。
2005年11月27日 紀宮結婚後の茶会
あまりにも雅子様のお怒りが強かったからでしょうか。
27日に皇居で開かれた黒田清子さんの結婚を祝う茶会では、両陛下の入場の時に、皇太子様も雅子様も頭を下げませんでした。
誰がなんと言おうと頭なんか下げてやるかという気持ちで一杯だったのです。
こんな風に、強い被害者意識、これこそが雅子様のご病気なのでありました。
しかし、見た目には雅子様はひどく元気そうで、むしろはつらつとして見えます。
東宮職にしても、皇太子様の側近にしても、「なぜ公務をお休みになるのか」全くわかりません。
また、旧皇族の御親戚などは「祭祀をやらないのはなぜか」と追及する方もいらっしゃいます。
そういう風に言われても皇太子様は「雅子が嫌がるので」と受け流してしまいます。
「私は雅子がその気になるまで宮中祭祀はしなくていいと思います」と堂々と言ってしまう。
宮中三殿に奉仕する神職の方々は、自分達がないがしろにされているんだと思い、恨むより悲しくなるのでした。
天皇家と言えば祭祀の長です。
神道の鑑とならなくてはいけません。
それなのに、将来の皇后たる雅子様は「宮中祭祀に納得していない」というのですから本来は大問題なのです。
けれど、いわゆる両陛下の「開かれた皇室」路線は、祭祀よりも「お出まし」の方に向いており、雅子様の事も華麗に無視されていました。
2005年12月1日 愛子内親王4歳
12月1日。愛子様は無事に4歳の誕生日を迎えました。
何とか歩くのは大丈夫になったけど、やっぱりまだ躓きます。
両手のこわばりが強く、何かを持たせてないとダメだと思われました。
「作曲も出来る」ご優秀な愛子内親王は、結局、学習院幼稚園に入る事になりました。もうそこしか受け入れてもらえなかったのです。
小泉内閣は年明けにも「愛子天皇」誕生に向けて本格的な議論を開始するとみられ、小和田家のご両親も期待をしておられます。
そういう期待を目にすれば雅子様もそうなのかもと思い、娘が天皇になれば自分も安泰なのだと思うようになりました。
けれど、皇太子様がおっしゃった「人格否定」発言の答えはまだ出ていません。
天皇陛下は皇太子様に不信感をあらわにしていらっしゃいます。
ここはどうでも「誰が人格否定したのか。誰に言われたのか」ときちんとしなくては。
そして、「新しい公務」とは何なのかを発表して頂かなくては・・・・
あまりにもしつこく、東宮職が聞いて来るので雅子様は電話で
「そんな風に言うなら皇太子妃辞めます」と言ってがちゃりと受話器を置いてしまいました。
「言ってやったわ。これで暫く静かになるわね」と雅子様はにっこり笑って皇太子様に言いました。
皇太子様は、その物言いに恐れをなして、「そう」と言うなりご自分の部屋にこもられてしまったのです。
「皇太子妃辞めます」の言葉は、受話器の先の東宮職には重く受け止められ、どういう意味なのか皇太子様や雅子様に聞くべきだという意見が多数でした。
けれど、東宮大夫は「何を聞いても無駄。あれはぬかに釘だよ」と自虐的に笑います。
「もうこんな職場やってられない」と辞表を出す女官も多くなっていきました。
毎回、雅子様に怒鳴られびくびくする毎日に耐えられなくなった女官が多かったのです。
いくら病気だからと言って、暴言が過ぎるのではないか・・・
けれど、これが「地位の権威」なのだと、諦めるしかないのでした。