やっと東京で見る事が出来ました。
どっかの高校生が団体で入ってたけど、芝居もショーも刺さらなかったみたい。
RRR
宝塚に比べて自由度が高くなっているような気がしました。
一層「弟」っぽくなったビームは、最初こそすごいパワーで出てくるのですが、あとはラーマに甘ったれ、ジェニーにドキドキって感じの魅力的な男性でした。
でもマッリの前では頼りになる「お兄さん」で、素直で明るくて行動的なイケメンだったなあと感じました。
一方のラーマは、ある時は冷たい警察官、ある時は頼れる兄貴、ある時はシータの恋人といくつもの顔を使い分けていて、大変だなと。ビームとジェニーをくっつけようとする所なんてかなりいじらしい。それは映画でも感じた事ですけどね。
映画を知らない高校生が見ても「話しわかんねーー」だったろうなと思ったり。
その迫力とすさまじいダンスだけでも受け取って欲しいと思いましたけど。
こういうのはやっぱ小さい頃からの教育なのかなと・・・
そう、「ナートゥ」の時は拍手が鳴りやまなかったし、二階にいたんですけど、ラストの客席降りでは、小桜ほのかさんが、あのこわーーい奥様のまんま踊ってました。そっか、奥様、生きてたのかと思ったけど。
二階席からだと群舞がよく見えます。青い水と炎のダンサーたちは圧巻ですね。
極美慎が完全にキャラがコメディ化してて面白かったです。
やっぱり何度見てもよいものはよいという感じですね。
ヴィオレトピア
すみれ色って大好きなんですよ。でも配色に困る色でもありますよね。
同系色でいくか、黒を合わせるか。
その昔「紫のばら」が流行った事があって、私それを役者さんに届けたことがあるんですけど、束になると完全に葬式の花みたいになって。
このショーは後ろの群舞が黒で、前が菫色だから、完全に「喪」じゃない?って思ったりして。
そもそも主役がボロ着て静かに舞台を横切っていく事自体、ありえないんですけど、でもちょっとサッシ―が言いたかったことが理解出来たかもと思いました。
サッシーという人は、マイナス思考で頑固で自分へのこだわりが強い。
ショーや芝居にもよくよくそれが現れていて、真ん中はトップだから華やかにしなくちゃとか、そういうピラミッド型の宝塚風を理解していない。
「青年」は誰もいない舞台で一時の夢を見た。
だけどどれも最終的には悲しみとか、不完全とかで終わる。
現実にはなりえない、ただの妄想じゃないか、ばかばかしい!で消える。
この青年が、劇場で見たものを形にしていこうとか、現実にしようとか、そういう前向きな気持ちは一切なくて、ただただたかが妄想じゃん!と嘆いている。
まるで売れない作家のようですね。
「狂乱の酒・観客・酒」のシーンなんて全然意味わからなくて。
でもこういうシーンは小劇場のショーではよくありそうだなと。
何で舞空瞳に男装させて暁千星に女装をさせたか、そこがイマイチわからない。
こんな立派なキャバレーの中ですらボロをまとう青年が礼真琴なんだから。
完全に前衛的というしか褒めようがないですね。
せっかく「すみれ」が出て来たのだし、やっぱりすみれの花くらい、明るく出してほしかったな。
振付とか選曲はいいんだけど、ただ一つ設定がね~~~
わかりやすさというものを身に着ける事、これは作家に必要よ。
確か大劇場ではベレー帽をかぶったファンが結構いたけど、さすがに東京にはいなかった。
だけど、何度も言うけどやっぱりベレー帽ってかわいい。
キャトルに寄りましたが、宙組だけ「パガド」で止まってる。
さすがに本気で気の毒になりました。
何でこんな事が許されるんだろう。
舞台人にわけもなく舞台に立たせないってそれはいくらなんでもあんまりよね。
宝塚という場所には限りがあるんだから。
悔しさや焦りや怒りなどが宙組の場所に行くと、すごく感じてしまい、世の中の理不尽さにただただ悲しく思いました。