ふぶきの部屋

皇室問題を中心に、政治から宝塚まで。
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祝!ご成婚30周年 雅子様語録45

2023-08-21 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

 2006年9月2日 帰国報告の為参内

無事にオランダから帰国した東宮一家でした。

早速皇居に参内し、両陛下にご挨拶をしたものの、会話は続かず、僅か20分で退出する事に。

美智子様はともかく、陛下の頭の中には数日後に生まれるだろう秋篠宮家のお子様で一杯だったのです。

あいにく9月6日は北海道での公務が予定されており、皇居にいる事は出来ません。

皇居で待ちたい。でも特別扱いをしたと雅子妃が怒るだろう」との配慮で、あえて公務を入れたのです。

秋篠宮家に生まれる子はそれが女子であっても男子であっても大した出来事ではない」という印象操作をする為です。

 

 2006年9月6日 秋篠宮家に親王誕生

9月6日の朝、その日は曇りでいつ大雨が来てもおかしくないという天気でした。

けれど、空には龍の形の雲が飛び、誰もが瑞兆を信じていました。

愛育病院の分娩室の前では、SP数人の他に銃を携帯した女性警官も立っていました。

紀子様ご懐妊以来、政府の左翼、フェミニストからのひどいバッシング、週刊誌等によるバッシングに危機感を感じていた宮内庁は、万が一の事があってはならないと、厳重に分娩室をお守りする事にしたのです。

朝、病室を出る時、紀子様は「行ってまいります」と殿下に挨拶され、分娩室に入り、帝王切開の処置をお受けになりました。

響き渡った産声、それは間違いなく男の子、つまり親王殿下のものでした。

帰ってまいりました

ご苦労さん」の会話は穏やかで幸せに満ち、産着に包まれた親王殿下はもう泣くのをやめて、すやすやと眠っていました。

テレビ局、内閣各所に「親王誕生」の一報がもたらされました。

号外には人が群がり、国内でも海外でも大きく「40年ぶりの親王誕生」は喜びをもって伝えられました。

小泉首相は「よかったね」といい、安倍官房長官は「親王殿下のご誕生を心からお喜び申し上げます」と祝意を見せました。

北海道にいた両陛下にも吉報はもたらされました。

陛下はアドリブで「只今の秋篠宮家の出産に際し、皆さんから祝福を頂いた。ありがとう

と満面の笑みでおっしゃいました。

正式なコメントは「秋篠宮より、無事出産の報せを受け、母子ともに元気であることを知り、安堵し ました。様々な心労を重ねた10か月であったと思いますが、秋篠宮夫妻が、その全 てを静かに耐え、この日を迎えたことを喜び、心からのお祝いの気持ちを伝えたく 思います。2人の内親王も、この困難な時期を、一生懸命両親に協力して過ごして きましたので、今は、さぞ安心し、喜んでいることと思います。医療関係者を始め、 出産に携わった人々の労をねぎらい、この度の秋篠宮家の慶事に心を寄せ、安産を 祈願された内外の多くの人々に、深く感謝の意を表します

秋篠宮家にとっては短いようで長い数か月でした。

眞子様と佳子様はお母さまの留守を守り、夏休みには病室で宿題をするなど、一生懸命妃殿下にご心配をかけないようにふるまわれました。

心無いバッシングに早熟な眞子様は傷つかれ、でも妹君やお父様には愚痴を漏らすまいと耐えました。

例え、「バッシングをやめさせて」と言ったとしてもご両親は「一々反論していたら、全てのバッシングに反論しなくてはならない。自分に非がないのであれば黙っていればいい」というお考えです。

眞子様達からすると、泰然自若としているご両親には見えますが、一方で糠に釘、ご自分達が傷ついている方がおかしいと言われたらそれまでです。

「宮家に子が生まれる」という目出度い事の筈なのに、なぜ「雅子様に気を遣わない紀子様」とか「そうまでして男子が欲しいか」と言われてしまう愚、わかってはいても、幼い内親王にはアイデンティティの問題も含めて重大な傷になってしまいました。

佳子様は単純にご自分の下に「弟君が生まれた」という事に素直に喜んでいらっしゃいました。手先が器用な佳子様は、もうすでに手作りおもちゃなどをご用意してご誕生を待っていたのです。

その日の東宮御所はしんと静まり返っていました。

東宮職の職員は、雅子様の様子が怖くて私室棟へは近づけません。

とりあえず、東宮御所からはすでに用意していたコメントが発表されました。

ご無事のご出産おめでとう。妃殿下の手術が無事に終わることを祈っています。 両殿下も親王殿下もお身体をお大切に

「妃殿下の手術?」と誰もが思ったでしょう。

秋篠宮殿下からは8時40分に報告があったとの事ですが、それを無視してのコメントです。

川嶋夫妻からは「誠におめでとう存じます。『清流に臨みて詩を賦す』心に重なる感慨を覚えます。 お健やかな御成長を謹んでお祈り申し上げます」

(清流に臨みて・・帰去来という詩の引用。自然に任せて清流の側で詩を作ろう)

川嶋教授のような「何もかも自然に任せ俗世を離れ清流の側で」の心境に至る事は眞子様には無理でしたでしょう。しかし、その生きざまは紀子様に受け継がれていたのです。

黒田清子夫妻「ご無事にご出産になり、妃殿下、新宮様御共にお健やかでいらっしゃることを伺 い、お喜び申し上げております

 

日本中がお祝いに湧きたつ中、東宮御所だけは静でした。

別段、親王が誕生したからといって、それが話題になる事もなかったですし、雅子様は次のお遊びをどうするかを一生懸命に考えていました。

 

 2006年9月9日 恐竜展

 2006年9月10日 大相撲観戦

9月9日は大恐竜展、10日は大相撲観戦と歩き回る東宮ご一家。

特に大相撲観戦は、愛子内親王が相撲好きで知られていたので、内親王の前には取り組み表が置かれ、それを見ながらの観戦となりました。

しかしながら、事件はその後、起こりました。

観戦を終えて帰る時、立ち上がって挨拶した後、雅子様と愛子様だけが皇太子殿下と正反対の方に向かって歩き出したのです。

違うよ!雅子、こっちこっち」と慌てて手を振る皇太子様に気づき、はっとした雅子様も慌てて愛子様の手を取り、一緒に退出しました。

「やっぱり親王様誕生が・・・?」と誰もが思ったに違いありません。

 

 2006年9月11日 愛育病院にお見舞い

秋篠宮家に親王殿下が生まれたのが9月6日。

その日は、殿下と眞子様、佳子様がお見舞いに駆けつけ、両陛下は北海道から帰京するとすぐに病院に向かわれました。

しかし、肝心の東宮ご一家はいつまでも愛育病院に行こうとしませんでした。

小和田家と違い、慎み深い川嶋家は、東宮様他皇族方がお見舞いを済まされるまで病院に行くのを遠慮していました。

勿論、皇族方や黒田夫妻もいつ皇太子一家が愛育病院に行くのかとやきもきしています。

そして、やっと訪問したのが11日。

しかも、この日、皇太子一家はディズニー展にお出ましで、その帰りに立ち寄られたのです。

愛子様は外出で疲れているのかご機嫌斜めで、マスコミが駆け付けているのを見ると、すぐに皇太子様の後ろに隠れようとします。

雅子様は一生懸命に愛子様を真ん中に入れようと思ったのですが、愛子様は「やめろよ!」とどこから覚えて来たのかわからない暴言を吐かれ、それでも皇太子様はへらへらと笑い、その場をごまかしてしまいました。

 

病室に行くと、紀子様と秋篠宮さま、そして生まれたばかりの親王様がおくるみにくるまれていました。

おめでとう」と皇太子様は屈託なくいい「元気そうな赤ちゃんだね」と笑いました。

愛子様は無表情で親王様の方を見るでもなく、ただ不機嫌そうな声を上げておられます。

雅子様はそれに気を取られて紀子様どころではない様子。

紀子様は優しく「敬宮様、こちらにいらっしゃいませ。赤ちゃんをご覧になりませんか?

とお声をかけ、内親王に向けて親王様のお顔を向けました。

内親王はやっと眠っている赤ちゃんに手を伸ばしましたけど、触るのは怖いらしくつんと皇太子様の方へ行ってしまいます。

大人が多いから緊張するね」と秋篠宮様はおっしゃり、それから皇太子様と病院の施設の事などを話し始めました。

雅子様は戸惑ったように「小さいわね。愛子のいとこになるのね」とおっしゃいました。

いとこと言えば、眞子様も佳子様も愛子様のいとこなのですが、何か初めてのようなおっしゃり方をするので紀子様もどう返したらいいか迷い、「よろしくお願いします」とおっしゃいました。

皇位継承権第3位の親王殿下がお生まれになり、皇太子一家へのプレッシャーはこれで終わったと誰もが思ったのですが、とんでもない事で。

「愛子天皇」の夢はまだ潰えていないのでした。

 

 

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皇室ウイークリー

2023-08-20 07:00:00 | 皇室ウイークリー

ご日程

両陛下

9月15日・・・両陛下 → 全国戦没者追悼式

皇嗣家

8月4日・・・両殿下 → JICA海外協力隊(令和5年度第2次隊派遣隊員(駒ヶ根訓練所)55名

            JICA海外協力隊(令和5年度第2次隊派遣隊員(駒ヶ根訓練所)53名

            に会う

8月5日・・・両殿下 → JICA海外協力隊(令和5年度第2次隊派遣隊員(二本松訓練所)53名)

JICA海外協力隊(令和5年度第2次隊派遣隊員(二本松訓練所)56名)

            に会う

8月17日・・・妃殿下 → 独立行政法人日本学術振興会「令和5年度特別研究員-RPD研究交流会」に出席

 余談ですけど、5ちゃんの宝塚版を覗いている時、礼真琴がメンタルをやられているとみんな言い張る。「適応障害」だと。そこで出て来た「雅子様も20年患っている。最近は頑張ってるけど」という意見を見て「世間とはそういうものか」と思いました。

舞台で死ぬほど頑張っている人と、したくない事は拒否の人と同列に扱うのも嫌ですが、「最近は頑張っている」って?はあ?ですよね。

 戦没者追悼式の皇后の服装について、ツイッターでは「チャイナボタン」でないとダメなのか?という意見や、着物にしないのはおかしいという意見がありました。

しかし「着物」は間違いです。明治の洋装令以後、全ての儀式で「洋装」になっているのです。着物を着たのは美智子皇后が初めてで、理由付けが「天皇になにかあった時、動きやすいから」というへんてこなものでした。

美智子様は、全員が洋装でも着物を着る事もあり、どこか雅子妃に似てますよね。

面倒だからというのが雅子妃なら、美智子様は「自分がなじみがあるもの」だったのでしょう。

 戦没者追悼式での天皇の声がおかしかった・・・と思う人います?

体調があまりよくなかったのかなと。

 上皇夫妻 ガウディ展に 

16日、上皇夫妻は東京国立近代美術館にいかれました。

またこの格好か・・・と。色違いで何枚持ってるのかな。

上皇様は様子があまりよくないと拝察。

無理やり連れて来た感があります。

美智子様大好きな人は「お元気そうでなにより」「楽しんで下さい」というかもしれませんが、私にはそう言えません。

何でも軽井沢静養が復活するとか。那須と軽井沢ですよ。

軽井沢は即位してからは「御用邸があるのになぜ軽井沢」と言われて控えていたものの、平成末期に復活。軽井沢と草津のハシゴ静養もなさっており、雅子さんをあれこれ言う権利がなくなりました。

こんな老後が待っているなら譲位も楽しいでしょうね。

 

それにしても、愛子内親王。

夏休みなのに、出て来たのはご両親と一緒のヴィオラ鑑賞ですか。

伊勢にはいつ行くんでしょうね。

 

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星組 代役公演

2023-08-18 07:00:00 | 宝塚コラム

原因はどうあれ、星組は19日より代役でスタートする事になりました。

1幕終了時で終わった・・・っていうのは、歌劇団史上震災以来の事で、下手な休演よりもさらにショックが大きく、損失も莫大になると思います。

当日は夢組?でしたっけ?団体が入ってて、3万とか4万とか払って見てた人達、チケット代のみ返金では恨み節も募るだろうし、劇団や劇場に対する信用度を失います。

そうまでしても休演せざるを得なかったのであれば、歌劇団がきちんと本当の事を言うべきだと私は思います。

ヅカファンは表面上は物分かりがいいし、優しいけど、内実はファン同士のたたき合いになっていますし、妄想も広がり噂も広がり。収拾つかなくなりますよ。

礼真琴には罪がないのですから、彼女の為にも真実を明かすべきと思います。

 

ロナン・・・礼真琴 → 暁千星

カミーユ・・・暁千星 → 天華えま

ダントン・・・天華えま → 碧海さりお

ラマール・・・碧海さりお → 鳳真斗愛

です。

これは、ちょっと普通の「代役公演」とは違っています。

考えるに、ものすごーく小池先生のこだわりがあっての配役と思います。

だって、普通なら

ロナン→瀬央ゆりあ もしくは 稀惺かずと

アルトア伯 → 暁千星

カミーユ → 極美慎

ロベスピエール → 天飛華音

になっていた筈ですので。

暁千星は月組新人公演でロナンを演じていました。

確か、カフェブレイクでも、天飛華音フェルゼンの立ち位置など「ありあり、どうだったっけ?」と小池先生がよく聞いていたというエピがあるので、当然、代役もありでいこうという事になったのは自然な事。

今回は特に「王家側」「市民側」と分かれているので瀬央を動かすわけにはいかなかったでしょう。極美慎のロベスピエールは小池先生に激しく期待されていたようですから、やっぱりそのままって事になったのかと思います。

図らずも、ありロナンと輝月ゆうまペイロール復活ですわ。

これはこれで激しくみたいです。見たいよ~~~配信してよ~~~

 

で、代役公演についてもネットで様々な事が言われていますが

星組だと、やっぱり「うたかたの恋」「パパララギ」の紫苑ゆう怪我で、東京が麻路さきになった事が思い出されますね。

マリコさんがいつも「突然代役になってセリフ覚えるの大変で」といってました。

その時もかなり心無い事言われていたんですよ。確か。

なんせ歌が~~って「マリコは妾の子みたい」ってのもありましたよね。

そして、忘れられない2002年、花組匠ひびきの「琥珀色の雨にぬれて」「カクテル」ですね。私は東京で見たのですが、春野寿美礼を。

オサね・・・あの頃、カフェブレで必死に笑っていたけど泣いてました。その時、プレッシャーが半端ないし、さよなら公演の代役をやるなんて嫌だよねと気の毒になりました。

当然、チャーリーファンとオサファンのたたき合いがネットで繰り広げられ、チャーリーの1作退団はワイドショーでまで報道されましたっけね。

それから、私は見てないけど月組の「黒い瞳」で紫吹淳が休演した時に、新人公演やってた大空祐飛が好評だった記憶があります。

「クルンテープ」の月城かなと休演の時は、暁千星・風間柚乃と1歩ずつ上に繰り上がっていました。

という事は。やっぱり今回の代役は、かなりこだわりのものです。

 

私もロナンの代役は暁しかいない、カミーユは天華えましかいないと思ってました。

でも、鳳真斗愛がラマールは想像してなくて、嬉しい。

うちのローラ、あっちこっちに出ていた甲斐がありました。元々実力派ですしね。

そう考えると碧海さりおのダントンもダンサーとしての起用なのかなと思ったり。

 

普通に羽根しょわせてやってください。変な忖度なしに。

暁千星のメンタル?

大丈夫だと思う。ベビーフェイスだし恥ずかしがり屋の部分も大きいけど、やるときゃやる。筈。顔に傷を負った事に比べたらどうってことないよ。きっとやりきる。

そう信じています。

 

思い出した~~懐かしの1000DAYSで宙組の「エリザベート」見た時、ルドルフが組替えしたばかりの樹里咲穂でこれはアカンと思ったの。そしたらその樹里咲穂が休演していきなり夢輝のあに来た事があるんですよ。大昔、その隠し撮りを見せて貰ったけど、さすがに無理な話だったなあと思います。しかも、その日はフィナーレで音楽が途切れるというアクシデント付。音楽が止まっても踊り続ける姿月あさと以下男役の面々に驚いた記憶があります)

 

阪急の株主総会・・・荒れそうですね。

 

 

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祝!ご成婚30周年 雅子様語録  44

2023-08-17 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

 2006年8月18日 オランダ到着

 オランダの土を踏んだ雅子様は弾ける笑顔をお見せになりました。

ようこそオランダへ。アベル・ドールン城はこじんまりとしていい場所よ。きっとあなたの心を癒すと思うわ」

そんな風に女王にいわれた雅子様は、(なんて優しい人なんだろう)と思いました。

批判ばかりの日本とは大違いよ。考えてみればヨーロッパの王族ってバカンスで外国へ行ったりするのが普通よね。だって王族なんだもの。それに比べて日本は頭硬いったらありゃしない)

ベアトリクス女王は心から雅子様を労わっているように見えましたし、ウィレム・アレキサンダー王太子とマキシマ妃もくったくなく温かく迎えてくれました。

お世話になります」と皇太子様はおっしゃり、頭を下げます。無論、雅子様も同じ気持ちでした。

オランダ王室メンバーと皇太子ご一家は、宮殿のよこにある馬車庫でマスコミの取材をうけました。

優雅で素敵な馬車を見れば、愛子内親王も喜ぶと思われたからです。

王太子家のアマリア王女達は興味を持って、馬車を見たり触ったりしています。

その前で雅子様は、「弾ける笑顔」でお応えになり、日本から来た取材クルーをびっくりさせました。

「日本では見た事のない笑顔。やっぱり雅子様は海外に出ると元気になられるのだ」

雅子様の笑顔の理由は、海外に来た事というよりも、むしろ「勝利」の笑顔でした。

両陛下の裏をかいて、まんまとオランダ行きを承知させ、そして行動出来たという達成感です。今までの惨めな(何を惨めと思っていたのか)ご自分が急に価値ある者のように思えるようになったのです。

カメラマンたちは勢いよくシャッターを切ります。

フラッシュの光も何度か来ましたが全然平気でした。

 

「アマリア!」あちらの記者が叫びました。

愛子様の2歳年下のアマリア姫は気づいて手を振りました。

「愛子!」オランダの記者が今度は愛子様に声をかけました。

最初は何がなんだかわからない風だった愛子様は突然、反射的に笑いました。

その様子をみた皇太子様も雅子様も嬉しさのあまり、やっぱり大きな笑顔をお見せになるのでした。

もしかしたら内親王も、ここで正常になるかもしれないと思ったからでした。

しかし、その期待はすぐに終わり、愛子様はその後は笑顔をお見せになる事はありませんでした。

皇太子一家はアベルドールン城に入りました。女官は数人で、あとのスタッフはオランダ王室からだされ、随行した宮内庁職員や大野先生はホテルに待機となり、毎日することもなく、ぼんやりと休暇を過ごす事になりました。

2週間とはいえ、ここが自分のものになるのだと思っただけで雅子様の気持ちはたかぶります。

すごい。ずっとここで暮らしたい

そうだね。でもあくまで借り物なんだから調度品なんかには触らない方がいいよ」

皇太子さまは少しきつい口調でおっしゃいましたが、雅子様は全然動じる事もなく

なにを貧乏ったらしい事言ってるの?馬鹿みたい」

皇太子様は(何を言っても今は無理)と諦めて、すぐに愛子様がいる部屋へ行ってしまいました。

殿下は、両陛下の表情が頭から消えないのです。

こんな事をしてあとあと大丈夫だろうか。事あるごとに叱られるんじゃないか・・・そんな不安が常に心に残るのでした。

 2006年8月22日 ブルへルス動物園へ

いくら城を借り切っての静養とはいっても、何もかも自由気ままにとはいきません。

プライベートなりにゆるりとしたスケジュールが組まれていました。

城に閉じこもっているばかりではつまらないだろうという、王室の配慮からです。

22日は、雅子様が車を運転し皇太子様と愛子様を乗せ、城の庭を回りました。

どこもかしこも緑があふれていて、鳥の声が響き、まるで別世界です。

自然にふれれば愛子様も表情を取り戻すのではないかと思われましたが、内親王は車に乗るのがあまり好きではないらしく、不安そうに顔をしかめています。

しょうがないので早々に切り上げ、午後にはアーネム市のブルヘルス動物園に行きました。

これも、小さな内親王を抱えてのご静養と言う事で王室が予約したもので、近くのレストランで食事も出来るようになっていました。

レストランでは日本の皇太子一家と随行員らの為に立食パーティを企画していました。

その事は、随行員から皇太子様にも伝えられていたのですが、雅子様は

ビュッフェ?そんなのしたくない。愛子だって落ち着かないじゃない」と言い出したのでした。

実は、雅子様は例え随行員といえども、今、愛子様の様子をそのまま見せたくないと思われたのです。自分達だけならともかく内親王が一緒では落ち着いて食事も出来ない。もし、内親王が口からものを吐き出したりしたら・・・そう考えるとぞっとします。

でも、雅子、せっかくあちらが良いしてくれたんだから

じゃあ、ちょっと寄るだけにすればいいじゃない」

皇太子ご一家は。そのレストランに立ち寄り、恭しく挨拶をされ「今日はごゆるりとお食事をお楽しみください」と言われたのですが

トイレ、借りれる?」と言って、さっさとトイレを使うと挨拶もなしにレストランを出てしまいました。

唖然とするレストラン関係者に随行員の末綱侍従長は「妃殿下はお加減が悪いので」と英語で話し、日本人はみな、冷や汗をかきながらレストランを出ました。

雅子様は「静養」なんだから何をしてもいい筈だと思い込んでおられました。でも誰もそれは間違っているとは言えないのでした。

皇太子様の名誉も傷つく」と末綱は考えましたが、もうどうしようもない事でした。

ちょうど、その頃、随行していた大野医師は自分の講演会がある為に帰国しました。

マスコミの取材には「治療のめどがたったので」とだけ答えましたが、何がどう回復したのかは語らず仕舞です。

主治医が先に帰国する事などあるのだろうか。

そして、それでも平気だという雅子様の体調は一体どんなものなのだろうか。

 2006年8月23日 小和田夫妻と渋谷夫妻が来る

23日には、オランダ在住の小和田夫妻と、海外赴任していた妹の節子夫妻が城にやってきました。

自称「準皇族」の夫妻と妹君は遠慮なく城にやって来て、あちらの女官らがお茶を出すたり、軽食を用意したりするのを、品定めするように見つめていました。

どうだ?ここの生活は

父君は顔色もよく機嫌もよさそうな娘の要するにすっかり安心していました。

もう最高よ。ありがとうお父様。お父様のお蔭だわ」

私からもお礼を申し上げます」と皇太子様もおっしゃいました。

まあ、こんな事が出来るのはお前くらいなものだ。日本の皇族だからっていつもこういうことが出来るわけじゃないぞ」

ええ、本当に

さすが王室よね。この茶器・・ウェッジウッドかしら。年代物だわ。それにしちゃサンドウィッチの中身がしょぼいけど」

と母君は褒めているのかけなしているのかわからないコメントを出します。

夕食の方がすごいわよ。一緒に食べていって。礼子も。一流ホテル並なの。ワイン飲む?ここのワイン蔵も品ぞろえが豊富よ」

いいわねえ。お姉さまは。私も病気になりたいわ」

何を言ってるの。あんたは旦那様のお蔭で海外暮らしじゃないの。そっちの方がずっと羨ましいわ。私なんて・・東宮御所なんか大嫌いよ。私を宇宙人のような目で見るんだから。いいこぶりっこの秋篠宮家も大嫌い」

その秋篠宮家なんだが・・生まれる子は男じゃないかと言われている」

それは・・・」皇太子様が口を挟みます。

噂ではないのですか

それはまもなく生まれればわかる事だ。男子が生まれたらお前達はどうする?愛子を天皇にするのを諦めるつもりか」

いえ。愛子は私の娘です。皇太子の娘であり、将来の天皇の娘です。称号も持っているし宮家の内親王とは格が違う

その通りだ。秋篠宮家を追い詰め、臣籍降下に持っていければ、皇室では愛子しかいなくなる」

しん・・臣籍降下」皇太子様は驚きのあまり少し声が大きくなり、はっとして黙ります。

馬鹿ね。ここでは日本語は通じないわよ」と雅子様に叱られてしまいました。

でも、臣籍降下だなんて。陛下がお許しになる筈ないでしょう

命が危ないと思えば、臣籍降下するさ。実際に命を奪うわけではない。そう思わせればいいだけの話だ。それもこれも君達を思っての事だ。金がかかる」

お金の事は心配しないで」と雅子様は胸を張りました。

そんな事より、ワインをあけましょう」雅子様はすぐにグラスを用意するように命じました。

 

 2006年8月24日 ウィレム・アレキサンダー皇太子一家とサル公園に

24日はかねてからの予定通り、王太子一家と、有名なサル公園に遊びにでかけました。

これも「子供達の交流をかね、次世代の王室と皇室の交流を深める」という名目だったのですが。

愛子様は一生懸命に皇太子様に手をひかれて歩くものの、ついに一度もアマリア王女の方を向く事もなく、笑う事もなく終始無表情でした。

最初は一生懸命に愛子内親王に「ほら、あのおさるさんを見て」などと声をかけていた雅子様ですが、次第に面倒になってきましたし、愛子内親王の無表情さが、ウィレム王太子達の不安を煽っているようで不機嫌になってきました。

アマリア王女を見ていると「これが子供というものか」とつくづく思い知らされます。

金髪がゆれる王女は愛くるしく、活発でよく喋り、よく笑います。

マキシマ王妃の態度も余裕があり、自分の王女だけでなく、愛子様にも気を遣い

アイコ、楽しい?」と聞いたりします。

そんな普通の態度がより雅子様の神経を逆なでするというか、

静養に来ているのに何気を遣わせるのよ)と不愉快になってしまうのです。

次第に無口になっていく雅子様の分も元気でいようと、皇太子様はウィレム王太子達に喋りかけてばかりいました。

また王子たちも気まずい雰囲気にさせるまいと、殊更に明るくふるまうのでした。

でも、王太子夫妻には、いわゆる「雅子様の状態」は相当悪いと感じられたのでした。

そして女王の判断は誤りだったのではないかと感じ始めたのです。

 

 2006年8月25日 女王陛下とマウリッツ美術館を見学

25日は愛子内親王を小和田邸に預けて、まずは王太子夫妻と昼食会でした。

どんなにプライベートな静養とはいっても、一方では「皇室外交」を無視する事は出来ません。

実はオランダでは、「どうしてオランダの城を日本の皇太子一家に貸さなければならないのか」

「日本に媚びを売ってどうする」

「税金の無駄遣いではないのか」

などの批判が起きていました。

国民の支持がなければ王室などあっさり潰されてしまいます。

王室は「国際親善」の一環であると主張し、ところどころに「公務」らしいものを入れて形を整えようとしたのです。

ですから、前日のサル公園も、今回の昼食会もその一つです。

皇太子様はその論理はよくおわかりになっていたのですが、雅子様は静養に来ているのにわりと自由が制限され「社交」が求められている事に疑問を覚え始めました。

アベル・ドールンの城を自由に出たり入ったり出来るのかとおもいきや、予想以上に行事が入っていて、時間に縛られてしまうのです。

本当にゆっくり出来たのは最初の数日間だけ。

思えば、縁もゆかりもない王室の城を借りる事がそもそも常識外れという概念が、雅子様には欠けていました。小和田の父君がセッティングしたのだから、自分達は「もてなされて当然」と思っていたのですね。

それでもまあ、気さくな王太子夫妻のおかげで昼食会はなんとかうまくやりすごしたのですが、午後のマウリッツ美術館訪問は女王陛下と一緒で、雅子様としてはかなりハードルが高かったのでしょう。

女王の前では緊張してしまうし、得意の英語もあまり役に立ちません。

話しかけられてもどうしたらいいかわからず、結局、美術館では15分が限度。

私、体調が悪いので失礼します」というなり、踵を返して玄関の方に歩いて行ってしまったのです。

あまりの事に呆然とする女王陛下。

女王陛下はこの美術館に皇太子夫妻をお連れになるのを大変楽しみにしていたのです。

フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」をお見せしたいと思われていたのに、雅子様は何の感想もなく帰ってしまいました。

残った皇太子様は、そんな妻に怒るでもなく「いつ体調を崩すかわからなくて」と笑い、

フェルメールの絵に魅了されたように「これは素晴らしいですね」とおっしゃいました。

まるで最初から雅子様がいなかったかのように振舞う皇太子様を見て、女王陛下は人知れず首を横に振りました。

これが病気といえるの? 静養どころじゃないわ。病院に入院した方がいいんじゃない?

 

夜は、愛子内親王を迎えに行き、小和田邸でディナーです。

ここでやっと雅子様は心からリラックスする事が出来ました。

ご両親が一緒なので緊張せず、安心して内親王を任せる事が出来るし、余計な女官達もいないし。

何が美術館よ。堅苦しいったら。私、絵なんか嫌いだし、動物園も暫く行きたくない

雅子、女王陛下にあの態度はあまりにも・・・

私が行きたいと言った?言いましたか?美術館なんてあなたの趣味じゃない。あなただけが行けばよかったのよ。ほんと、ムカツク」

でも女王陛下はね」

女王なんてくそくらえよ」雅子様は、少し・・・というか大量に飲んだワインに酔って言いたい放題でした。

お父様、こんなの静養じゃないわよ。毎日どこかに引っ張りまわされて。昼間からワインも飲めないじゃない。夜は眠れないし」

その分、今日は飲めばいい」と父君はおっしゃいました。

そうよ。愛子ちゃんは私が面倒みるから」と母君もおっしゃいます。

雅子様はすぐに笑顔になってグラスを空けました。

お酒が何よりお好きな殿下も、さっそくウイスキーに手を出し、その日は久しぶりにどんちゃん騒ぎが出来たのでした。

 

 2006年8月26日 女王陛下のヨットクルーズをドタキャン

事が起きたのは翌日です。

実はこの日は、女王陛下主催でヨットクルーズの予定でした。

女王陛下は、「緑の竜」という名前の豪華なヨットを所有しており、朝早くから6時間ものクルーズを手配して下さっていたのです。

このヨットはベッドもトイレも装備され、食事も豪華で、オランダを訪れた各地の王族はぜひ、このクルーズに招待されたいと思う程のものです。

陛下としては、ここで王室の威厳を見せたいところでした。

ところが。

朝、姿を見せたのは皇太子様だけだったのです。

おはようございます。ご招待頂きありがとうございます。今日はよろしくお願いします」と殿下は丁寧にごあいさつされました。

あら、あなたの奥様とお子さんは?」

申し訳ありません。二人とも体調が悪くて。本日は失礼させて頂きます」

二人とも?アイコもなの?何かおかしなものでも食べたの?」

いいえ、そうではありません」

体調が悪いならすぐにお医者を呼びましょう」

それには及びません。眠れば治ります。いつもこうなので。どうぞお気になさらず

そう言われても、このクルーズは雅子妃の為に計画されたものであり、この静養の目的は雅子妃で・・・それなのに当事者が来ない。医者もいらない。母娘揃って原因不明の体調不良とは。

クルーズ終了後、女王陛下は末綱以下、随行員に事情を聞かれ、宮内庁にも問い合わせ、仰天の顛末をお知りになったのです。

妃殿下は元々朝が弱く、昼夜逆転の生活が当たり前であったこと。内親王はとてもヨットを楽しめる状態ではないことを。

ここにきて、ようやく女王陛下は、この静養計画が失敗だった事がわかりました。

そして心からがっかりされたのです。

裏切られたような、日本政府は雅子妃の状態をよく知らせもせずにこちらに依頼して来たのだ。なんという国だろうか。こんなのと将来的に付き合っていかなくてはならないとは。

こんな重荷は嫌だ・・もう歳なのかもしれないわ。女王陛下はご自分の目の曇りを責めるのでした。

 2006年8月28日 女王主催のディナー

そして、いよいよ。

帰国を前にしての女王陛下主催のディナーが開催されました。

やめたかったけど、もうやめるにはいかないものでした。

このディナーには、ウィレム王太子夫妻、ベルギーのフィリップ王太子夫妻、ルクセンブルクのアンリ大公夫妻も招かれていたのです。

フィリップ王太子夫妻は、結婚式にも参加していましたし雅子様とも顔見知りでしたけど、あの「流産」事件があり、ベルギー王室は天皇家にひたすら謝罪されました。

これらの王族を前に、雅子様は

ヨーロッパの王室は近くていいですね。すぐに遊びにこられて」と言ってしまい、みんな一斉に口をつぐんでしまいました。

確かにその通りではあるのですけど、王室同士が常に遊ぶために交流しているわけではないと、女王陛下は噛んで含めるようにおっしゃいました。

それはヨーロッパの王室の成り立ちから姻戚関係までの説明になってしまったのですが、雅子様は頷いてはいましたが、ほとんど聞いていませんでした。

確かに、ベルギーやルクセンブルクの方々が、「スキーはやっぱりスイスでないと」などと言われると心から羨ましくなるし、しょっちゅう城の外に出ているような印象があり、それに比べて旧弊な皇室…と雅子様は訴えるように「皇室なんか」ととくとくとおっしゃったのです。

フィリップ王太子夫妻は「またか」と思ったのですが、他の方々はこんなに自分がいる所の悪口を言うお妃は初めてという目で見ました。

しかし、その視線にも気づいていませんでした。

 2006年8月31日 帰国

そして、長いようで短かったオランダ静養は終わり、8月31日、皇太子一家は帰国したのです。

なぜか、高速を品川で降りて隠れるようにして東宮御所に入りました。

日本では紀子様が出産を前にして、厳しい入院生活を耐えていました。

野村東宮大夫はひそかに「辞意」をもらしていましたし、末綱侍従長も、オランダで胃がキリキリと痛む経験ばかりさせられて、げっそりとして、こちらももう辞めたいと思っていました。

雅子様も、思いのほか自由がなかった静養に、何となく敗北感を感じていました。

 

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星組さんよ~~~何があったのよ~~~(涙)

2023-08-16 07:00:00 | 宝塚コラム

 驚きしかないです。

15日の昼公演の「1789」がよりによって1幕後、2幕前で支配人が出て来て「体調不良者が出て」という事で中止。

そのまま17日まで公演中止とは。

いやいや、宝塚がまさかこんな事をするって事が。

誰か倒れたか?通常、トップが倒れたとしか思えませんが。

東日本大震災以来ですよね。こんなの。

18日以降は体調を見ての判断だと言う事ですが。

これで「仕方ない」「頑張って」と文句も言わずに帰る観客、えらすぎる。尊敬しかない。

他では考えられない・・・いや、そんな事ないか。

総じて日本人は優しいし、代役でいきなり2幕から始まっても困るしね。

しょうがない・・・しょうがないんだよ・・・・って思うしかないのよ。

自分を納得させる為には。

 

今年の夏は異常に暑いし。星組のパワーは場内をさらに熱くしているしね。

本当に、エアコン壊れたんじゃ?っていうくらい暑いから。

星組さんは、「めぐり会い」「グランカンタンテ」から、ずっと全力で歌って踊らないといけない作品ばかり当たって、手抜きの「手」も出来ない感じです。

それは思ってたんですよ。歌にしてもダンスにしても、礼真琴の圧倒的な歌唱力の前ではついつい一生懸命にならざるを得ない空気があるというか。

「赤と黒」を見た時も、半端ないエネルギーで、これに引きずられて組子はみんな力を出し切る。

「1789」は礼真琴自身がやりたくてしょうがなかった作品だから、そりゃあもう、燃えますね。燃えすぎて・・って話じゃないのかな。

 

でも、いきなり休演って。危機管理がしっかりしてない部分もあるんじゃない?

歌劇団にとって損失にはなるでしょう。

阪急貸し切りだったの?夜は総見だったっけ?

茶会はどうなる?とか・・・1回見る事が出来てよかったです。

それにしても。うーん。泣くに泣けないファンの気持ちがわかるかっ!

 

でも、こういうアクシデントがあると、余計に燃える星組なので再開した時のパワーを考えると劇場内エアコンを10度くらいにする必要があるかもしれない。

 

 

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祝!ご成婚30周年 雅子様語録 43

2023-08-14 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

元々、オランダ静養への布石は1年も前から小和田家では検討されていました。

何とかして雅子様に海外へ行ってストレスを発散した欲しいと思うご両親は、雅子様の好きそうな国を色々考えたのです。

最初はスイスでスキー三昧と思いましたが、年末年始は皇室行事が多い為、夏がよろしいだろうと思われました。

そうなってくると、小和田の父君が赴任されているオランダが最も適しているし、向こうで親子水入らずの時間を持てば「マイドーターイズプリンセス」を周りに実感させることが出来るだろうと・・・そんな風に父君はお考えでした。

皇族は相手方の「招待」がなければ外国へ行く事は出来ません。

その為、父君は長い時間をかけ政府を説得し、小泉首相に対しては高飛車に出て、オランダへの資金援助とその見返りとしての静養を取り付けました。

オランダのベアトリクス女王は、大そう雅子様に同情され、快く「ヘッド・アウデ・ロー」城を2週間もの間、お貸し下さるとおっしゃいました。

けれど、ひそかに小和田傘下の外務省職員と首相側近の間であうんの呼吸で進めていたものの、さすがに宮内庁はこの静養に反対しました。

皇族が遊びで海外へいくなどとは考えられない」

「なぜオランダなのかわからない」

「国内の公務はされないのになぜ外国なら行けるのか、整合性がない」

という理由です。

しかし、そんな宮内庁幹部の反対をほぼ無視して、小和田の父君のいいなりになったのが野村一成東宮大夫です。

彼は外務省時代、父君の部下として働いており、雅子様とも顔見知りの仲なので、東宮大夫に就任した時から、ほぼ何でも雅子様のいいなりでした。

オランダからの快諾はあったものの、それは内側の話で、野村東宮大夫はこの事を両陛下にご報告しませんでした。

報告したら潰されると懸念したのでしょう。

日程もどのように決めたらいいかと思案しました。

7月から8月の間、愛子内親王の幼稚園の夏休みを利用。けれど、7月には那須への静養が入っているし、そうなると8月。

8月は6日、9日、15日を外さなければなりませんでした。

というのも、両陛下のご意向で6月23日、8月6日、8月9日、8月15日は静に過ごすように厳命されていたからです。

とはいえ、雅子様は終戦記念日にテニスをした事もありますし、戦争の記憶など雅子様にとってはどうでもいい事でした。

とにもかくにも15日を避けると、出発は8月17日となります。

実は8月17日はかなり重要な日でした。

それというのも、戦前、日本が占領していたインドネシアが、日本軍の撤退と同時にオランダに占領され、独立運動が起きました。この戦いには元日本兵も多数参加しており、以後、インドネシアは親日となり、オランダは反日となりました。

その記念日が8月17日なのです。

オランダには、まだ日本への根強い反日感情を持つ人達もいました。

そんな国から恩を受けるというのは、本来であれば国益に反する事なのですが、そんな事は小和田の父君は最初から承知。

そもそもが「日本は永遠に戦争犯罪人として謝罪し続けるべき」と独自の理論を繰り広げる小和田閣下は、オランダに頭を下げることなど簡単な話だったのです。

6月23日、おりしも沖縄が負けた日に、野村東宮大夫はオランダへの静養を正式に発表したのですが、両陛下にとってはね耳に水、が、決まった事である以上、裁可せずにはいられませんでした。

 8月13日 両陛下に挨拶

笑顔で参内して来た雅子様を見て、両陛下は複雑な気持ちになりました。

「決して失礼のないように」とだけ言われましたけど、雅子様はほとんど聞いていませんでした。

勿論、出国前の祭祀も雅子様は行いませんでした。

そしてこの日、実は小和田のご両親も帰国していたのです。

 

皇室内は、実はかなり大変な事態になっていました。

秋篠宮妃の紀子様が「前置胎盤」と診断されたのです。

ご懐妊が発表されてからも普段通りの公務を続けてこられた紀子様ですが、ここにきてとうとうドクターストップがかかってしまったのです。

一歩間違えれば大出血を起こして死んでしまうかもしれない。

しかも高齢出産という事もあり、宮内庁も宮家も緊張状態です。

8月16日、紀子様は愛育病院に入院されました。

いつもはお付き添いなどなさらない殿下がご一緒である事から、相当厳しい状態なのだと言う事も感じられました。

秋篠宮ご一家は万が一を考え、ご一家で記念写真を撮られる程だったのです。

しかし、この事に対して女性週刊誌は「16日はオランダに出発される前日。この日にわざわざ入院して雅子様にご心配をかけるなんて紀子様は配慮が足りない」と書き立てました。

前2回出産時とは明らか違う体調に紀子様自身が戸惑われ、その辛さに涙を流されたというのに、週刊誌が追い打ちをかけ「もし男子が生まれても皇位は愛子様に」とか「男子を出産する事が嫁の使命とは古すぎる」とか様々な形で秋篠宮家に対し誹謗中傷を繰り広げます。

そのご様子にポーカーフェイスを貫いていた眞子様の心情、まだよくわからないけど、悪口を言われているような気がしている佳子様を思えば、秋篠宮両殿下も何か言い返したい所だったでしょう。

しかし、紀子さまの入院で言い返す事も出来ず、ただただ母子共に健やかにと祈る事しか出来ません。

紀子様にとっては長い半月の始まりでした。

 

しかし、そんな秋篠宮家の事情などみじんも気にすることなく、雅子様はオランダへ行く事を楽しみにしていました。

今回は公務ではないので一般機を使います。

随行員は20名近く、その中には大野医師や美容師までもが付いてきます。

一般機のファーストクラスを貸切り、ビジネスクラスもいくつか抑え、同乗する一般客にはかん口令を敷き、どこまでも「雅子様ファースト」です。

愛子様の状況もみなに見られてはいけませんので、ファーストクラスにはカーテンが敷かれ他人をシャットアウトしました。

費用は総額1億円。

内廷費からは出せないという事で、東宮家からお金を出す事にしたのですが、実際は機密費に手をつけたと言われています。

 2006年8月17日 オランダへ出発

颯爽と現れた東宮一家は、ラフなスタイルで愛子内親王のピンクのワンピースがとても可愛らしい・・・これが一般人であれば誰も何も言えなかったのにと。

内親王にとっては初めての外国です。

空港で見送りの宮内庁関係者に挨拶をするご両親を無視して、無表情のまま。

さすがに雅子様がお辞儀をさせようとしたのですが、内親王は決して頭を下げようとはしませんでしたし、一言も何もおっしゃいませんでした。

そんな内親王を笑って見ている皇太子様に陰でため息をつく随行員もいたのです。

 

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皇室ウイークリー

2023-08-13 07:00:00 | 皇室ウイークリー

ご日程

両陛下

7月18日・・・天皇陛下 → 通常業務

7月30日・・・天皇陛下 → 明治天皇例祭

7月31日・・・天皇陛下 → 離任大使に会う

8月1日・・・天皇陛下 → 旬祭

             通常業務

8月8日・・・天皇陛下 → 通常業務

 

皇嗣家

8月7日・・・妃殿下 → 福島県訪問

・プラネタリウム覧

・国際天文学連合アジア太平洋地域の天文学に関する国際会議」開会式および懇談会臨席

・会津藩校日新館ご視察 天文台視察

・会津高原星の郷ホテルで星空観察

8月10日・・・妃殿下 → 「令和5年度特別研究員-RPD研究交流会について説明を受ける

 天皇家は8月6日と9日に黙とうしたそうですが、どこにもそんな証拠はありません。

なぜわざわざ「黙とう」を日程にいれるのかわかりませんが、平成時代の悪しき慣習ですね。

悪しき慣習と言えば「お慎み」もです。

元々上皇后が始めた事で、祭祀に出ない言い訳として出ています。

美智子皇后の時はやれ、肩が足がと色々な理由をつけていましたけど、ティアラや勲章を外して宮中晩さん会にお出になった時は正直「終わったな」と思いました。

皇后なら何をしても「法律」という思想は美智子皇后から始まり、雅子さんに受け継がれたのです。

 郡山のビックパレットは被災者たちの避難所でしたね。今の郡山はすっかり新しい街になっていますから、紀子様も喜ばれたでしょう。

 日新館は私も3回程行きましたが、会津は夏に行くところじゃないですよ。東京より暑いし、日新館は太陽の光が照りまくりで日陰がないんですよ。

天文台跡やプールもご覧になったでしょうね。あそこには木馬があって、我が家のジュニアも二若君も乗せて写真を撮りました。でも日新館の中ならともかく、外は本当に暑かったろうなと。

 信子妃 ハンガリーから帰国 

ハンガリーを非公式に訪問されていた三笠宮妃信子さまが帰国されました。

お元気そうで何よりです。若々しくて素敵なお召し物ですね。

 

 

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愛子内親王はどこへ消えたの

2023-08-11 07:00:00 | 皇室報道

 本当に暑いですね・・・・

ベランダの植物が見事に枯れました

ちゃんとお水を上げているのになぜ? まあ、マンションのベランダは陽射しが強いのと水がお湯になっているからかな。

もうあきらめるしか・・・そういうのはうちだけじゃないようで、今年は庭の草木が枯れるというニュースをやっておりました。

沖縄や九州は災害が起きる程降っているのに関東は水不足になりかかって、街路樹まで枯れている始末です。

「日照りの夏は涙を流し」どころじゃないわ。

日比谷シャンテのキャトルのすぐ横にある「プレイゴ」というイタリア直輸入のアクセサリー屋さんが今月末で閉まるというので、思わず自分としては爆買いをしてしまいました。以前から好きだったんだけど、買う勇気がなかったの。

結構お高いので でも閉まるとなると残念で・・・・

そしてそのプレイゴの横では「ゲキ・シネ薔薇とサムライ2」のコラボで天海祐希らの衣装が展示されておりました。オスカル様とアントワネット様が合体したようなドレスやら、トート閣下もどきの衣装、本当によく似合ってて。見たかったなあ

正直、劇団新感線の作品って意味がわからないんです。

それくらいはちゃめちゃなんですけど、天海祐希が出ているのは好きなんです。

特に「女王の帰還」でしたっけ、この衣装展の。まさに天海祐希の為に作られた衣装。

ご本人がテレビで燕尾服なんかもあって「伝家の宝刀を抜きましょう」とか言ったようだし。

これが宝塚時代、やたらナチュラルに拘ってた未熟な男役さんかと思うと、人の成長は嬉しいなと思います。今の天海祐希の自然体は大好きです。

で、本題なんですよ。

とにかくネットが荒しが暴れまわっていて、どうしたの?と思っていたら、秋篠宮両殿下のベトナム訪問が決まったんですね。

だからってとにかく悠仁殿下と佳子様への誹謗中傷がひどすぎて、お前らいい死に方は出来ないぞと言ってやりたかった。

で、ニュースとして愛子内親王が黒田清子さんから借りたディアらとアクセサリーを返却する事なく、自分のティアラは「物価高騰で節約の為」に作らない事になったという。

女性週刊誌にも「雅子様節約」の文字が踊りましたが、かつてディズニーランドで豪遊し、那須で船を貸切って花火大会に興じ、オランダ静養やら東大病院をホテル代わりにしてた人の言う事かと呆れました。

ツイッターなどでは「黒田清子さんのティアラを返せ。借りパクは許さない」と心ある人達が必死に呟いているのですが。

荒らしがわかっていないこと。

 黒田清子さんのティアラは上皇家の私物として作られたもの

 自宅で保管出来ないから宮内庁に預けているだけで、本来は嫁入り道具として持って行くはずのものです。

 内親王のティアラやアクセサリー一式は国家予算として作られるもので、それは単に「内親王としての体裁を整える為」であり、「宮中晩さん会など、外国王族来日の時に恥をかかない為」であるわけです。

それを「節約」を名目に作らないとしたら、その分の予算を国民に還元しなくてはならないのでは?と思うんです。

私はこの「ティアラを作らない」には理由があると思っています。

① 愛子内親王は今後、宮中行事に参加するつもりはない

② 天皇皇后は自分達の御代ではティアラをつけるような行事は開催しない

③ 皇室にお金がない

です。

でも①や②だと、ちょっとおかしい点もあります。

あの雅子さんが、娘に贅沢をさせないわけがないと思うんですよ。

生まれた時から「外国製」に拘って、小学生の時からブランド品を持たせていた雅子さんが今更「物価高騰の為」などと理由をつけて内親王のティアラをつくらないなどという事があるでしょうか?

誰よりもお金をかけて立派なものを作りそうなものですね。

それを降嫁した叔母上から借りてそのまま・・というのは、意地悪過ぎるというのもあるけど、一般人としても恥ずかしい所業です。

高円宮家や常陸宮妃などは、ティアラを貸し借りしていました。

高円宮家の典子さんは小袿も借りてましたよね。

だから決しておかしい事ではないのです。

しかし、借りておきながら返さず、理由もなく自分のものは作らないというのは変なんです。

それなら今まで、眞子様や佳子様が黒田さんからティアラを借りてもよかった筈。

今後、そういう事があってもいい筈。

しかし、愛子内親王は叔母上のものを自分で独占してしまっていると言う事が問題なのです。

黒田さんから「返して」とは言えません。

両陛下が「どうせ使わないでしょ」というだろうし、妹から兄にそれは言えないです。

今現在、一度きりですけど、愛子内親王の頭に載ったティアラは見事に形が変わっています。つまり「愛子仕様」にしたんですよね。それは貸し借りするとしてもルール違反ではないでしょうか。

そこで③の理由が思い浮かぶのです。

思えば、皇后の洋服がどんどん着た切りっぽくなっているし、素材も悪くなっているし、そんな格好でインドネシアまで行ってしまったと言う事が恐ろしい現実です。

ドレスは1着新調したようですけど、どうみても安っぽい。

佳子様のように、既製品をセンス良く着こなして自分流におしゃれする能力が皇后にも愛子内親王にもないので、どれもやぼったく、生地の割には安っぽく見えるだけなのかもしれませんが。

内廷費・・・3億2400万円(上皇夫妻と折半)

・皇族費・・・総額2億6017万円

・宮廷費・・・総額61億2386万円

で、本来、ティアラは「宮廷費」で作られなくてはなりません。

宮廷費は儀式や行幸啓、外国訪問の為の費用、皇室財産の保管などに使われるもの。

この61億の内訳が知りたいですが、ここ3年以上、天皇家は海外訪問していなかった。

イギリスの国葬へ行った時って、かなりお金を使ったんだろうか。予定外で。

一番怪しいのは宮廷費を本来の使用目的とは違う方向に使っているんじゃないの?って思う事なんですが

何に・・・当然、マスコミ懐柔の為の費用。

ヤフコメバイトだって1コメントいくらか払うでしょ?月に1人当たり1万としてもそれが何百人もいればかなりの費用がかかります。

また雑誌等に秋篠宮家への誹謗中傷を書かせる為のお金。これは女性週刊誌3紙(週女、自身。セブン)文春に新潮、PRESIDENTや朝日新聞系への賄賂、心づけ等、小和田家を通しているのか外務なのか、学会なのかわかりませんが・・・その中には「お布施」もあるのでは?

神社へ寄進はしない天皇皇后ですが、あちらさんには相当なお布施をしているんじゃないかと。

そう考えると、秋篠宮家が参加する各祭祀や行事は削れないけど、他は削る。

内廷費も「どうせ上皇夫妻は公務がないんでしょ」とばかり手をつけてそうで。

(そう思われたくないなら上皇后陛下も着た切りすずめを辞めて欲しい)

最近はあまり「お忍び」もないし、静養まで中止するってのはよほどの事と思うんですね。

そういう事が政府にばれての罰なのか(岸田さんは無関心だろうけど)

 

小和田夫妻がどこにいるかも不明です。

少なくともコンクリ御殿にはいない。軽井沢にもいる様子なし。

本来は年金で悠々自適の筈ですけど、小和田閣下にはリーマンショック時の「負債」が今ものしかかっていると思われ、本当に皇居にいたら・・韓ドラ状態が目に見えるったらないですよね。

まあ、妄想ですよ。妄想妄想。

 

で、秋篠宮殿下と悠仁殿下が鹿児島で素晴らしいご公務に励まれ、悠仁殿下もすっかり素敵な男子にお育ちになっていて、未成年ながら公務見習いもされている。

じゃあ、愛子さんはどうなったの?と誰もが思う所ですが、

先日、唐突に「卒論の為に東京国立博物館に行かれました」との報道が。

しかし・・・しかしですよ。

内親王が乗ってるのがこの車なんです。

そもそも、一人なのになぜワゴン車。なぜ窓にスモークかかって、運転席と後ろの席の境目に黒いビニールシートが?

暑いでしょうし、息詰まりませんか?

突然のお出ましであれば必ず窓を開ける、手を振る、どこかの婦人部が旗もって「愛子様~~」をやる筈。それが全くなく、車から降りた様子もなし。

ツイッターでは本当に博物館に電話した人がいて、職員の対応は「来ていたと聞いています」だそうで。

いくら時間外だったとはいえ、誰もいない博物館に行く筈なく。

結論として「行った振り」をしただけと。

こういうの、得意でしょ?陛下なんぞ、車の後ろの席に隠れて新浜鴨場にプロポーズに行ったというくらいだから、騙すのが得意というか当たり前なんです。

それで国民が騙されたと思う方がどうかと思うんですけど。

さらに女性誌に「もう一人のアイコ」とタイトルを打って、愛子内親王は週に3日は登校している。その際はSP10人が取り囲んでいるのですぐにわかる。

学友がない。一人でタリーズコーヒーでお茶してる。

最近、同じ「アイコ」という名の学友が出来て青春を楽しんでいる。

よりによって、「同じ名前の学友」ってホラーじゃないですか。

そんな事してたら、すぐ一般人に見られるって。マスコミも写真を撮る筈。

ところが、そんな噂すら聞こえてこないんです。

悠仁殿下の場合、ぽちぽちと築附から「真実」が漏れ出て、結構学校生活を楽しんでいるのが聞こえて来るし、登校風景は何度もカメラに収められています。

しかし、愛子内親王はまるっきりそれがない。

 

私は、天皇一家のこの静けさが怖いです。

裏でどんな恐ろしい事をやっているんだろうと思って。

来年の悠仁親王の成年の儀も、きちんとやってもらえるんだろうか。

天皇みずから拒否するんじゃないかと心配です。

娘の成人もきちんと出来ない人が、40年ぶりの加冠の儀を開催するかと・・・・

なんだかんだ理由をつけて簡略化するか、執り行わないか、宮家の私事として皇居に入れないとか・・・ありえそうでしょう?

何より、愛子内親王は今、何をしているんだ?と思いませんか?

勉強してる風には見えず、公務も静養も祭祀も出ない。人事異動者に会釈すらしないのは、何かよほどの理由があるからじゃないのか?と。

淀んだ皇居の内実を、何とか白日の元にさらせないでしょうかね。

 

 

 

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祝!ご成婚30周年 雅子様語録 42

2023-08-10 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

雅子様の「欠席」はまるっきり改善されていませんでした。

愛子内親王を幼稚園まで送っていくと、そのまま帰宅せずラウンジでおとり巻と一緒にお茶をして笑っている。

愛子内親王がお休みの日には一日中部屋に引きこもっている。

昼夜逆転の生活は相変わらずです。

紀子様はご懐妊中にも関わらず、地方公務も赤十字大会もお休みになりませんでした。

意地悪な女性週刊誌は「紀子様は少し運動をした方がいい。体調管理の為に動いている」などと書き立てます。

時が経つにつれて「やっぱり将来の天皇は愛子様にすべき」という意見が出始め、女性議員達が「男女平等の観点から皇室典範の改正を望む」と言い始めます。

どうしてこんな事がいわれるようになったのかと言えば、紀子様がお産みになるお子様は「男子」という噂が流れていたからでした。

誰も何も言ってないのに噂が一人歩きして、それがある一定の人々の気に障ってしまうと言う事はありますが、高齢出産の紀子様に対してはあまりにもひどい言いようでした。

 

雅子様も、本当は気になってしょうがありませんでした。

結婚当初こそ「子供なんて馬鹿でも産める」と思っていたのに、そう思っていた自分が全然かなわないことだったのです。しかも8年かけてやっと授かったのは内親王。

それに比べると紀子様はあっという間にご懐妊されたように見えます。

まるでネズミの子じゃないの」と毒づいてみても、もし男子だったら・・・と思うといてもたってもいられません。

 2005年6月8日 両陛下東南アジアへ出発の見送り

それは、両陛下の海外訪問の前日にもたらせた吉報でした。

オランダの王室が雅子様の為に城を貸して下さるというのです。

交渉したのは、オランダの国際司法裁判所の所長である小和田家の父君でした。

父君は、紀子様のご懐妊で大そう傷ついている娘を何とか元気にしてやりたいという思いと、「皇太子妃であればここまでできず」という権力を表す為に、わざわざ外務省を通してオランダ王室に交渉させたのです。

外務省は今や小和田閣下の天下ですから、イエスマンばかりです。

オランダのベアトリクス女王は、夫君のクラウス殿下をうつ病で亡くされている事から雅子様にとても同情的になりました。

さらに、オランダ政府の目の前に「金」という人参をぶら下げられたら、城を貸すくらいどうって事ありません。

そこで、オランダ王室から招待状を取り付けて、「オランダ静養」は決定したのです。

まさに、両陛下不在のおり、さっさと発表してしまえばこちらのものです。

見送る雅子様の笑みは、すでに決まった事にとても喜んでいたからなのです。

 2006年6月19日 電気自動車を見る

それからの雅子様は一層、自分勝手な行動に拍車がかかるようになりました。

自分が気に入らない事はとことん拒否して、好きな事だけ行うという姿勢。

これは「治療の一環」として大野医師が許可したので、誰も文句を言えません。

 

香淳皇后の祭祀はお休みになりつつ、翌日にオペラ鑑賞をした時は、さらに批判を招きましたが、「緩やかな回復を促す為」という大野医師のお墨付きがある為、誰も何も言えませんでした。

雅子様にとって「宮中祭祀」は永遠に理解出来ない壁のようなものです。

その意義がどうのと言う前に、雅子様は手順を覚える事が出来ないのです。

ご優秀な筈の雅子様に「覚えられないこと」があるなどとあってはなりません。

ゆえに「宮中祭祀を理論的に説明できない限りやらない」という事になっているのです。

 

オランダ静養については、結果的に両陛下には事後報告になりました。

両陛下は大変驚かれ、そして失望されました。

日本の皇族がバカンス目的で海外へ行くというのは今まで一度もない事です。

しかも、公務を全くしないで地方すら行かないのに、なぜ海外へ行くというのだろう。

オランダ王室から招待を受けたと言っても、無理やりとりつけたに違いない。

そのような「借り」を王室につくるなどもってのほかなのです。

私達は静養目的で外国へ行った事はない。どうしたらそのような考えが浮かぶのか

皇太子様は「お医者様の判断です。雅子は日本にいると具合が悪くなるんです」

しれっという息子に陛下は「それなら皇室を出て自分の力で外国へ行けばいい」と大声でおっしゃいました。

陛下、お身体が」

皇后様は慌てて止め、皇太子様に「もう決まった事なのね」とおっしゃいました。

皇太子様は、叱られている風なので、少し目を伏せて

それでオランダ静養の話をもっと詳しく申し上げたいので、葉山の静養にご一緒させて頂けませんか」と申し出ました。

てっきり快く応じて貰えると思っていた皇太子様ですが、陛下が「いや、来なくていい」とはっきりおっしゃったので、とても驚かれました。

でも・・・雅子も私も両陛下と一緒に静養する事を楽しみにしています。愛子だって」

別に静養に一緒しなくても、その気があるならいつでも愛子を連れてくればいい

そうよ。私達に何を言いたいのかわかりませんけど・・・今回はお断りするわ

さすがの皇太子様も、両陛下が気分を害している事はわかります。

でも東宮御所に帰れば帰ったで、今度は雅子様が怒り出すでしょう。

葉山に合流したいと言ったのは雅子様なのですから。

これは小和田の父君からの厳命で「せいぜいご機嫌取りをしてこい」との意思表示だったのです。

困ってしまった皇太子様は、暫く無言でもじもじなさっていたのですが、やがて諦めて東宮御所に帰られました。

何でダメだったのよ。言い方が悪かったんじゃないの?」と雅子様に責められ

わからない。ごめんね。またチャンスがあるかもしれないし」

チャンスが意外と早く巡って来ました。

7月1日、その日はちょっと雨模様だったのですが、両陛下主催のホタル狩りに、東宮一家、秋篠宮一家、黒田夫妻が招かれたのです。

広い客間から見える闇の中に、沢山のホタルが光っています。

雨の音と、蛍、幻想的な風景に、雅な一時を過ごしていたのです。

やがて、眠くてぐずり始めた愛子様を連れ、東宮一家が一足先においとまをする事になりました。

皇太子様はその時「葉山静養の件、よろしくお願いします」とおっしゃいました。

秋篠宮家も黒田夫妻も何の話か分からず、「?」という顔を向けたのですが、両陛下はあからさまにご不快な顔を見せて「あれはもうお断りした事だから」と皇后様がおっしゃいました。

すると、雅子様は血相を変えて皇后陛下に食ってかかります。

どうして一緒に行っちゃダメなんですか?私達が行きたいと言っているのに。いつもは全然訪ねてこないとか言うくせに何で今回はダメなの?」

人には予定というものがあるのですよ」皇后さまは諭すようにおっしゃったのですが、雅子様は顔を真っ赤にして

オランダへ行くのがお気に召さないって事ですよね。私達だけが海外に招待されるのが。両陛下だって何回も行ってるじゃないですか」

雅子、もうやめて・・・」と皇太子様はぶるぶる震えながら雅子様の手をひっぱります。

最悪!私達がいい思いをするのが気に入らないんだわ。わかりました。一緒にと言われてももう一緒に行きませんから」

と言うなり、雅子様はドアをどんと叩きつけるように閉めて行ってしまいました。

ついほんの数分前までの穏やかな雅な雰囲気は失われ、雅子様の暴言の響きだけが部屋に残りました。

眞子様も佳子様も凍り付いてしまいましたし、紀子様や秋篠宮殿下、黒田夫妻も黙り込んでしまいました。

皇太子様は大きくため息をついて「それじゃ、あとはよろしく」とおっしゃって部屋を出て行かれました。

 

結局、東宮一家は葉山ではなく、那須へ行かれたのです。

 2006年7月24日 那須静養

那須の御用邸では、通常、両陛下などは近くの農家を訪れたり、満蒙開拓団の一部が帰国した際に作った村などを訪れたりするのですが、東宮一家が来た時は、急にSPでものものしくなり、店はばたばたと閉まり、全ていつ雅子様が来てもいいように準備をさせられます。

静養期間中、皇太子様は一度か二度東宮御所に戻られ、結果的に帰京は雅子様と愛子様だけになりました。

 2006年8月3日帰京 

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経験なき戦争の記憶

2023-08-09 07:00:00 | つれづれ日記

職場の昼休み、まあ、何となくの話で「台湾」が話題になりました。

そう、麻生さんが行ってきた台湾です。

私が「台湾は終戦までは日本の領土だったんだよ」と言ったら、50代、40代、共に驚いて「え?本当ですか?」と聞いてきました。

「何で台湾が親日なのか不思議だったんです」とも言われました。

いわゆるテレビからしか情報を得ていない彼らは、太平洋戦争を「第二次世界大戦」って言っちゃうし、毛沢東は知ってても蒋介石は知らないし・・という状況です。

明治時代、台湾に渡った日本人の多くは西南戦争で負けた方で、台湾で起死回生を望んでいたんだろうと思います。

思惑通り、気候が温かくて、パパイヤの木が沢山あって日本語も通じて、インフラが本土よりずっと進んでいた台湾は、それぞれにいい生活をしていたと思います。

実は、私が所属している脚本の会で、私が書いた脚本の評が行われた時、私が台湾を「暖かくて米が年に二度もとれるから食料不足の心配もない。出来れば一生台湾で暮らしたい」と、元日本の軍人に語らせたんですね。

すると、「私、台湾に行った事あるけど暑くて暑くて全然よくなかった。ここはいいところっていうのは違うのでは」と言われました。

私は何も言いませんでした。その人は戦後生まれです。

でも戦前、実際に台湾の台中で暮らしていた私の両親は、「帰国したくない」と思う程に台湾が大好きだったのです。

戦争中で、空襲もあったようです。でも少なくとも日本のようにボロボロの服を着て街を歩いたり、ひもじい思いをした事はなかったです。

冬は日本に合わせて、全然寒くないのにコートを着てみたりしたわ」と母の友人が語っておりました。

父は軍属、母は教師、「あんたも台湾で生まれていたらもっと豊かに暮らせたのに」と言ってました。

などと、両親がたまたま歳とっていた為に、童話の代わりに戦前の暮らしを語って貰った私は、同年代よりはいわゆる「太平洋戦争」には詳しいかもしれません。

だけど、50代でもそうか・・・知らないのか・・・と思ったのも事実です。

 

その脚本には、広島の原爆で娘を失くした母親が、その事実を受け入れる事無く、5年後の昭和25年でも娘の見合い相手を探す・・というストーリーが書かれて・・っていうか私が書いたのですが。

その母は、戦争中に娘が自ら望んで挺身隊に入り、呉所属になって8月6日はたまたま広島市内にいた為に死んでしまったと言う事が信じられない。

「人を一瞬にして消してしまう爆弾なんかある筈ない」と言い張ります。

その母の息子は「日本がもっと早くポツダム宣言を受け入れていたらああはならなかった。悪いのは日本」と言い、母は「悪いのはアメリカでしょう」と返すんです。

母は、娘が真に愛国心を持ったがゆえに挺身隊に入り、命を失った事をどう受け入れたらいいのかわからなかったんです。

昭和25年は日本は占領下で、朝鮮戦争が始まったので原爆慰霊式典も行われない。

原爆という言葉が「タブー」視されていたから、日本の多くの国民は実はあまり実態を知らなかったんですよね。

で、母が一番問題にしているのは「娘が挺身隊に入った事は正しかったのか」という事です。

戦後は日本は「枢軸国」ですから、「原爆も沖縄も全部日本が悪い」で教育され、私達の世代ですら君が代を謳うと犯罪者のような気持ちにさせられたものです。

「愛国心」から犠牲になった人を「馬鹿を見た」「無駄死にだったのか」と悩む気持ち・・これって、いわゆる「右翼っぽい」らしく、その会では散々けなされておわったんですけどね。

戦後生まれの70代から見ると「戦前はよい国だった」と言うと「そんなはずない」と言われます。

でも、大正生まれの両親は「戦前は教育勅語があり、子供の頃から親孝行と国に尽くす事を教えられ、よい国だった」と言っておりました。

上皇から見ると昭和天皇は戦争犯罪人であり、自分の誕生日に死刑になったA級戦犯は永遠に許せない人達だとは思います。

けれど、戦前を生きた多くの人達は、日本は軍国主義に凝り固まった悪い国ではなかった。

ただ、共産主義、無政府主義者により一般の国民がかなり迷惑を被った事も事実というでしょう。

特に外地にいた両親は、軍の規制をあまり受けませんでしたので、悪い記憶がなかったんですよね。

 

そうは言っても、太平洋戦争があった事は事実です。

私は、子供達が小さい頃から靖国神社に連れて行ったり、戦争映画を見せたり、ドキュメンタリーを流したりしていたのですが、我が家の姫は、自分の誕生日が8月10日と終戦記念日に近いのが嫌だったんですが、最近はすっかり「おかげ様でどんな残酷なシーンを見ながらでもご飯は食べられる」と言い、長崎の原爆資料館も怖くなかった。

戦艦が大好きになって、コロナ禍では一生懸命に戦艦のプラモデルを作っていました。

二若君は一見全然そういうのは興味ないって感じですけど、ある時、

原爆の話をすると、アメリカはすぐパールハーバーという」とぼそっと言いました。

ちょっと怒っているようでした。

真珠湾攻撃の復讐の為に広島と長崎に原爆を落としたのなら、それは本当に大間違いだと思います。

嫌々でも、きちんと戦争の記憶を教えるのは大事な事なんだと思います。

 

しかしながら、私達は実際には戦争を経験していません。

九段の昭和館には箱みたいなものがあって、空襲警報と空襲の音を経験出来るようになっています。でも、それでもピンとこないっていうか・・・

どうしたらリアルに感じ取る事が出来るのだろうかと日々、考えます。

夜にベランダから空を見ると、沢山の飛行機が飛んでるんですね。

光ってるからわかるんですけど、あれが全部B29だったら怖いなとか、

原爆で言えば「熱線」「ピカドン」「爆風」という言葉がキーワードになるでしょうか。

しかし、現実問題、戦争は進化しており、プーチンのいう「核」は原子爆弾とはくらべものにならない程の威力をもっています。

チェルノブイリの恐怖を知ってる筈のプーチンですら平気で核をちらつかせる時代です。

今や、戦争はドローンの開発と共にAI化して、それこそ一つの国を一瞬にして消す事が出来るかもしれません。

核を持っているか持っていないかが、国同士の力関係に大きな影響を与える現代、抑止力としての核はやはり必要なのかもしれません。

いつまでも戦後すぐのように「憲法9条」だの「核廃絶」だのってシュプレヒコールしている時代ではないですよね。

 

やっぱり話より映像の方がいいのかな。

上記は2005年にTBSで放送されたもので私、リアルで見てました。

見て、腹が立ちました。なんだこのアメリカ人はと思いましたし、こういう企画を立てて被爆者の心をさらに傷つけるTBSって何なんだと思いました。

 

この「ひろしま」という映画は私はまだ見る時間がないのですが、ワイドショーでやっていて、実際の被爆者がエキストラとして出演している作品です。

GHQのせいでお蔵入りになったものです。

GHQは戦後、すぐに原爆についての調査を始めました。

生き残った人達の全身をカメラで撮るんです。私はNHKで男子がそういう事をされている映像は見たのですが、女子が高校生になってまで全裸で360度カメラ撮影されていたというのは衝撃の事実でした。

「戦争に負けたから仕方ない」とその人はお母さんに言われたそうです。

被爆直後の広島と長崎の映像です。

 

放射線の影響は、未だによくわかっていない部分があります。

かなり中心に近い所で被爆したにも関わらず、生き残っている人もいるし、直接被爆してない筈なのに原爆病で亡くなった人もいます。

そのせいで様々な差別があった事も事実ですね。

終戦後、原爆病は移ると思われていたんですよ。

でも、まさか東日本大震災後、福島からの避難民が、他県で差別されるとは思っていませんでした。

今でも、「処理水」をわざわざ「汚染水」と言って差別する国があります。

原爆、核による後遺症は、後々まで禍根を残します。

ゆえに使ってはいけないのです。

人の「無知」とは恐ろしいものだと当時も感じました。

 

とりとめがないのですが、長崎の原爆記念日に合掌。

 

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