真昼のXmas イルミネーション 2011-12-16 | 藤沢 真昼の街中で見かけたXmasイルミネーションです。 いろいろな事情もあって、今年の歳末商戦は以前のような元気がありません。 夜になっても、賑やかな音楽も光の点滅も遠慮勝ちです。 真昼の太陽の下では、折角の仕掛けも洗濯物のようでした。
正確な樹齢の表示 2011-12-15 | 藤沢 これは藤沢駅北口で見掛けた愉快な表示です。 歩行者デッキのの下から伸びている大きなケヤキの幹に表示が付いています。 ケヤキをここに植えたのが昭和57年4月3日で樹齢が89才とあります。 樹齢の部分が毎年修正できる窓になっています。 新年になると誰かがやって来て、この窓の数字を変更するようです。
孤独な公衆電話 2011-12-14 | 藤沢 藤沢駅北口の歩行者デッキにある公衆電話です。 場所も設備もそれなりにしっかりしていますが、人が近づく気配がありません。 携帯電話が普及し、一般家庭で固定電話の契約解除が増えているという話もあります。 孤独な公衆電話です。
辻堂駅北口の風景 2011-12-13 | 藤沢 テラスモール湘南をひと回りして、1階に面した広場から辻堂駅北口を撮りました。 殆どの人はテラスを利用するので、この広場はあまり人影がありません。 この角度では辻堂駅に高層ビルがあるように見えますが、このビルは南口駅前のビルで駅ではありません。 「辻にお堂があったので辻堂」と言われていますが、これが「新しい辻堂」のイメージです。
109シネマズ湘南 2011-12-12 | 藤沢 藤沢に映画館がなくなって大分経ちましたが、テラスモール湘南の中に109シネマズ湘南が開館しました。 シネマコンプレックス形式で、10のシアターがあり、全館指定席でインターネットで申し込み出来るようです。 入口まで来て、場所を確認して様子を見ている人が多かったようです。 昔は映画大好き人間でしたが、最近ははテレビで昔の映画を見るのが殆どで、最近の映画事情も分かりません。 少し落ち着いたら、シネコンに挑戦してみるつもりです。
テラスモール湘南 2011-12-11 | 藤沢 平日の昼前、辻堂駅北口からテラスモール湘南に急ぐ人達です。 ファッション関係を中心に281店舗の大型ショッピングモールです。 女性が殆どなのは当然の結果でしょう。 傍観者としては、店の看板を見ながらきょろきょろ歩くだけです。 正面に見えるZARAは銀座で店舗を見かけたような気がします。 更に奥へ進んでも、後期高齢者が個人的な関心の持てる店はあまりありませんでした。 H&Mという店舗も銀座にあったと思います。 湘南C-Xはこれからの藤沢にいろいろな変化を与えそうです。
湘南C-X(シークロス)の富士山 2011-12-10 | 藤沢 辻堂駅北口の関東特殊製鋼跡地の再開発計画・湘南C-Xの中にテラスモール湘南が11月11日にオープンしました。 人混みは苦手なのですが、暫く時間を置いておそるおそるのぞきに出掛けました。 辻堂駅とテラスモールをつなぐテラスの上から西側を眺めたところです。 テラスモールの先にマンションの建築が進行中ですが、その先に小さく富士山が見えました。 北口を出た人々は富士山に目を向けることもなく、テラスモールを目指していました。
江ノ電イメージキャラクター 2011-12-09 | 藤沢 江ノ電鵠沼駅のホームから駅の広告看板を眺めていて、江ノ電のイメージキャラクター「えのん」を知りました。 このキャラクターはどうやら「江ノ島」の「江」の字を基本にして造形したようです。 「えのん」のすぐ右下に小さく「あらん」と言うキャラクターも並んでいます。 江ノ電は京都の京福電鉄(嵐電)と姉妹提携しているので、「あらん」も「嵐」から作られたイメージキャラクターでしょう。 「えのん」と「あらん」を眺めているうちに電車がやって来ました。
12月快晴の富士 2011-12-08 | 藤沢 鵠沼の津波対策を確認しながら海岸へ出ると、思いがけない収穫がありました。 12月の快晴の富士山です。富士の左手は箱根の山々、右手は丹沢山塊の西側の山並みです。 富士を拡大すると、海岸線に連なる大磯、平塚、茅ケ崎の街並みがよく見えました。 南側の相模湾を見ると、太陽の光で輝く波の向うに伊豆大島が霞んで見えました。
鵠沼の津波対策③ 2011-12-07 | 藤沢 津波対策と言えば、一番大事なのは国道134号線沿いの湘南海岸公園です。 鵠沼橋左岸から堤防を兼ねる遊歩道に入って状況を見て歩きました。 これは引地川沿いにある警告表示板ですが、かなり以前に立てられたものです。 よく見ると津波避難ビルに赤色のフィルムが追加されています。 鵠沼海岸の中央近くの警告表示板には、まだ2ヶ所しか津波避難ビルの赤色フィルムは貼ってありません。 季節によっては大勢の人達が一斉に避難する場合があるので、もっときめ細かな警告と誘導案内が必要になると思います。 引地川左岸にある津波被害想定区域の看板です。同じものが境川沿いにもあります。 表題と説明文はなんとか読めますが、肝心の地図は判読不明の上、落書きもあって役に立ちません。 最近の「想定外」の津波を考えると、「想定区域」と記されても「?」という気分です。
鵠沼の津波対策② 2011-12-06 | 藤沢 鵠沼海岸の国道134号線沿いには沢山の津波緊急避難ビルが指定されています。 以前から指定されていたビルもありますが、東日本震災以降新たに指定されたものも多く、 片瀬、鵠沼、辻堂地区合計で現在では100を越えているようです。 あるマンションの入り口にある津波避難所の標識です。 これは以前から指定されていたビルのようです。 同じマンションの別の場所に追加された標識です。 これには津波緊急避難所協力施設と記されています。 こちらは海辺のホテルですが、ここにも同じ標識が出ています。 宣伝標識が多いので、ちょっと印象が弱いかも知れません。 現在も追加指定の努力が続けられているので、134号線沿いのビルは大部分が津波緊急避難所に指定されるでしょう。
鵠沼の津波対策① 2011-12-05 | 藤沢 鵠沼の津波対策の基本は、現在地の海からの距離と海抜の高さを知って、素早く高みに避難することのようです。 カーブ・ミラーに情報が追加されたので、確認のために出掛けました。 鵠沼の海抜は殆どが10m未満ですが、古い砂丘と思われる場所のカーブ・ミラーを見に行きました。 海岸からの距離1.6km、海抜10.0mとありました。 この辺りに避難するのが良さそうです。 鵠沼海岸に近い、昔の肥上道の辺りのカーブ・ミラーです。 海岸からの距離0.6km、海抜4.4mになっていました。 足腰の弱い人は、近くの津波避難ビルに逃げ込むしかなさそうです。
酒井忠重の墓 2011-12-04 | 藤沢 遊行寺境内にある大型の五輪塔です。 側の掲示によると酒井忠重の墓と記されていました。 掲示を読むと、わざわざ説明するほどの内容でもないのですが、 気になったので、ウイキペディアで調べました。 慶長3年(1598年) 酒井家次の3男として生れる。 慶長7年(1602年) 既に亡き祖父・酒井忠次の養子となる。 元和元年(1615年) 徳川家康、秀忠に拝謁し、小姓に召出される。 元和3年(1617年) 従五位下長門守に叙任。 元和8年(1622年) 出羽国村山郡白岩4000石領主となる(のちに8000石に加増される)。 寛永10年(1633年) 1000人余りの餓死者を出すなどの苛政をしいたため、白岩領の農民が一揆を起こして江戸奉行所に訴える(白岩一揆)。 寛永15年(1638年) 江戸奉行所の判決により白岩領主を改易となり庄内藩主・酒井忠勝に預けられる。 寛永19年(1642年) 忠勝の娘と長男九八郎(忠広)を結婚させて、庄内藩主家の後嗣にしようとする、お家乗っ取り計画が発覚。 承応元年(1652年) 忠勝の遺言分配金に自分の名前が無かったため幕府に提訴し、庄内藩主・酒井忠当より金二万両を贈られて義絶される。 寛文5年(1665年) 息女の結婚の件で相手と論争したこと等が、幕府の知ることとなり、改易される。 寛文6年(1666年)9月24日、夜中、何者かに襲われて死亡する。享年71。 なんとも激しい一生です。 五輪塔の左手にある六地蔵です。 酒井忠重が寄進したと伝わっていますが、寄進者の心境は分かりません。 藤沢周平の「長門守の陰謀」という作品があるようです。
木漏れ日の中の童女 2011-12-03 | 藤沢 ぶらり散歩で遊行寺の境内にあるいろいろな古い墓石を訪ねました。 木漏れ日の中に静かに立っている石仏に出会いました。 元禄8年(1695)に亡くなった童女の墓と思われます。
(続)藤が岡の高層住宅 2011-12-02 | 藤沢 10月に境川の御所ヶ谷橋から見える藤が岡丘陵の賃貸高層住宅を紹介しました。 今度は境川の大正橋から見上げた藤が岡丘陵の高層住宅です。 どちらも似たような形で似たような場所に建っているので、区別が難しいのですが、 こちらはコンフォール藤沢のA-2号棟です。 先日のビルはE-1号棟ですから、こちらの方が先に建設されたものと思われます。 どちらも人気のありそうな賃貸住宅です。