毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

檻の内外

2015年02月10日 22時15分14秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


きのうのブログで、 新しい視点が生まれる = ほんとうの自分を取り戻す、みたいなことを書きましたが、このお話をもう少し。

かなり前から 「渦に呑まれる」 「渦の外に出る」 という表現で、主観と客観の切り替えについて たびたび書いてきましたが、この切り替えが 例の 「からだの感覚に集中」 に慣れるに従い、ずっとスムーズにできるようになってきたんですね。

そして、渦の内と外、二つの世界が 同等の重みを持つようになった。。。。これが、大きく歩みを進めさせてくれました。




こちらも何度も書かせてもらっていますが、昔のつらかった記憶を思い起こさせるなんらかの出来事をきっかけに、まずスイッチが入るのは からだの感覚。

そして、その感覚に刺激されるやいなや、怖い・悲しい・悔しい などの 感情が 瞬時に立ち上がるわけです。

この感覚も感情も、実は 過去の記憶でしかないっていうところがポイント。

原点となった出来事自体は ずっと前のこと、その記憶が 上記の順で刺激されることで、リアルタイムに出現・展開する。

でも、このからくりがピンときていないと、それを たった今受けた痛みだと思い込んでしまうんですね。

まあ、それだけ生々しく感じ取れるのだから 無理もないのですが、ほんものかどうかは そこに意識を集中してみればわかります。

ほんものなら残り続けるし、幻ならいずれ消える。




ここで、感情ではなく 感覚のほうに集中する、という氣づきをもらえたのは、私にとって 計り知れないほど大きな贈り物でした。

感覚のスイッチに氣づかず、感情のほうばかり追いかけていた頃には、今のこの 確実かつスピーディな負の解消は望めなかった。

なぜなら、感情は 言葉で表現されるので、追いかけるほどに 新たな言葉が次々と付け加えられ、どんどん発展して、過去だと認識するどころか、「今」 の物語 ・ 「今」 の痛みとして貼りついてしまうのです。

そして、その痛みへの反発は それと知らずにスイッチを押してしまった人に向けられ、わざわざ 「今」 に 新たな火種を生むことになる。




感覚に集中するようになってからは、それを 痛みだの圧迫感だのと名づけることはできても、感情と連動させない限り それ以上言葉が先走って 話が膨らむことはありません。

慣れると、名づけることさえやめて、言葉のない 感じる世界に意識を留め置けるようになってきます。

それを繰り返して ふと氣がついたら、心が軽く明るく 風通しよく感じられる時間が 増えていました。




こうなって初めて、これまでの自分は もともと不幸なのでも否定的なのでもなく、ただ一時的に “閉じ込められていた” だけだったんだ、と思えるようになりました。

以前は、負の思いに捕われている時間がほとんどだったため、それが本来の自分だと思い込んでいたけれど、そこから抜け出す時間がぐんと増えた結果、そんなふうに見えてきたのです。

「ネガしかない」 のではなく、その外にはまったく別の世界もあるのだ、ただ はずみで入ってしまって 出方がわからないだけなんだ、と。




自由選択っていうのは、ただ 複数の選択肢があるというだけでなく、どちらを選ぶチャンスも 同じようにに与えられて初めて “自由” なんですね。

出方がわからないでいる間は 苦しさばかり感じていたけれど、その苦しさをこそ味わえばいいんだ! とわかってからは、不安がなくなり、自分は外にも出られるんだ、もう被害者じゃないんだ、自分の意思で自分の道を決められるんだ、と思えるようになりました。

スイッチが入ること自体は相変わらずですが、なすべきこととその結果がわかっていれば それ以上恐れることもない。




心の檻の内と外、二つの視点が同等に感じられるようになったことは、被害者のドラマから抜け出す力をもたらし、安心感と静かな自信を与えてくれました。

いずれ、内も外もない、檻自体が幻だったんだと ごく自然に思えるようになるでしょう。

見つめることで 幻の中から ほんとうの自分を掬い出す (救い出す)。。。。個人も世界も、そんな段階にさしかかっているのかもしれません。