毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

恵まれる

2015年02月17日 10時49分49秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


過去ログに関する記事が挟まってしまったのですが、その前の 「抱き参らせる」 からの一連の話、もう少しありまして。

相変わらず長くてすみません m(__)m




二元対立の問題は、どちらかに軍配を上げるのではなく 対立概念そのものを乗り超えることで、しかるべきところに収まると思っています。

そこで目に留まったのが、「悪をも抱き参らせる」 という言葉。

そして、その 「抱き参らせる」 にどうしても素直になれない 「奪い返さずにおくものか」 という不毛な執念を乗り越えさせてくれるのが、“すべては魂である自身が望んで仕掛けたこと” という自覚であり、さらに その視点が確立する中で 本来やり遂げると決めていた 天職 (天命・お役目・ミッション) も見えてくるのだ、と。




三記事数千語にわたって書きまくってきたものが わずか4行で要約できることにショックを受けつつ、続きいきます ( ̄∇ ̄;)




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「抱き参らせる」 についてですが、具体的にはどういうこと? っていうと、いま私が試し続けていること = 言葉を使わず ただ感覚を受け止める、というのが それに当たる (もしくは近い) んじゃないかという氣がします。




言葉というのは、分け出す性質を持っています。

「私」 と言えば、私が 私以外のすべての人から分け出される。

「きのう」 と言えば、きのうが それ以外の日々から分け出される。

分けないと、言葉では拾えないんですね。

しかも、曖昧模糊として 境目がない本質の世界から 言葉で分け出したものは、すべて分け目がくっきりしていて、本質とかけ離れたものに変っている。



さらに、言葉は ジャスト “今” を語れない。

「今そこで見かけたんだけど・・・」 なんていうときの 「今」 は、すでに過去になっている。

“今” は 言葉ではつかめない、感じるしかないんですね。

過去か未来しか語れない言葉は、時間概念に捕らわれざるを得ないので、時というものがない本質の世界をぴたりと表すことは やはりできない。




つまり、言葉を使った時点で どうしても本質から離れてしまうことを避けられないんですね。

でも、抱き参らせるとは、善悪という分けられた概念を超えて、本質に立ち戻ること。

方向が真逆です。

だから、いったん悪として分け出してしまったものを抱き取って元に返すには、言葉を使わず 感じるしかない。




言葉を使わずに感じることで 内に溜まったわだかまりを解放しようという試みは、まだまだ経過観察中なので、確信を持って言葉にするのは もう少し後のことになると思いますが、今の見えない大きな流れに照らして、これからは 五感で捉えられないもの・言葉を超えて感じるところを もっと大事にする社会になっていくんだろうな、という予感はしています。

これまでは、目に見える成果を出さないと認められず、世間の名のもと 特定の価値観に合わせることを強いられ、命ある人間が 機械である時計に合わせて暮らさないとならない、などなど、五感重視の生命エネルギー軽視 みたいな生き方が主流でしたが、その結果世の中がどうなったかを見れば、おのずと新たな選択を模索する動きも出てくる (出てきている) でしょう。

以前のままの意識で生きていると、想定外の事態の連続に、頼れるものを失った心もとなさを覚えることも多いと思いますが、それを もっと命が輝く新しい拠りどころを手にするチャンスと見ることもできるのです。




私が今やっていることって、わざわざ自分の立っている足元を壊して、どこに通じているかもわからない奈落に進んで飛び込むようなものかな、っていう氣もしますが、それがスリリングで面白く感じられるのも、こんな時代ならではなのかもしれません。

そういう意味で、こんな時代に立ち合わせてもらえる自分は もしかすると すごい幸運に恵まれているのかもしれないな などと ちょっと浮き浮きしてしまったりする貴秋なのです (*^ー^*)