毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

あたたかな光の中で

2015年02月12日 12時06分39秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


きのうもきょうも いいお天氣~ \(^o^)/

昼間の部屋は相変わらず温室だし、外に出ても 風は冷たいけれど お日さまの光があったかいし、日照時間はどんどん長くなるし、日ごとに春が近づいているんだなぁって思わせてくれます

ロウバイも見られたし、そろそろウグイスの声も聞こえるかもね♪

今年の春は、これまでにない素敵な春になる予感




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このところ、ブログ書いてて 「これ前にも書いた?」 って思うことが多くて。

デジャヴ? → いや、記憶力が薄れただけです、たぶん (^◇^;)

いちいち過去記事を読み返すのがおっくうで (おのれの文章の長さが仇になっている) リンクも貼っておりませんが、ただ ほんとうの自分に目覚めていくって そういうことなんだろうなぁ、という氣もしています。

以前は、氣づきって 新しい情報が増えていくことのように思っていましたが、最近は逆に 余分なものが落ちて より鮮明に研ぎ澄まされていくのが氣づきなんだなぁ、と。

同じことの繰り返しでも、消化吸収が進んで より腑に落ちて、わかりやすく 自分の言葉になっている、というような。




思い込みや迷いが次々と剥がれ落ちてゆく中で、逆にどんどん存在感を増しているのが、「感じること」。

ずっと からだの感覚を感じることの手ごたえについてお話していますが、それは さえぎるものがあまりにも多くて、本来の自分を感じることができなかった私ならではのこと。

心友の月うさぎちゃんは、ヨガを通じて 意識の無限の広がりを体験したと教えてくれたけど、そういうふとしたきっかけで すっと本質とつながれるものなら そんな素直な目覚めが何よりだと思います。

でも私は、瞑想しようとしたって 心がざわついてざわついて、そういうのは右から左へ流しなさいって聞いていたけど、流すほどにどんどん増えて、しまいには 誰か止めてー ってほど収拾がつかなくなって 強制終了 (;T▽T)

何度やってもこんなていたらく、おかげで長いこと 瞑想っていう言葉を聞くのもうんざりだったぐらい

座禅組んで目を閉じるばかりが瞑想じゃなく、わくわくするような大好きなことをしているときも 同じような状態なんだよって聞いたけれど、これも私の場合 料理とか手芸とか畑仕事とか 好きなことをしているときほど、過去のいやな思い出や そこから発展する妄想が とめどもなくわさわさ上がってきて。

何をどう試みても、“無心” という状態に入れなかった。

目を背けて溜め込んだままフタしてきたものが、あまりにも多過ぎたのでしょうね

おかげで、からだの感覚にフォーカスすることで それらに捕われずに済むようになってから どれほど楽になれたことか。

だからこれは、私と同じように どっさり溜め込みすぎた人に向く手立てなのだと思います。




雑念がぐっと減って 心が軽くなり ありがたいことですが、では次はどうするの? っていったら、やはり 感じ続ける、これしかないような氣がします。

今までは、目前に立ちふさがる迷いやわだかまりに特化する形だったけれど、さえぎるものがあろうがなかろうが、本来の自分っていうのは 五感を超えたところで 感じること = 生きること なんだろうなぁ、と。

それがわからず、長い間 頭で考えた世界を生きているつもりになって、さんざん翻弄されたけれど、そこを通り抜けたと思しき今、つくづく思います。

本質の前で 言葉は無力

言葉が力を持ってなにかを成すこともあるけれど、それは 言葉に乗ったエネルギー (言霊?) が起こしているのであって、言葉そのものは パワーの入れ物でしかありません。

本質と結びつかない 雑音としての言葉は、人の心を惑わせ、袋小路に追いやるだけ。

・・・・・って、じゃあ こうして言葉数多く書いている私はなんなんだ? ってことなんだけど

いつの日か 人はまた 言葉を使わずに 思いをひとつにできるところに戻っていくのかもしれません。

それまでは、せめて 感じるところから 力のこもった言葉を使いたいものだと思います(^^)




お日さまのまぶしい光を受けて、ぽかぽかあったかくて、遠くから鳥の声が聞こえて、なにやらうっとりして。。。。。

ほんとうの自分をおおい隠していた曇りが薄れて、その向こうに、天が与えてくれる こんなうららかなひとときを 心ゆくまで満喫する自分がいます。

内に触れてくるままに ただ感じて、異質な感覚が現れれば それもまた感じて、どこまでも感じ続けて。。。。。

そこから ふと思い立って動くとき、それはきっと いのちに素直でまっすぐで、幸せに向かうものであるはず。

うらうらと春めく今、どこまでもそんなふうに生きてゆきたいと思いました。