きのうもきょうも いいお天氣~ \(^o^)/
昼間の部屋は相変わらず温室だし、外に出ても 風は冷たいけれど お日さまの光があったかいし、日照時間はどんどん長くなるし、日ごとに春が近づいているんだなぁって思わせてくれます
ロウバイも見られたし、そろそろウグイスの声も聞こえるかもね♪
今年の春は、これまでにない素敵な春になる予感
* * * *
このところ、ブログ書いてて 「これ前にも書いた?」 って思うことが多くて。
デジャヴ? → いや、記憶力が薄れただけです、たぶん (^◇^;)
いちいち過去記事を読み返すのがおっくうで (おのれの文章の長さが仇になっている) リンクも貼っておりませんが、ただ ほんとうの自分に目覚めていくって そういうことなんだろうなぁ、という氣もしています。
以前は、氣づきって 新しい情報が増えていくことのように思っていましたが、最近は逆に 余分なものが落ちて より鮮明に研ぎ澄まされていくのが氣づきなんだなぁ、と。
同じことの繰り返しでも、消化吸収が進んで より腑に落ちて、わかりやすく 自分の言葉になっている、というような。
思い込みや迷いが次々と剥がれ落ちてゆく中で、逆にどんどん存在感を増しているのが、「感じること」。
ずっと からだの感覚を感じることの手ごたえについてお話していますが、それは さえぎるものがあまりにも多くて、本来の自分を感じることができなかった私ならではのこと。
心友の月うさぎちゃんは、ヨガを通じて 意識の無限の広がりを体験したと教えてくれたけど、そういうふとしたきっかけで すっと本質とつながれるものなら そんな素直な目覚めが何よりだと思います。
でも私は、瞑想しようとしたって 心がざわついてざわついて、そういうのは右から左へ流しなさいって聞いていたけど、流すほどにどんどん増えて、しまいには 誰か止めてー ってほど収拾がつかなくなって 強制終了 (;T▽T)
何度やってもこんなていたらく、おかげで長いこと 瞑想っていう言葉を聞くのもうんざりだったぐらい
座禅組んで目を閉じるばかりが瞑想じゃなく、わくわくするような大好きなことをしているときも 同じような状態なんだよって聞いたけれど、これも私の場合 料理とか手芸とか畑仕事とか 好きなことをしているときほど、過去のいやな思い出や そこから発展する妄想が とめどもなくわさわさ上がってきて。
何をどう試みても、“無心” という状態に入れなかった。
目を背けて溜め込んだままフタしてきたものが、あまりにも多過ぎたのでしょうね
おかげで、からだの感覚にフォーカスすることで それらに捕われずに済むようになってから どれほど楽になれたことか。
だからこれは、私と同じように どっさり溜め込みすぎた人に向く手立てなのだと思います。
雑念がぐっと減って 心が軽くなり ありがたいことですが、では次はどうするの? っていったら、やはり 感じ続ける、これしかないような氣がします。
今までは、目前に立ちふさがる迷いやわだかまりに特化する形だったけれど、さえぎるものがあろうがなかろうが、本来の自分っていうのは 五感を超えたところで 感じること = 生きること なんだろうなぁ、と。
それがわからず、長い間 頭で考えた世界を生きているつもりになって、さんざん翻弄されたけれど、そこを通り抜けたと思しき今、つくづく思います。
本質の前で 言葉は無力
言葉が力を持ってなにかを成すこともあるけれど、それは 言葉に乗ったエネルギー (言霊?) が起こしているのであって、言葉そのものは パワーの入れ物でしかありません。
本質と結びつかない 雑音としての言葉は、人の心を惑わせ、袋小路に追いやるだけ。
・・・・・って、じゃあ こうして言葉数多く書いている私はなんなんだ? ってことなんだけど
いつの日か 人はまた 言葉を使わずに 思いをひとつにできるところに戻っていくのかもしれません。
それまでは、せめて 感じるところから 力のこもった言葉を使いたいものだと思います(^^)
お日さまのまぶしい光を受けて、ぽかぽかあったかくて、遠くから鳥の声が聞こえて、なにやらうっとりして。。。。。
ほんとうの自分をおおい隠していた曇りが薄れて、その向こうに、天が与えてくれる こんなうららかなひとときを 心ゆくまで満喫する自分がいます。
内に触れてくるままに ただ感じて、異質な感覚が現れれば それもまた感じて、どこまでも感じ続けて。。。。。
そこから ふと思い立って動くとき、それはきっと いのちに素直でまっすぐで、幸せに向かうものであるはず。
うらうらと春めく今、どこまでもそんなふうに生きてゆきたいと思いました。