毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

過去ログから

2015年02月16日 11時20分06秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


たまたま行き当たった過去記事に目を通して、うひゃ~~~ ってなりました

正直リンク張るのもあまり氣が進まないけれど、読んで下さる方はなんのことやらわからないだろうし。。。。。

いちおうそっとここ に。




たぶん からだの感覚の探求を始めて まだそう経っていなかったときのことだろうなぁ (- -;)

怒りが たいした痕跡も残さず すみやかに消えていくって 喜んでる。。。。

うん、たしかにそうなんだけど。

今読むと、なんとも無邪氣で楽観的・・・・・このあとたどる道筋を知らなくてよかったね、って声かけたくなります。




一番の悩みの種だった 激しい怒りのスイッチとなる からだの反応が薄らいだのは、たしかにうれしいことでした。

ビフォーアフターで 身も心もすごく楽になったなぁって実感あったし、「早くゴールにたどりつくのが目的じゃない」 と書く一方で、きっとこれからどんどんよくなっていくんだろうな~♪ って希望に満ち溢れていたのもムリはない。

でも実際には、そうは問屋が卸さなかったのです。




なによりもまず、何かあったら即感覚にフォーカス、っていう道筋が まだぜんぜん確立していなかった。

できるようになったつもりでいたらしいけれど、今から見れば まだまだ。

ひとしきり頭の中で ああだこうだひねくりまわして解釈して、それからようやく感覚の出番、っていうことが多かったよね。。。。うっかり忘れることもあったみたいだし (^_^;)




さらに、怒りが薄らいだらそれで終わり、じゃなかった。

怒りの派手派手しさの陰に隠れていた ほかのネガ感情が、次から次へ 「こっちもなんとかして~」 と現れて、いつになったら終わるの!? って かえって不安が増したほど。

いや その前に、怒りだって ぜんぜんおしまいじゃなかったのです。

感覚が薄らぎつつも、繰り返し現れるところは 前とさして変わらず。

やはり、半世紀近くかけて溜め込んだものが そうあっさり消えうせるはずもなかったのですね。

期待した分だけ、再び現れた 終わりのない感に 氣落ちしたような、ほんとうにこのままいって大丈夫なのかな? って またしても 不安に駆られたような。




それでも ブログタイトルどおりあきらめなかった 以前の自分、ありがとうね




あのころ期待したのとは いささか違う感じではあるけれど、体感フォーカスを 心強い手立てとして自分のものにしたと思えるようになったのは、おそらく今年に入ってからのこと。

あの2度目 (9~12月) の白浜滞在が 大きく力になったかと。

何かあれば、考えるより先に  → → → 感覚に集中、この回路が ようやくクセづいて定着した感があります。

おかげで、日記帳が進まないことったら(笑)

起きている変化のメモ程度にとどまり、ああだこうだと考察・分析することがほとんどなくなったからでしょう。




とか言って、2年後ぐらいにこれ読み返したら、あの頃はこんなに楽観的だったのか、うひゃ~ って またなったりして




実際そういうものなんだと思います。

だから最近過去ログを読む氣になれないんだけれど、前に書いたものが おいおいって思えるのは、成長の証でもあるものね♪

これからも、同じようなことを何度も書いては遡って あの頃ってまだまだ見えてなかったんだなぁ、と溜息つくことの繰り返しになるんだろうな(笑)

それでもぜんぜんやめる氣がないのは、何といっても 楽しいから

曇りが多過ぎて、わくわくが見えてこないよ~って心配だったけれど、なんのことはない、内的探求が 人生で何よりのわくわくっていうことで間違いなかったんだ、って 改めて思いました。

いつになったら ネガ感情をすっかり払拭して わくわくに取りかかれるんだろうって不安だったとき、すでにしっかりわくわくをやってたんですね( ̄ー ̄;)ゞ




今やっていることが 何よりのわくわくであり 今生のお役目ともつながってるとわかったのは、やはり 三次元と魂の ふたつの視点が 同等のウェイトを持つようになったからかな♪




ブログに表れる以上に まだまだな時も多い貴秋ですが、そのまま呑み込まれることなく、やがては渦の外に出て、自分の大好きな道を進んでいけること、心からありがたく思います (^^)






















お役目

2015年02月16日 00時58分15秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


そもそも神のごとく無垢で完璧な赤ん坊だった私たちが、時間が経つほどに 色付けが進み 型にはめられてゆく、というのは、例外もあるかもしれませんが、基本デフォルトなんですね。

この世に生まれ出た時点で、誰もが大なり小なりの不条理を背負い込むのは避けられない、ということ。

これを三次元視点で見れば、ひどい話だ、こんな理不尽は許されない! となるのは 自然なこと。

でも それだけだと 大方の人は、恨みや復讐心がどこまでもついて回り のちのち争いの種になるのを避けられません。




私も例外ではなく、こんな怒りは不毛とわかっていても、地雷を踏まれるたびに カッとなるのはどうしようもなく。

かといって、それをいちいち表に出していては まともな社会生活は送れないので、大部分を抑え込んでしまい、ますますどす黒いものが膨れ上がるという悪循環に悩み続けていたのですが。




ブレイクスルーのカギは、新しい視点にありました。

それが、これまた何度も繰り返し書かせてもらっている、魂の視点。

この世で起こることはすべて 生まれる前の魂があらかじめ仕掛けておいた設定で、もともと完璧な存在である私たちが わざわざ制約を受けてまでこちらの世界に生まれてくるのは、自分ならざるものを通して 本来の自分の素晴らしさを体験するため。

自分をより深く味わいたいがために、いったん真の自分から離れて また戻ってゆく、それが 神々の戯れ ・ リーラ。

私たちは、自分をより深く知るという贅沢な遊びのために、望んでこの世にやってきた、“神であることを忘れた神” 。




こんな話をどこで初めて聞いたのか まったく覚えていませんが、なぜか繰り返しやってくる この手の情報が 抵抗なくすっと入ってきて、度重なるうちに 既定事実として いつの間にか心の内に根を下ろしていたのです。

この視点を通すと、何もかもが まったく違う色合いを帯びてきます。




私たちをさまざまな枠組みの中に押し込めようとする不愉快な相手は、リーラに不可欠の仕掛けを施してくれる協力者で、深い結びつきの魂仲間。

私たちを手こずらせる負の感情は、立ちはだかる壁ではなく、成長するために置かれたハードル。

そして 私たちは、人生の犠牲者ではなく 冒険者。

どんな難問とて、私たちを苦しめるためではなく、乗り越えて ほんとうの自分に近づいてゆく喜びを味わわせるために 現れるのだと。




この視点が確立すると、私たちは 自由に選べる選択肢を 複数持つことになります。

三次元の世界がすべてではなく、その外に違う世界があることを知り、引きの視点に立って 三次元で起こっていることを 客観的に吟味できるようになります。

そこで初めて、被害者の立場に固執するのをやめ、すべての結果を引き受けて 自分の手に力を取り戻すチャンスが生まれます。

自分は 人生に振り回されていると見ることもできるし、人生を創っているのだと見ることもできる。

被害者でい続けることは、すべてを人のせいにできるから ある意味楽ですが、そこに留まっていては 自ら動き出す力は湧いてこず、せっかくこの世に生まれてきた 真の喜びを味わうこともできません。

あとは、勝手知ったる楽な世界に留まるも、思い切って執着を断ち切り 新しい世界に飛び込むも、自分次第。




そしてその先はというと、実はこれ 私もほんのちょっと前に知ったんですが、被害者の立場を捨て 創造者としての自分を認めて初めて、生まれる前から決めてきた “お役目・天命” が 鮮明に見えてくるんですね。

ためらいなくその道に突き進めるほど はっきりと。

天命なんていうと 大上段で大げさに聞こえるかもしれませんが、要は 今回の人生では ぜひともこれをするぞ! と 生まれる前に決めてきた仕事のこと。

それがそうかどうかは、そのお役目を思い浮かべたときの感じでわかります。

ほんとうにこれでいいんだろうか、などという迷いがいっさいない。

それは 自分の望みであると同時に 天の流れに沿うものでもあると理解できる。

それをすることで 魂磨きにいっそう拍車がかかり、さらに 縁ある人のお役にも立てるとわかっている。

思い浮かべるたびに 深い喜びや満足を覚える。

そして、そちらにフォーカスしている限り、暮らしにまつわるこれまでの悩み    対人関係や 仕事・お金の心配など    に惑わされずにいられる。




雲が消えれば お日さまが現れる、とわかってはいても、真の自分でないものを解放し続けた先に こんなうれしいものが待ち構えていようとは、思いもよりませんでした。

自分の内を見つめ ほんとうの思いを知ることは、喜びで一杯の ほんとうの人生を取り戻すことにつながる、と、今は自信を持って言い切る貴秋です(^^)