毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

桜尽くし

2016年04月03日 22時42分24秒 | 自然


今にも降りだしそうなのに、結局降らずじまいだった (たぶん) きょうの空。

それならばと急に思い立って、夕方 大和川の土手に 満開の桜を見に出かけました。

きょうの写真は、桜、桜の花尽くし (*^^*)
































もう言葉なんていらないね。。。。




心の宝物が またひとつ増えました

























自分なりに

2016年04月03日 11時55分10秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


お天氣下り坂です。

せっかく桜がどんどん開花しているときなのになぁ

次に晴れるときまで あまりたくさん散ってしまわぬようにと祈る思いの貴秋です。




けさ 父が朝食のときに見ていた 報道番組。

テーブルの向かいで 目は新聞にやりながら 聞くともなしに聞いていたら、ヘイトスピーチ規制法の話題に。

と不意に、貴秋の脳内で こんな妄想が炸裂しました。




わざとおおやけの場で堂々と、人の心をかき乱すような過激な発言をしてまわる輩。

そうやって ただでも不安や怒りを抱えることの多い民衆の氣持ちを逆なでして火をつけ、こいつらどうにかしろー! という感情が高まったところで、法規制の話が持ち出され、当然のごとく賛成多数で これぞ民意と めでたく規制法が成立。

そしてある日。。。。下がる給与に上がる物価、金持ち大企業の優遇、白を黒と言いくるめ 他国との戦いに後ろを見せない姿勢、政府の方針に疑念を抱き 不満をぶちまけた一般市民に、突如 規制法の矛先が向く。

さらにその影響がネットにも及んで・・・・・・な~んてね ( ̄∇ ̄;)




いや~恐ろしいもの見た~

ちょうどきのう読んだこんな話が 頭の片隅に残っていたせいかな?

せっかくの桜咲く平和な休日に とんだ妄想話、許されて m(__)m




ただね、思うのです。

そもそも境目が曖昧でグラデーションなところに くっきり線引きして分け出さないと成り立たないのが、この私たちが身を置く 五感の世界。

そして、どこからどこまでが 「好ましくはないけれど まあしょうがないか」 の範疇で、どこからが法規制の対象となるのか、その境目についての意見は 人の数だけあるわけで。

ああ あなたはそう思うのね、と 互いの違いをおおらかに認め合えるならいいけれど、法というのは、その中のどれかひとつを合法、あとは違法と区別し、違法とされたものを認めない性質を持っています。

そこへもってきて、言葉には 「なんとでも言えてしまう、ないものをあると、白を黒とさえ言えてしまう」 という性質があります。

白と黒の中間の濃淡グレーを、とりあえずここまでが白で こっちが黒ね、と決めたところで、線の左右の違いは ほとんどそれとはわからぬほど。

それをじりじり時間をかけて ちょっとずつ 誰にも氣づかれずにずらしてゆき、はっと氣がついたら 最初に決めたのと大きく違っている、なんて芸当ができてしまうのが、言葉の世界というもの。

実際の裁判でも、法解釈についての議論が しょっちゅう起こるようですが、最終的にどれかひとつを正しいと決めなくてはならないとなれば、どうしても力勝負にならざるを得ず、万人の権利だの平等だの尊厳だのは後まわしになってしまう、それが言葉で成り立つ世界の避けられない流れです。




そんな言葉の特性を熟知した者が勝者になり 力を振るう、言葉で分け出されるものに重きを置く限り どうしてもそういうことになってしまうのが、今の私たちの社会。

それに反発して戦いを挑んでも、せいぜい起こるのは 勝者と敗者の顔ぶれが入れ替わるぐらいのもの。

弱い立場というものが どうしても生まれてしまうその仕組みそのものは、なくなることはありません。




そんな現状で 私たちに今できるのは、アシュタールも言うように なんでも鵜呑みにせず、自分の目で見ること。

ああ いつものことね、と 反応するだけで終わらせないで、引きの視点からじっくり観察し、自分なりに腑に落ちるまで 掘り下げてみること。

中でも、自身の感情のアンバランスな面や 思いがけない引っかかりに目を向けることが重要だという氣がします。

原点の見えない怒りは つねにはけ口を求めており、ちょっと流れをつけられれば、簡単に乗せられてしまうから。

今起こっている難民排斥運動なんて、もろにそのからくりにハマってる氣がするなぁ。




自分の内も外もよぉく見つめて 外からの扇動に安易に乗らない、自分の道は 自分で決める、その姿勢が なによりの護りであり 幸せのカギだと思えてなりません。




さぁて、楽しくない話はこれでおしまい、きょうもワクワクの種いっぱい見つけて “今の一番” の連続でいこうっと (*^▽^*)




















反応

2016年04月03日 02時12分24秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


その昔、かなり難易度の高い知恵の輪に挑戦したことがあります。

微妙な目の錯覚を利用して作られているようで、いかにも外れやすそうなところからは 決して外れず、時間が経って いいかげんゲンナリしながら惰性でひねくり回していると、思いがけないところから ひょいと外れたりする。

そんなのが5~6種類。。。。何度ももういいやと投げ出しそうになりながら、一度うまくいくと ついついやめられなくなって、全部クリアするまで粘ったものでした (^_^;)




そんな中で ありゃ? と思ったのが、ダメだとわかっているのに 外れそうで外れない箇所に ついつい何度もトライしてしまうクセ。

明らかにミスリードなんですね、このデザインは。

それがまたなんとも巧妙な作りで、デザイナーさんのどや顔が浮かびそうですが、そうはいっても 五~六回ぐらいならともかく、何十回と 自分でもうんざりしながら、あ~またやっちゃった。。。。って




さすがにこれはおかしいでしょうと よくよく観察してみると、無意識のうちに 「反応」 しているんですね。

一定の刺激に応じて、考える間もなく 瞬時にからだが動く状態。

知恵の輪でいえば、ここが外れやすそう、と見えた瞬間、考えるより先に手が動いてしまっている ( ̄ー ̄;)ゞ




「反応」 とは とてもありがたい機能です。

心臓を動かすことから 呼吸、消化、その他もろもろの生体活動を これにお任せできるおかげで、 私たちは もっと楽しいこと ・ 興味深いことに 安心して打ち込めるのですから。

ただ、それはあくまで もっと人としての本質的なテーマに専念できるようにという配慮であって、肝心の本質的な部分まで 反応で済ませるようになってしまったら いろいろと問題ありな氣がします。




いくらガミガミ言っても 不愉快で疲れるばかりとわかっていながら、ついついまた同じように言ってしまう。

いくら勉強していい会社に入ったからといって 幸せになれるとは限らないとわかっていながら、ついつい 「勉強しなさい」 とお尻を叩いてしまう。

いくら甘いものを詰め込んでも いい氣分になれるのはそのときだけ、体重が増え 自己嫌悪に駆られ 結局なにもよくはならないとわかっていても、ついついまた食べてしまう。

幸せに関することを 毎度おなじみの反応で処理してしまうと、あとにはいつも 空しい氣持ちがついてまわります (- -;)

ましてや そのまま放置して、もっと依存症的 ・ 病的なほうに向かったら。。。。。




そんな羽目に陥る前に、な~んかいつもおんなじこと繰り返してるけど ちっともよくならないんだよね、などと ふと苦々しく感じたら、自身をじっくり観察して お決まりの 「反応」 から抜け出すチャンス。

以前の私は、そこでいちいち筋道をたどって、昔のああいう体験から 今こうなったのね などと 理屈づけていましたが、今は それはもうなしで、ただ そういう氣分を感じているときの からだの感覚に注目するだけでOKだと思っています。

私の体験では、頭でも事態をきちんと認識したほうがいい場合は おのずとそれにまつわる記憶がよみがえってきたし、そうでない場合も 感覚が消えるころには 決まりきった反応パターンから抜け出すことができました。

判断解釈抜きで見つめ続けていると、必要なことは 向こうから起こってくるようです。




今の世の中に 次々と現れる想定外な出来事は、「効き目がないとわかっているのに 同じことを繰り返してばかりいても 意味がない」 というメッセージのようにも思えます。

政治、経済、紛争、災害、その他何であれ 同じことの繰り返しで状況が改善されないなら、新たな発想や行動に切り替えて対処する必要があるのは 一目瞭然。

なのに 相変わらず同じ反応ばかりしていると、それ以上続けられないよう 物事のほうから これまでの斜め上をいく事態を仕掛けてくるのかもしれません。

時代が背中を押してくれているのなら、素直に乗っかって 新たな世界の扉を開かない手はない。。。。そんな氣分で きょうも感覚フォーカスに勤しむ貴秋です (^^)v