毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

分け出して 分け出して

2016年04月08日 07時11分58秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


この話は前に書いたことあったかな。。。。書きかけてボツにしちゃったんだったか、記憶が曖昧ですが、ま いっか (*^-^*)ゞ




大学生のとき、大阪から奈良に遊びに来た友人を 飛火野に案内して、ひどくがっかりされたことがあります。

ある写真で見かけて以来 飛火野は彼女の憧れの地で、実景と相見えるのをそれはそれは楽しみにしていたのですが、実際に行かれた方ならご存知のように、飛火野は 奈良公園の一角で、豊かに広がる芝生のところどころに大きな木、見上げる彼方には 若草山や春日原生林が連なり、ときには鹿が草など食みながら通りかかる、たしかにとても氣持ちのいい場所ですが、目を転じれば そこには道路もあれば バスも人も通るし、少し離れた大通りから かすかながらも車の騒音が聞こえてきたりもします。

いかに広々した公園といっても、街中の観光スポットなのですから。

が、彼女が見た写真というのは、その中から 俗世を感じさせるものをいっさい排除した一角を 神秘的な演出で映し出したもので、その景色が さらに彼女の頭の中で拡大され、万葉の昔を彷彿させる原野が果てしなく続く幻想的な風景が 胸中に出来上がっていたらしいのです。

そして、そんな宝物のインナーワールドは、味氣ない現実を目の前にして、はかなくも粉々に砕け散ってしまったのでした

同伴したこちらまでテンションガタ落ちの落胆ぶりは、今も忘れられないなぁ (- -;)




「分け出す」 ということは、そこから外れる要素が生じる以上、どうがんばっても ありのままからずれてしまうこと。

さらに、分け出し方が十人十色であるため、同じものについて語っても描いても、あれ? 私のとあの人のとずいぶん違うな~ なんて 日常茶飯事

いや、違いに氣づけばまだしも、互いに 「あれね~」 「そうそうあれよね~」 と 同じこと話してるつもりで、実はまるっきり別々のこと思い描いてるな~んてことも しょっちゅうなのかも

また たとえ違いに氣づいても 互いに認め合えるならいいけれど、そこに比較が入って 「私のほうが正しい」 「私のほうが優れてる」 となったら ドツボですね ( ̄∇ ̄;)




でも、最初からそういうものだとわかった上で、自分にしかできない分け出し方を楽しむのは、この五感の世界ならではの味わい。

自分の個性を押し出し 好み全開で、何でもバンバン創り出せばいい。

比較も評価もあとからどうぞご自由に、創り手のなによりの喜びは、創るプロセスそのものなのですから o(^∇^)o

それをいっしょになって喜んでくれる人でもいようものなら、もう最高




分け出してはゼロに戻し、分け出してはゼロに戻し、その果てしない繰り返しで この世はまわってる




芸術的大作だろうと 台所仕事だろうと 感じるままに分け出す作業は 得もいわれず楽しい

さらに、人の分け出したものを愛でたり 何人もでいっしょに分け出すのも また楽し

ただ、人の分け出したものを うらやんだり見下したり 丸信じしたり否定したり は、そろばんのご破算 ・ 電卓のクリアボタンでゼロに戻すことをせずに 他人の計算の上から 自分の計算を続けるようなもの。

隣の芝生がどんなに美しく見えても、世界中でたったひとりのかけがえのない自分、その自分にしかできない分け出し方を信じて楽しんで吉だと思うなぁ




なにをどう動こうとしゃべろうと、つねになにかを分け出してしまっている私たち、ならば いつもまっさらなところから 思うがままに分け出して 好きに生きてOK、きょうも “今の一番” 遠慮なくいくぞー と 朝から早くもやる氣満々の貴秋です (*^▽^*)ゞ