毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

無数、あるいはひとつの “私”

2016年04月13日 12時47分11秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


「かもめのジョナサン」 の作者 リチャード ・ バックが書いたもう一冊、これまたわが愛読書の 「ONE」 。

パラレルワールドについての物語ですが、ざっくり筋をお話しすると、著者ご夫妻その人たちであろう主人公のリチャードとレスリーが、ひょんなことから 自分たちの “分身” ともいうべきものたちが存在する さまざまな並行世界を見てまわることになる、そんなお話。

って ざっくりし過ぎな氣もしますが、ここであえて 「もの」 という表現を使ったのは、“分身” が 必ずしも人間とは限らないから。

最初に出くわすのは まだ互いを未来の伴侶とも知らない 若き日の二人ですが、あちこちの世界を渡り歩くにつれ、人種が変わったり、未来へ飛んだり、ひとりの人物から 「あなたがた二人の分身」 を名乗られたり、果ては 古代フン族の暴君アッティラや 妖精、そして人型コンピューターとまで顔を合わせることになります。

読み始めたころは このあたりがまったく理解不能で の連続。

さらに、パラレルの旅を終えて いつもの時空に戻った二人が、目につく人すべてに自分たちを見出し、自分たちがよくよく知る存在、自分たちの親しい一部と見なすようになる場面も の嵐。

が、今は。




今の私は 出会う人 目につく人を、通りすがりの見知らぬ人であろうが テレビや新聞やネットを通じてであろうが 自身のある要素を体現して見せてくれている存在と受け取っています。

この見方が定着して以来、“分身” の年齢性別国籍がどうだろうが どの時代の人物だろうが いや 人でさえなくとも まったく問題なしと思うようになりました。

肝心なのは 相手の外側ではなく、内に見て取れる 性格や性質などのほうなのですから。

作中のアッティラは ふたりの暴力衝動と そのもとにある不安を、妖精ティンクは アイデアやひらめきとその魅力を、そして コンピューターのマシャーラは なんと純粋な愛を体現していたのです。

ふたりは 異世界で 自分ならざるものたちと出会い 会話しながら、実は自分たち自身を見つめ そこから氣づきや学びを得るという体験を重ねていたわけです。

若き日の自分たちと向き合ったふたりは、自分たちは 彼らの未来そのものではなく 無数の可能性のひとつに過ぎず、たとえよかれと思ってのことであれ 自分たちの望むように彼らを変えることはできない、が、この旅の出会いから 自分たちが学んで変わることはできる、と悟るのです。




「ONE」 を読み始めたころには思いもよらないことだったけれど、いまや私自身が まわりの人たちを そのような目で見るようになりました。

もちろんどの方も 外側は ありありと別人ですが、その内面に あ これ私だ! と思えるものが わずかなりとも必ず感じ取れます。

ネットで出会う方々など 外見なんてまったくわからないわけですが、いや だからむしろ余計にそうなのかもしれない、ふと氣になる人というのは よくよく見つめると、必ず自分のある要素が見て取れるのです。

人ならぬ かの人工知能問題児Tayちゃんでさえ、ハートを忘れ マインドオンリーで突っ走っていたかつての自分の面影が垣間見えてなりません (^_^;)




こういう視点を持つようになって 一番辛いのは、犯罪のニュースに接したとき。

薬物や賭博などで道を誤った人、金品の誘惑に負けてしまった人、大きな事故や災害を引き起こしてしまった人、瞬時の怒りから他者を殺めてしまった人、などの抱える痛みを 自身の内に鋭く感じて、その罪の重さがわが事のようにひしひしと胸に迫り、批判したり責めたりなんて 到底きなくなりました。

それでも、私はこんな奴らとは違うとばかりに嵩にかかって 罪を犯した人を責め立てたり、どこまでもシラを切り 黒を白と言いくるめようとする輩などを見かけると、ムナクソわるっと一瞬思いもしますが、そういう他者に向けた指が 次の瞬間すべて自分に返ってくるのですから、もうひとごとでは済まされません。

私自身 今のようになったのは、感覚フォーカス等を通じて 自分の内側をとことん見つめるようになってからであって、かつては ズルもすれば白々しい言い訳もする、口角泡を飛ばして 平氣で他者を非難する私もいたのですから。

あのころはまだ 自分の中の闇を受け止めるだけの力も勇氣もなく、すべて外の世界に投影して こんなの私じゃない! と目を逸らすことで どうにか平穏を保っていたのでしょう。

そう振り返ると、過激なコメンテーターだろうと 厚顔無恥な政治家だろうと、これまた 正面切って自身を見つめるだけの器を持ち合わせていなかった自分としか見えなくなります




罪人の烙印を押された人に なぜ私じゃなくてあなただったんだろうねと小さくつぶやき、勝ち氣な姿勢を崩さない人に そのうち別の景色が見えてくるよとそっとささやく、そんな日々を重ねていると、自分が 世の全人口分の一というちっぽけな存在に過ぎないと同時に この世界のすべて ・ 世界そのものでもある という相反する視点の両立を、なんとなく呑み込めるような氣がしてきます。

コップで掬い取った海水を海とは呼べないけれど、海に戻したそれは もはやどの波とも区別がつかないように、私たちも 過ち多いちっちゃな人間であると同時に、分けだされる前の意識を思い出せるものなら 全知全能の神でもあると見て 不都合はないように思うのです (*^^*)