毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

コントラスト

2016年04月25日 11時09分06秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


子どものころから 空が大好きです。

一日の最初に表に出たら、まず空を見上げて その日の表情を確かめるのが日課。

カメラを向けることも多く、ちょっとドラマチックな様子だったりすると、あっというまに数十枚撮ってしまっています。

スーパーの駐車場などで 上を見上げてばしゃばしゃシャッター切っていて、まわりから怪訝な顔をされることもしばしば (^^ゞ













ただ、これが 「雲ひとつない真昼の青空」 のときは 例外。

光みなぎり 冴え冴えと力強い空は お天氣的にもエネルギー的にもうれしいのだけれど、写真にすると ただの青一色、言われなければ 空だということもわからないぐらい。

はっきり言っちゃうと、単調で退屈なのです




こういう空を見ていると、私たちの源 “おおいなるひとつ” のことを 思い出します。

ただそれしかない、それ以外のものがまったく見当たらない。

完璧だけれど、自身が完璧であることを ただ知るのみで、それ以上味わうことができない。

どれほど素晴らしい存在でも、それってやっぱり退屈だろうなぁ。

自身の完璧さ素晴らしさを もっと存分に体験したくて、わざわざ自分を 不完全な細切れに分けて、本来の自分でないネガティブな要素を盛り込んで 。。。。。そんな手の込んだことをした氣持ち、わかるような氣がします (*^▽^*)ゞ

私たちは、その意向に基づいて コントラストの妙を味わうべく この世に送り込まれた、いわば “天の不完全なひとかけら” なんですね。




私たちが生きるこの世界は、コントラストの世界。

正負、明暗、高低、優劣、美醜、貧富、賢愚、さまざまな対比の両面を味わうことで 奥行きや深みが増してゆく世界。

「禍福はあざなえる縄の如し」 という言葉は、まさに コントラストに彩られた そんな世界での 私たちのありようを表しているんだなぁと 感心させられます。

そこまでわかっていてなお、快不快ということになると ついつい不快を避けてしまい、結果よけいに 不安や怒りといったしんどい感情を長引かせて 半世紀を越えることになってしまいました。

まあ、それを受け止められる自分になるまで 待たなければならなかった、ということなのでしょうが。

で 今、溜まった夏休みの宿題に ヒィヒィ取り組む8月末の子どものように、半世紀分の負のおとないを受け続ける毎日です ( ̄∇ ̄;)

時としてキツイです、消耗します、自分が何を何のためにやってるんだか わけがわからなくなったりすることも。

そんなさなか、絶妙のタイミングで 「自分の道をたどっていると ネガの嵐を潜り抜けねばならない時が訪れるが、それこそが 長きに渡って持ち続けた負のカルマ解消の時なのだ」 というような情報が ぽんぽんと飛び込んできたりして、がぜん元氣づけられ、めらめらとヤル氣が湧いてきます

魂の私 グッジョブ、ほんとうにうまく仕組んでおいたね




けさも ちょうどこれを書いている最中に ふと見に行ったおなじみのブログで、こんな情報を見つけました。

そう、切り捨てるんじゃなくて 取り込むんだよね。

それが、二極のあいだで揺れ動くのをやめ そこを越えてゆくっていうこと。

あえて二つに分けたものを 再び統合し、本来の自分に還ってゆくということ。

せっかく望んで このコントラストの世界に生まれてきた私たちが、翻弄されるのではなく この世界の妙を 十分味わい楽しむために。




一番怖れているものから目を背けず、その真っ只中に飛び込み 突き抜けて 初めて見えてくる景色があるようです。

目に映るものは いつもとまったく変わらないのに、なぜか世界が違って見えてくる、なんとも不思議な心地です。