毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

忘れていたって ちゃんとある

2016年04月30日 12時41分46秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


ゴールデンウィークですね

きょうは朝からとってもいいお天氣、行楽地は活氣に満ち溢れているだろうなぁ♪




おととい28日は 母の4回目の命日、そして続くきのうは 弟の50回目の誕生日。

この組み合わせがずっと続くことになってしまった弟、メールで 「まだ慣れない」 と。。。。不憫だなぁ

でも 変化は人の心から、きっとそのうち落ち着くところに落ち着くね。




私はといえば、母については みごとに思い残しゼロ。

もちろん思い出せば懐かしいし、かき立てれば もう一度会いたいなぁ という氣持ちも湧いてきますが、それ以上に胸が痛むとか辛くなるということはないのが ありがたい。

まあ 精一杯やったもんね。。。。胃を押さえ 頭を抱えながらも さいごのさいごまで 母と向き合い続けたもの。

今なお 天と母から そのご褒美をもらい続けているのかもしれません (*^^*)

そのときのあれやこれやを教訓に 今度は父と向き合う日々、また違う角度から 新しい学びや氣づきをいっぱいもらってます♪




母の思い出からの連想で ふと思い出した母方の祖母 (母の母) の話。

東京のとある小料理屋の養女に望まれ、結局養女にはならなかったが ちょくちょく遊びに行っては可愛がられていたそうですが、そんなあるとき突然襲いかかってきた 関東大震災。

店の人たちに囲まれ 守られるようにしてやってきた陸軍被服廠の前で、不意に猛烈にいやな氣分に襲われ、つかまれていた手を振り払ってそこから逃げ出したのだとか。

その後 ご存知の通り 被服廠は火災に見舞われて 多くの方が亡くなり、祖母は九死に一生を得たのです。




私が五感を超えた世界の追及に夢中になり 勝手に師と仰いだ人の講座などにせっせと通っていたとき、両親は止めこそしなかったけれど 理解することも関心を向けることもなく、父は いまだに 理屈で割り切れない世界には目もくれない人ですが、母のほうは 自分の母親のこういう体験に加え、自身も幼い弟の死にまつわる不思議な体験を経て、多少は耳を傾けるゆとりもあったようです。

彼岸の母には 今の私はどう映っているのかな、と ときおりちょこっと好奇心が湧くことも (*^-^*)ゞ




それはともかく、公式には五感の世界しか認めないような今の世でも、こういう理屈ではつかみ切れない話というものも 根強く存在しており、貴秋は この 「見えないがため 関心薄かった 根っこの部分」 の存在感が これから増してゆくと思っています。

目立たない変化でしょうが、過去の体験の積み重ねだけではどうにもならない 想定外の出来事の度重なる刺激に触れて、忘れていた自身の源を思い出し、力を発揮する人が増えていくと予想しています。




たしか 中谷彰宏さんのご著書のどれかだったと記憶していますが、「ぼくは 耳を動かすことができる」 という話があります。

もともと誰でもできることなのだけれど、必要がなくなって 動かし方を忘れてしまっただけなのだ、と。

たしかに 今の私たちは 耳を動かす必要はないけれど、でも そのための筋肉は ちゃんと残っているのですね。

五感を超えた感覚も、これと同じようなものだと思います。

本来の自分からどんどん離れていく 「行き」 の道では それは必要なかった、というか むしろ忘れたほうが生きやすかったのです。

でも 見えなくたって聞こえなくたって忘れていたって、いつのときでも 私たちの根っこは ちゃ~んとあったし、これからだって あるのです。

あとは、使い方を思い出すだけ (^_-)-☆




これまでの私たちが生み出した さまざまな不調和を振り払い バランスを取り戻すための 地球の自浄作用として、自然災害の発生は やむを得ないこと。

でも、並行して 私たちも本来の均衡の取れた エネルギーみなぎる自分を取り戻すことで、これからの時代もきっと乗り切っていけると信じています (^o^)/