毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

またまた登場、映画 「美しき緑の星」

2016年04月04日 23時08分10秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


前の記事から ふと思い出した 久々の 映画 「美しき緑の星」 。

以前にもたしか一度書いたことがある、終盤のサッカー場での抱腹絶倒 “切断” シーンのお話です。




つねづね思っていることなのだけれど、スポーツって もちろん純粋に楽しんでいる選手やファンも多いでしょうが、中には ただスポーツ楽しい~っていうに留まらず、名声や高収入に惹かれてプレイしたり、自身で晴らせない憂さを 人の戦いに託したり、というような人も 結構混じっているんじゃないかなぁ、と。

そんなこと考える人間が見た あのシーン、ひそかにものすごくツボでした



最初はごく普通に、グラウンドで競り合う選手たちと スタンドで旗を打ち振り大声援を送る観衆という、サッカー中継そのままの場面。

が、ヒロイン ・ ミラとその息子たちの 選手への “切断” により、試合はメチャクチャに。

試合自体も 敵味方の区別も忘れ、突如流れ出した (これもミラのしわざ) 「美しき青きドナウ」 の調べに乗って、心の赴くまま 踊ったり歌ったり遊んだりし始める選手&審判と、それを呆然と眺める観客たち。

そうそう、あの両チームのキーパーが 左右から踊り出て 中央で・・・・・というくだりは ドン引きだったっけ (^◇^;)

って、映画ご覧になっておられない方は なんのことやらわからないですよね、ごめんなさい m(__)m




あそこで “切断” を施されたのは、やはり ほんとうの自分に上書きされた もともと自分のものでなかったはずの 欲望や執着や思い込みだったと思うのです。

それが切り離されたとたん、戦いも サポーターも サッカーそのものさえどうでもよくなり、みんな無邪氣に好き放題やり始めちゃった☆

たぶん それと氣づいてはいなかったろうけれど、切断前から 自分の闘争心はもとより、観客に背負わされた 「勝たねば」 という使命感やプレッシャーも、その奥に潜む 「負けたら見放される、今みたいな暮らしができなくなる」 という恐れも、大きな重荷だったんじゃないかな。

で、そんな欲や不安から解き放たれた瞬間、いっせいに童心に返って のびのび遊び出しちゃったんでしょうね。




映画では 多少誇張して描かれてはいますが、実際の私たちも 同じようなものなんじゃないかと思います。

今の仕事をしなくても 暮らしが十分成り立つとしたら、今とまったく同じことを そのまま続ける人って どれぐらいいるだろう。

生きていけなくなる恐れから、したくもない仕事をして、好きになれない人ともガマンして付き合って、そんなありのままの自分として生きられないフラストレーションを 外の世界に投影し、癒しで忘れようとしたり、他者にぶつけて争ったり。

でも、原因は ほんとうに外にあるんでしょうか。




もしも ミラたちに “切断” されたとしたら、それまで当然自分自身だと信じ込んでいたのに あっさり切り離されてなくなる部分って どういうものなのか、想像してみるのも面白いかもしれません。




ちなみに、“切断” は、他星人でなくとも ごくふつうの地球人でも (やり方は違いますが) 十分可能です。

ただし、他者の切断までできるかどうかは 貴秋はまだ試したことがないのでわかりません、あしからず



















“自分”  このやっかいで 愛おしきもの

2016年04月04日 11時46分46秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


「自分」 っていう言葉を最初に思いついた人は知らないけれど、なんて的を得た表現なんだろうと 使うたびに思います。

自ずと分けだされ、また 自ら分け出すものでもあるという その本質が、たった二文字で表現されているなんて。

そう、私たちは いのちの源から 自ずと分け出された存在であり、また その言動によって 自らも有形無形さまざまなものを分け出しながら生きている存在なのですね。




前に 「分離はいのちの力を弱める」 と書きました。

私たちのからだの細胞ひとつひとつは、筋肉、骨、血液、髪の毛など それぞれ形も働きも違うけれど、自分の役割に専念しつつ 他の細胞とも調和連携して 、総体であるひとりの人間の生命を 最良に保っています。

もし 種類の違う細胞どうしが 互いの違いにこだわり 比較し合い、自分と違う相手を嫌ったり 優越感からいばったり 引け目を覚えて落ち込んだりすれば、調和は乱され、細胞の主の健康も損なわれてしまうでしょう。

この細胞を人間に置き換えて考えると、今の私たちの社会は ちょうどそんなふう、本来の自分を生き切って 幸せや充実を感じる代わりに、他者との比較や競争で 調和を失いかけているように見えます。

自他を区別しようとする意識の働き、これもまた 生につきものの自己表現であると同時に、“大きなひとつ” という本来のありようへ戻ろうとするいのちの流れに掉さす 分離の動きにもなるのですね。




私たちの生の営みは 区別し 分け出すことで成り立っており、そういう形での活動や表現をやめるわけにはいきません。

さりとて 分離を重ねて源からどんどん離れ、調和を壊し いのちの力を弱めたくもない。

ではどうすればよいか。




これは何の本で読んだのだったか、たしかOSHOこと バグワン ・ シュリ ・ ラジニーシの本じゃなかったかと思いますが、「舟で川を渡ったら、空になった舟はそこへ置いてゆく、次の川に備えて わざわざ担いで運んだりはしない」 というような講話を覚えています。

私たちの表現も それと同じく、必要に応じて線引きし 分け出す、それが済んだら ただちにその線引きを手放し その都度リセットし直す、とすればどうでしょう。

スポーツやゲームを楽しむために 敵味方に分かれ、終わったら チーム分けもご破算にして、再びみんな元の仲良しに戻る。

家庭、学校、会社、さまざまな場に応じて それぞれの立場や役割があるけれど、いったんそこから離れたら 立場や役割からも降りて、フラットな関係に戻る。

表現活動の結果として 作品は残るけれど、作り手は すぐまた新たな意識に返り、一から新しい作品作りに向かう。

そのときそのときで いろいろな自分になって いろいろなものを生み出すけれど、それはあくまでもかりそめの姿、終ったらすみやかに役割から降りて、 結果や産物に未練を残さず、ただ 今 ここにあるがままの 素の自分に戻る、ということですね。




・・・・・と言うのは簡単ですが、実際にはこれがなかなか難しい。

わが子が一人前に成長してからも つい親として上からものを言ってしまったり、職場を離れても 立場や上下関係はそのまま引きずったり、試合が終った後も ファンどうしがいがみ合ったり、素晴らしい作品や成果を残した人が 過去の栄光にしがみついたり。。。。。などということが どうしても起こってしまいます。

認められたいという欲求、日ごろのうっぷんを晴らしたくなる心理、評価や対価への執着、常日ごろから胸の奥に潜んでいた さまざまなわだかまりが、いのちの一員へとまっすぐ戻ろうとする進路を曲げてしまうんですね。




分け出し 分け出されるものであり、同時に 大きなひとつのいのちの一部もある私たちが、そんなふたつのバランスをちょうどいいところで保って 自由に楽しく生きてゆくためには、ふたつの自在な行き来を阻むものが何なのか、おおもとからじっくり見つめて 感じ 受け入れることが どうしても不可欠だと思うのです。

分離を楽しむこともできれば 苦にすることもできる、選択はそれぞれの自由。

ただ、今 世界のあちこちが軋み バランスを崩しかけているように見えるなら、その原因は 外ではなく ひとりひとりの意識の内にあります。

元から確実に立て直すことで、手がつけられないように見える世界も、まだまだ 救いやチャンスは 山ほどあるのです。