毎日がしあわせ日和

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かもめのジョナサン ・ 完成版

2016年04月09日 17時39分12秒 | 大好きな本・映画・ほか


リチャード ・ バック作 「かもめのジョナサン ・ 完成版」 。




この完成版を初めて見かけたのは 一昨年の秋ごろだったか、表紙の 「完成版」 の文字を見た瞬間、「読みたくない!」 と。

小学6年生で出会ってから 今に至るまで その魅力がいささかも失せることのない愛読書「かもめのジョナサン」 、その完璧な内容に なにをどう付け足そうと 蛇足にしかならず、下手をすれば すべてをぶちこわしかねない、作者がなにをどう考えようと 私の 「ジョナサン」 は これまでのものがすでに完成版なのだ、と 躊躇なく思ったものでした。




それがなぜか今年になって、出先でふと入った図書館で この完成版のことを思い出し、新たに付け加えられた一章って どんな内容だろう? と好奇心が頭をもたげ、書棚を探したら あったのです。

さっと目を通したところで、これは偏見を脇において読んだほうがいい、という氣持ちになり、あらためて近所の図書館で借りてきました。




この先、「かもめのジョナサン ・完成版」 の内容に触れることになりますので、お読みになりたくない方は ごめんなさい、ここまでで。













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この 「完成版」 出版にあたり 新たに付け加えられた第四章、もうあるあるのオンパレード (^_^;)

憧れるものを外の世界に見つけると、崇め、奉り、特別視し、果ては神格化して、どんどん遠ざけてしまう。

外側の情報ばかり追いかけ、瑣末なところにこだわって、肝心の本質はそっちのけ。

ジョナサンが アイドルから神の座にまで祀り上げられ 手の届かない存在となり、その直弟子たちも特別扱い、憧れるがゆえに ひたむきに追えば追うほど見失ってしまうその流れ、身に覚えがあり過ぎて 頭を抱えそう

答や理想はつねに外にあるものと叩き込まれてきた私たちが いやおうなしに通らねばならない道のりを 年表のように淡々と描写したこの第四章、不思議な存在感があります。

私としては この章なしで完璧という見方は変わらず、私の大切な 「ジョナサン」 は これまでどおりのもので十分、あれが私の完成版。

にも関わらず、第四章が余計かというと そうでもないのです。

これが加わることで、三章までの物語の意味合いが だまし絵のように変わる、そんな印象です。




三章までは、心を奪い ときめかせてやまない 「飛ぶこと」 に 寝食を忘れて打ち込んだ一羽のかもめ、ジョナサンの物語。

彼が追い求めたのが ひたすら自分の憧れなのは 第四章のかもめたちと同じですが、彼の憧れの対象は 自身の外ではなく 内にありました。

飛行技術を磨いて 磨いて 磨き抜く、自分にウソをつかず 群れから追放の憂き目に遭い ひとりぼっちになっても、より速く飛ぶための技の習得に打ち込み続けたジョナサンは、それまで思い込んで (思い込まされて) いた限界を 次々飛び越えて、その影響は 彼に付き従った者たちにも及んだのです。




そして今回新たに加わった第四章は、ジョナサンがこの世を去った・・・・・この 「この世を去る」 は、いわゆる 「死」 とは違うふうに描かれていますが、ともかく 彼がいなくなったあとの世界についての物語です。

この第四章によって、「かもめのジョナサン」 は 私の中で、三章までの持ち味を少しも損なうことなく 「行って かえる の物語」 へと 変貌を遂げたのです。

ジョナサンの生涯と その後しばらく続いた “真に飛ぶことを求めるカモメたちの黄金時代” 、そして 上に書いたように 彼らが神格化され、信仰の対象にまで押し上げられるのと入れ替わりに 肝心の 「飛ぶこと」 が忘れられていく過程が 淡々と描かれ、ついには宗教化し 強迫観念にまでなってしまった彼らの伝説に 疑念や反発を覚える若い世代が現れ、人生 (鴎生?) に希望を持てなくなった そんな若い一羽のかもめ アンソニーが 絶望の果てに まさに死への一歩を踏み出したそのとき、すいっとその傍らに現れる あの昔ながらのなつかしいジョナサン、第四章は そんな二羽の出会いの場面で 幕を閉じます。




出先の図書館で カバーの内側の 「著者が 自家用飛行機の事故で九死に一生を得たことをきっかけに、新たな最終章が加えられた」 という説明しか読んでいなかった私、完成版の 著者自らがしたためた序文で、この第四章が最初から書かれていたことを知って 驚きました。

著者自身 自分が書いた結末を信じられず 書くのを止め、第三章をもって幕としたが、半世紀を経て 置きっぱなしにされていたその第四章の原稿が 夫人によって発見され、それを読み返した上で 改めて完成版出版の運びとなったのだそうです。

おそらくまだスピリチュアルという呼び名もくくりも定まっていなかっただろう当時、その後に到来するスピリチュアルブームと その先の流れなど わかるはずもないことですが、それでもなお 理屈を超えたところで リチャード ・ バック氏は、そのひとわたりを感じ取っており、今それを 過去の自分からの警告と希望の声と受け止めたようです。




時を得て 予言的中とでもいうかのように現れた第四章、今だからこそ その意味も重みもひしひしと胸に迫ってくるのでしょう。

答を外に求めるほどに 迷いの道の深みにはまり 行き詰まったようにも見える現状で、探究の目を内へと向ける人が ひっそり少しずつながらも増えてきている感があります。

この数十年の スピリチュアルというジャンルの手探りの道のり、それは 私自身の内的迷走とも重なります。

勝手に師と仰いだ人に 裏切られたと怒り狂い、それでもなお懲りずに 別の師を探し求めては失望し、ついに覚悟を決めて ひとり探究に乗り出したその歩みの心もとなさ、心細さ。

その極みでふと、ずっと前からここにいたよというように 氣さくにフレンドリーに寄り添う “なにか” の存在に氣づかされたのです。

その “なにか” を 私は今、内なる指針と呼んでいます。




道を大きく外れ 極限まできたところで、ごく自然に目指す方向が180度変わり 再び戻ってくる。

そんなかえり道の途上にいる私たちに、この第四章は これからの歩みのための 大きな手がかりと励ましを差し出してくれているようです (^^)