毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

見えない ・ 掴めないからこそ 確かなこと

2016年04月20日 21時32分06秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


私たちは、五官を通して物や情報をやりとりすることに慣れています。

だから どうしても、五感でキャッチできるものほど確かなように思えてしまいます。

五感の中でも 特に視覚には重点的にウェイトが置かれていて、「見える」 ことが 信頼の基準になりがちです。

しかし、「見える」 世界に 想定外の異変が頻発する今、その基準は ほんとうに信頼するに足るのでしょうか。




この世のすべてのものは 絶えず変化しています。

昼夜、四季、天体、水、空氣、そして生物、すべてが巡ることで成り立っている私たちの世界では、分け出されたものは 徐々に様子を変え、形を失っては また得ることを繰り返しています。

そしてそれは、人の心も同じこと。

晴れては曇り、ときに大荒れ、ひとところに留まってなどいられるものではありません。

そんなうつろいやすいもので形作られている五感の世界に、これさえ頼れば大丈夫 なんて確固たるものが 存在するはずもありません。




一方で、形がないからこそ 触れも壊せもしないのが、五感を超えた世界。

時間も空間も及ばないこの世界こそ、私たちのふるさとであり、すべての叡智の源。

この世界から得たひらめきや智恵は、失うことも盗まれることもない資産であり、決して間違うことのない指針です。

つねにゼロに戻り ゼロから分け出されるから、外の世界の変遷にもしなやかに対応し、いくら汲んでも尽きることがありません。




見て 聞いて 触れて がっちり掴めるものこそ確かなもの、という認識を ちょっと見直して、自身の心の奥底を見つめてみれば、これから何を頼みにしてゆけばいいのか きっとわかるはず。

熊本の地震が教えてくれているように、道路も山も建物も 百年単位で永らえてきたお城さえ 崩れるときは崩れてしまうけれど、いのちそのものは 形は変わっても すっかり失われてしまうことはありません。

倒れた木は、朽ちて 微生物の栄養となり、やがて土に還って、そこから新しい苗木が育ちます。

人も、死んで肉体は朽ちても 意識は彼岸に行っても保たれると、多くの臨死体験者が証言してくれています。

そして、望めば 新しい姿形を得て、し残したことに再び取り組むのだと言われています。




ほんとうの自分から離れて (忘れて) また戻る (思い出す) 、寄せては返す波のように これもまた巡り。

「かえり」 の道は、「行き」 で手にしたものを ひとつひとつ手放してゆく道でもありますが、それが自分にとっての最善と知るカギは、それぞれの心の中にあります。