毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

いのちを超える物差しなんてあるのでしょうか ・ その2

2018年08月01日 15時04分35秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


このブログにもたびたび書いていますが、いのちとは 本来分けられないもの。

対して 私たちの生きているこの三次元世界はコントラストの世界、正誤 ・ 優劣 ・ 高低 ・ 寒暖 ・ 明暗など 対立する二要素で構成される世界です。

しかしよく見れば、その相対する二要素も 実は同じものの程度の差でしかありません。

同じ摂氏20℃でも 夏なら涼しい 冬なら暖かいと感じるように、「この線からこっちが寒でこっちが暖」 などとくっきり分けられる絶対の境界線というものは存在しないのです。

基準となる線は 相対的に人の数だけあり、ひとりひとりが自分なりの基準に照らし合わせて選択行動し、その積み重ねがその人ならではの個性を培ってゆく、というのがこの三次元世界のありようです。




形ある世界に生きる私たちは、つねに 「分け出す」 ことで成り立っています。

そもそもその出自自体が 形なきいのちから 肉体という形で分け出されての誕生であり、以後 もともと境界のないところに自分なりの線引きをすることで つねに他とは違う自分というものを分け出し創り続け、その生き様をもって 「私とはこういう者である」 と宣言し続けています。

そしてその線引きは、いのち同様 本来とても柔軟であるべきものだと思います。

運動会で紅白に分かれている間は敵だけれど、運動会が終ればすぐまたもとの仲良しに戻るように。

電卓で計算を終えるごとにクリアボタンを押してゼロに戻すのと同じく、役目を終えた線は 「すべては分けられないひとつのいのち」 という私たちの本質にいちいち返すことで 真実の私たちを見失わないようにするというのが、この形ある世界を氣持ちよく生きてゆく極意だと思うのです。

有限の線がいつまでものさばり続け 無限のいのちより力を持つようになれば、私たちの穏やかな世界は 大きく揺らぐことになる。

そんな憂慮すべき事態が まさにいま起こっていると感じます。




以前 「雲が消えれば太陽が顔を出すように、本来の自分でない要素を手放せば 次第に真の自分が表れて、あとのことは向こうから起きてくる」 と書いた覚えがありますが、その “起きてきた” 中のひとつが、この現存する 「いのちを縛る有限の線」 の正体が見えてきた、ということ。

本来用が済めば無効になるはずなのに、そのまま頑固に居座り続け 自然なはずのいのちに不自然に介入してくる線、私たちが生み出したものでありなが
ら 私たちを上回る力を持ち、私たちを左右し ときに傷つけ力を奪う線、その最たるものが 「お金 ・ 時間 ・ 法」 の三つだと感じます。

三つに共通するのは、私たち人間が頭で作り出したものであること、そして人間社会にしか通用しない物差しであること。

ここでいうお金とは、硬貨やお札といったお金そのものではなく、お金のシステムのことです。

そして、時間や法は 根本ではそのお金のシステムを守り支えるために作られたもののように見えます。

無限のいのちであるはずの私たちを無情に切り刻み 力を失わせるのがお金のシステムであり、この線引きは 人を 「システムを使う者と使われる者」 「システムから利益を受ける者と受けない者」 に分ける役目をする。

「強者と弱者」 と言い換えてもいいでしょう。

そしてこのシステムは、強者によって作られたものなのです。

お金も時間も法も 私たちが生まれる前からあったものだから、ついつい空氣や太陽や大地と同じようにあって当然のものと思ってしまいがちですが、それは天が定めたものではなく、同じ人間の手になるものです。

天が定めたものは変えられないけれど、人が作ったものは変えられます。

多くの人が不都合と感じる線引きならば、いったんゼロに戻して よりよいものに作り替えることができる。。。。はずなのですが。

そうならないのには わけがあります。






















いのちを超える物差しなんてあるのでしょうか ・ その1

2018年08月01日 11時31分13秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


久々のブログです、またもやご無沙汰してしまいました。

毎日すごい暑さですね。

夏至からこっち 日照時間が日ごとに2分ばかり縮まってゆくことが無性にうれしく思えるほどの、強烈な日差し。

そんな猛暑をいっそうヒートアップさせるかのようなさまざまなニュースが連日流れていますが、そのひとつ、杉田水脈議員の 「LGBT差別発言」 問題。

以前なら間違いなく 議員やそれをかばう党の重鎮たちを激しく非難していたことでしょう。

頭から湯氣をたてて夜行バスに飛び乗り 抗議デモに参加していたかもしれません。

が、今回はどうも反応が違います。




最初にこのニュースを知ったとき 真っ先に意識に引っかかったのが、「生産性」 という言葉。

辞書で調べると 「生産のために投入される労働・資本などの生産要素が生産に貢献する程度」 とあります。

次の瞬間浮かんだのは、一時期パートや派遣社員として携わっていた旅館接客業の記憶。

お客さまを迎えおもてなしする 人間ならではの触れ合いのひとときが、まさにこの 「生産性」 という物差しでがんじがらめにされ、"もてなしと効率” という本来相容れないものを無理やりひとつ箱に押し込めた矛盾は、最前線で直接お客さまと顔を合わせて働く私たちが身をもって味わうことになります。

係ひとりひとりが その能力に応じて接客しうる限界ぎりぎりの人数を受け持たされ、お客さまの到着と同時に時間との戦いの火蓋が切って落とされます。

とりわけ大変なのが、夕食時。

3部屋なら3部屋、すべて同じ時間にかち合うことがないよう そこはご案内の段階であらかじめ調整しておきますが、それでも料理が進むにつれ 3部屋分の進行が重なり合うのは避けられなくなります。

一品ごとの手順やタイミングを考え 秒単位で動きを組み立てても、飲み物の注文や 余分な器や調味料の希望など さまざまな予定外のリクエストが入り、動きが狂います。

最悪なのは 遅れて到着したお客さまのお出迎えで、部屋までの案内はさすがにフロントが受け持ってくれますが、そのあとのご挨拶からお茶出し、館内の説明までを お尻に火がつくような状況で 焦った様子を見せずにっこりこなさねばなりません。

たいていのお客さまは そんな事情を知ってか知らずか 料理の遅れもこちらのミスも寛大に受け止めてくださいましたが、ときには叱責されることもあり、こちらはすべての理不尽をぐっと飲み込んで ひたすらあやまるしかありません。

こちらが何部屋受け持とうと それぞれのお客さまには関係ないこと、お客さまと係はあくまでも一対一の関係であり、おひとりおひとりが十分なサービスを受ける権利があるのですから。

このブログを以前からお読みくださっている方々はご存知のように、貴秋のテンポはひたすら “アダージォ (ゆっくりと、ゆるやかに) ” 。

ただでも苦手な 「早く、早く」 を限界を超えてなお強いられるこの仕事のストレスはかなりのもので、いまこうして思い出すだけで胸が苦しくなります。

ならそんな仕事に就かなければよさそうなものですが、どんな職種であろうと この 「生産性」 なる言葉はつきものであり、時間や数量といういのちなき物差しでいのちあるものが分け隔てられ切り刻まれるという事態は避けられないのですね。




ここで杉田議員の発言に話を戻せば、どんな個性を持とうと この世に生れ落ちた瞬間からかけがえのない存在であるはずの自分たちを 「生産性」 という即物的で無味乾燥な物差しでばっさり否定されたLGBTの方々の怒りや悲しみは察するに余りありますが、同時に 議員やその賛同者をどれほど口を極めて非難したところで この問題の根本的な解決には結びつかないとも思うのです。

なぜなら、この 「生産性」 という言葉で表される物差しは、為政者のみならず 私たちひとりひとり、差別するなんてひどいことだいけないことだと固く信じている人たちの内側にまで いつのまにか深く入り込んで根付いているからです。