「聴く」 ということが、以前から氣にかかっていました。
過去記事から 「聞こえない音を聞く」 「聴く力」 「続 ・ 聴く力」
先日の芭蕉のセミの句で、聴いているのはセミの声そのものよりも まわりの静寂のほうかもしれないと思ったとき、この 「聞こえない音を聞く」 話が思い出されました。
「動物はすべてを知っている」 のJ ・ アレン ・ ブーン氏も 「未知の贈り物」 の老漁師パク ・ ハルーンも ミヒャエル ・ エンデの「モモ」 で鳴かなくなったカナリヤの声を待ち受けるモモも、沈黙に耳を傾けることを知っている人たちだった。
最近 臨床心理学者 ・ 河合隼雄さんの本をたて続けに読みましたが、河合さんもまた カウンセリングの現場でクライアントさんの抱えるものを「沈黙のうちに聴く」 ことの大切さを説いておられます。
クライアントさんの話を 意識をぴたりと合わせたままじっと聴き続け、それについての自身の判断解釈を語って聞かせるようなことはいっさいしない。
ただ相手の話に耳を傾け、箱庭療法などのときは 相手と同じ目線の高さから その言動を静かに見守る、それだけで思いがけない効果が現れることがしばしばあるのだ、と。
ときには1時間も2時間もものを言わないクライアントさんのかたわらで 意識をそらすこともこちらから話しかけることもなく、じっと沈黙を保ったまま ただいっしょにいる、それだけで信頼関係が築けることもあるようです。
そんなさまざまなエピソードを何冊にも渡って読むうちに、ふと 「感覚フォーカスって、まさにそういうことをしていたんじゃない?」 と氣がつきました。
自分の不安や怒りや痛みを、否定するでもなだめるでもなく 言葉を切り離し 感覚としてただ感じ続ける。
それだけで、おのずと向こうから和らぎ 消えていくのです。
河合さんの心理療法もまた、クライアントさんと意識を共有するなかで そういうことが起こっていたのかもしれません。
沈黙を保つとは、油断すればすぐ空回っておしゃべりが止まらなくなるマインドを 言葉の及ばないゼロの領域にぴたりと留めおくこと。
真我がマインドにつねに氣づいてそのありようを映し出し続けるように、マインドのほうでもそのような真我の存在に氣づいて 両者がメビウスの輪状にひとつになっている、そんなときに豊かな沈黙が成り立つのだと思います。
マインドがそわそわしたり荒れ狂ったりしているときにこうなるのはまずムリだから、最初に耳を傾けるべきは自分自身の心なんですね。
いま、言いたいことがたくさんあるのに聞いてもらえなくて 自信をなくしたり怒りを溜め込んだりする人がおおぜいいるような氣がします。
まずは自分の中から、そして身近な人へ、周囲のさまざまないのちへと 次第に聴こえる場が広がっていく、そんな人が増えるだけで 私たちのこの世界も大きく変わるのかもしれません。