毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

時間を遡れなくても人生はやり直せる ~ 映画 「シャッフル」

2018年08月22日 12時13分27秒 | 大好きな本・映画・ほか

動画サイトGyaO!で 「シャッフル」 という映画を見ました。

この先映画の内容に触れますので、「ネタバレ注意」 とさせていただきますね。














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夫ジムと娘二人の家族4人で暮らすリンダは、ある日突然出張中のジムが交通事故で死んだことを告げられます。

が 翌朝起きると、キッチンでいつものように朝食を摂るジムの姿が。

混乱しながらも受け入れたリンダですが、そのまた翌朝目覚めて階下へ行くと、居間には黒服を着た人がずらり。

ジムの葬儀の日だったのです。

いったいなにが起きているのか。

4日目、リンダは 曜日がいつものように月、火、水、と順でなく、木 → 月 → 土・・・・・とシャッフルされていることに氣づきます。




これを初めて見たとき、細田守監督のアニメ 「時をかける少女」 を思い出しました。

あちらはシャッフルではなくタイムリープでしたが、いつもと違う時の流れの中で行きつ戻りつしながら 迷って悩んで やがて自分なりの答を見つけ出すところに 共通のものを感じました。

どちらも ジムが亡くなる、真琴と千昭が (おそらく二度と) 逢えなくなるという結末に変わりはありませんが、二人のヒロインは そこまでの道のりを行ったり来たりしながら 自分なりに事態に精一杯取り組み、普通の時間の並びのままだったら氣づけなかったであろうことに氣づいて、哀しみを超え 穏やかな自信を取り戻し、新たな道を歩み出します。




「シャッフル」 のリンダは、組み替えられた曜日に翻弄されながらも、夫の死という定点を いやおうなしに生前と死後の両方の視点で眺めることになり、当たり前になり過ぎて受け流していた事実に直面します。

幸せに満ち 希望に溢れてスタートを切ったはずの結婚生活なのに、いつのまにか離れ離れになった心、単調に繰り返される味氣ない暮らし、こんなはずじゃなかった、なぜこんなことに。

どうすればいいのかわからぬまま迎えた残る曜日のさいごのひとコマ ・ 事故3日前の日曜、信仰に救いを求めたリンダに 神父は穏やかな口調で説き聞かせます。


       “信仰をなくした者は カラの器と同じだ。自分より強大な力に支配されやすい。

        信仰とは 自分を超えた何かを信じることだ。触れることも嗅ぐこともできないもの、希望や愛のようなものを。”


       “遅すぎはしない、何が大事か、何のために戦うか氣づくのに”


日曜の晩、リンダはいつのまにか取り巻かれてしまった諦めと倦怠の幕を破り、ジムに率直に寂しさや空しさを訴えます。

この新たな行動をもってしても ジムを死の手から救い出すことはできませんでしたが、残されたリンダの人生は大きく変わることになりました。




現実の私たちの人生で 時間の流れが前後することはまずないでしょうが、それでもリンダのように 人生をよりよいものにする手立てはあります。

惰性に流されず、毎日を 自分自身を つねに新鮮な目で見つめなおすこと。

惰性は、空回りするマインドに身を任せて ほんとうの自分の氣持ちを省みなくなるところから生まれます。

あの 「シャッフル」 の神父さんの言葉、“毎日生きていることが奇跡だ” 、そんな心で日々を迎えられたら。

指針となってくれるのは、自身の感情。

不安、怒り、退屈、空しさ、そんなできれば背を向けていたい感情と敢えて向き合い 味わい切ることで、単調に過ぎたかもしれない流れに風穴が開きます。

湧き上がる負の感情は、「このまま進みますか?それとも道を変えますか?」 という問いかけのようなもの。

まずは問われていると氣づくことが、変化のきっかけをつくります。




「シャッフル」 と 「時をかける少女」 、どちらも一方通行のはずの時の流れを乱してみせることで、SF設定とは縁のないはずの私たちも いったん通り過ぎた出来事をやり直すことはできなくても 意識を変えるチャンスはそこここに置かれているのだということを伝えてくれているのかもしれません。