白状しますと貴秋、実は 「愛」 という言葉が苦手です。
ブログ内でさんざん使っておきながらなんですが、「愛」 と 「感謝」 、この二つには どうしても苦手意識がついてまわります。
そもそもの使い始めに刷り込まれた 本来とはかけ離れたイメージが、いまだに拭い切れないからです。
「愛」 にはいかがわしさが、「感謝」 には恩着せがましさがまとわりつき、そのたびに 「いやいやもうそれとは違う愛や感謝を体験しているはずだ」 と新しい記憶を引っ張り出してクリアしていますが、これらの言葉を目にした瞬間まず浮かぶのは いまだに旧イメージのほう。
なので 事あるごとにイメージの書き換えを図っていますが、最近 「愛」 の強力な援軍として登場したのが、かの 「0 (ゼロ) 」 です。
0を掛ければどんな長ったらしい数字もややこしい計算もたちどころに0になると前に書きましたが、愛にもそんな性質があることに ふと思い当たったからです。
以前どれかの記事に書いた覚えがありますが、ひどく機嫌の悪かった貴秋が表に出て、たまたま顔を合わせた電氣工事かなにかのおじさんの笑顔に 一瞬でネガ感情を溶かされて ころりと明るくなったことがあります。
ささやかながらも印象深い出来事で 十数年経ったいまも記憶に残っていますが、最近これと似たようなことがあちこちで起こっている、ときには自分からも起こしていると氣づくことが多くなりました。
狭い通路で道を譲ったり譲られたり、なにかの順番待ちで前の人から 「お先に」 とにっこり声をかけてもらったり、自分が出たあとのドアを次の人にと押さえたままでいて感謝されたり、停車中の電車で向かいの車両の子どもと目が合って思わず手を振り合ったり。
が、同じような場面でも ほわっと心が溶けるときとそうでないときがあり、なにが違うのか氣になっていましたが、だんだんわかってきたのは、その言葉や動作や笑顔が開いた心から出ているかどうかがカギだということ。
機械的なせりふやつくり笑顔でも 親切にしよう感じよくしようという意図は伝わりますが、相手の心を溶かすほどの力は こちらの心が開き 愛が直接触れることで初めて働くんですね。
そしてそういうときは、しようしようとしなくても おのずとそういうことが起こってくるようです。
ふと浮かぶ笑顔、ふと口をついて出る言葉、ふとしたなにげない動作、そういうものが作為なくすっと起こるとき、起こした側にも受け取る側にも ふわっと喜びが湧いて 心が軽くなる。
そういうやり取りには自然な流れがあり、あとになんの違和感も負担も残さないので それとわかります。
こちらが受け手だと あのおじさんのときのようにとげとげしい心もふぅわり丸くなるし、逆の場合だと相手の表情がほぐれたり和らいだりする感じで 「あ、いま “あれ” が起こったな♪」 とうれしくなります。
0を掛ければ どんな数も計算も0になる。
愛に触れれば どんなしこりもわだかまりも溶かされる。
こうして 「愛とは重かったりくどかったりべた甘かったりと こちらの心にまとわりつき なにかを残してゆくもの」 というイメージが、「愛とはさわやかな風のように 心の曇りをさっと吹き払い拭い去るもの」 と次第に変わりつつあります。
捉えどころのない“ないものがある” の領域に どんどん惹き込まれていくのを感じます。