毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

いつだって誰だって 自分の物語は自分で書き換えられる

2018年08月13日 11時03分52秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


私たちは、言葉で分け出した物語の世界を生きています。

誰かにいやなことを言われて氣分が悪くなったら、それは 「いやな思いをしている自分と いやな思いをさせた相手」 という物語を創り出して みずから体験しているのです。

同じ体験でも 視点をずらせば、「ネガティブな感情を言葉に乗せて発散している人と それを眺めている自分」 というように書き換えることもできる。

起きたことはひとつでも それについての解釈は複数で、どんな物語を創るか ・ 選ぶかで 氣分も状況も違ってくる、それが 「人生を決めるのは、起こったことそのものではなく それについての解釈」 ということなんですね。

これがわかっていれば、いくらでも望み通りの人生を送ることが可能。。。。なはずなんですが、ときとして出来事についての解釈を自由に選べない場合があって、それが事を複雑にします。

かくいう貴秋が まさにそんな不自由な意識の持ち主だったわけですが (^^ゞ




この二極世界で ネガ感情とポジ感情は表裏一体、理論上はどちらを選ぶも自由なはずですが、その自由をきかなくさせているのが 幼い頃に入り込んだ思い込み。

先の例でいえば、「いやな思いをしている自分と いやな思いをさせた相手」 の物語の原型は、その昔 誰かに言われたことにショックを受け、そのときの不快感が記憶の奥底にこびりついてしまったところから生じており、いま体験していることは 実はその原型の焼き直しに過ぎないんですね。

生物学的にいえば、受けたショックに応じてさまざまな化学物質が分泌され、その感覚が出来事と結びついて 記憶に刻まれたということのようです。

この体験をその場できちんと受け止められれば それでおしまいで、それ以上あとを引くことはありません。

子どもはいやなことがあると ためらわずすぐに泣きますが、涙にはそんな化学物質を洗い流す効果があるそうで、そうやって流し去ってしまえば 体験と化学物質が結びついたまま残されることはないのでしょう。

が、そこで泣くことを禁じられるなどして 感情を押し殺さざるを得なくなると、それは心の奥のほうに押し込められ、原点の出来事は忘れても、同じようなことが起こるたびに 同じ物質の分泌が繰り返され、それに応じた感覚がからだによみがえり、そこに言葉が結びついて シチュエーションは違えど同じようなスタイルの物語が再現されることになり、それは 先送りにしていた 「受け止め 終らせる」 ことを済ませるまで 何度でも際限なく続くようです。

逆に見れば、そんな不毛な繰り返しをおしまいにするために 意識が同じような状況を呼び寄せて物語を再現し、心の痛みやからだの不快感を通じて 「ここに未消化のわだかまりが残っているよー、ちゃんと氣づいて終らせてくださ~い」 と知らせてくれているともいえますね。




そんなつもりはないのに いやなことを繰り返してしまうというのは、とても苦しいものです。

でも、繰り返していると氣づいたということは、すべてを終わりにするチャンスを手にしたということでもあります。




自分が言葉で生み出された物語を生きていることが納得できると、これまでムリとか難しいとか思っていたことが 違って見えてきます。

「ムリ」 「難しい」 というのもやはり物語であるとわかるからです。

事実は動かせなくても、物語は書き換えられます、だって作者が自分なのだから。

記憶に残る感覚に言葉が結びついて 望まぬ物語が生まれるのですから、物語の解体には その逆をやればいい。

まずは感覚と言葉を切り離し、言葉は脇において 感覚が指し示す事の発端をしっかり受け止め 終らせればいいのです。

具体的な手立てはいろいろありますから、アンテナを張り情報を集めて 自分に合ったものを見つけてください。

あっさり一度で終ることもあれば 何度も見つめなおさねばならないこともあり、そこはケースバイケースですが、しっかり感じ切れば どんなしぶとい物語もやがては終わりを告げます。




こんな苦しみをどれだけ繰り返せばいいのかと弱氣になったとき、立ちはだかる強大な壁に比べて自分があまりにも無力に思えたとき、この 「物語の書き換えは可能である」 という話を思い出していただければ幸いです。