私たちはみな、自分の人生の物語の創り手であり演じ手です。
そしてその物語は、はたからどう見えようとも 本人の中では筋が通っているものなんですね。
以前にも書いた ニール ・ ドナルド ・ ウォルシュ著 「神との対話」 の ヒトラーについての神の言葉に、こんな一節があります。
“ 彼 (ヒトラー) は 「悪事」 をしているとは思っていなかった。
彼は同胞を助けていると思っていたんだよ。
(中略) どんな者でも、自分なりの世界モデルにてらせば、何も間違ったことはしていない。
(中略) ヒトラーは同胞のために善行を行なっていると考えていた。
それに、彼の同胞もそう考えていたのだ!
それこそが、狂氣なのだよ!
国の大半が、彼に同調したのだ! ”
終戦記念日を目前に控えて テレビでも新聞でも戦争関連の話題が目につきますが、改めてこの神の言葉と考え合わせると、あのナチスドイツの一連の行為をはじめ 世界中で起こった酷く忌まわしい出来事はすべて、それを是とする人々の物語から生じたものだと納得がいきます。
ヒトラーと彼の支持者たちは、自分たちが他の民族よりも優れているという意識から 世界を見ていた。
優劣というコントラストを通して世界を見つめ、ゲルマン民族優位というものさしで 世界を切り分けようとした。
もし彼らが その狭い見地を抜けて 宇宙から地球を眺めるように もっと広大な意識から世界を眺め渡していたら、歴史はどのように変わっていたでしょうか。
神の言葉は続きます。
“ あなたは、ヒトラーが 「悪事」 をしたという。よろしい。
そのものさしで、あなたは自分自身を定義し、自分をもっと知るだろう。よいことだ。
だが、それを教えてくれたヒトラーを非難するのは筋ちがいだ。
誰かが教えてくれなければならなかった。
冷たさがわからなければ、熱さもわからない。下降がなければ上昇もない。左がなければ右もない。
一方を非難し、一方をほめるのはやめなさい。
それでは、真実を理解できない。 ”
目に見える私たちの世界はコントラストの世界、どんな物事にも相反する二面があります。
そのどちらから見ようと どちらを選ぼうと、必ず反対の視点や選択が存在する。
ヒトラーたちがある偏った視点から悲惨な物語を生み出したのなら、それを非難する側の物語も やはり偏った視点から生まれているわけです。
私たちの意識がコントラスト世界に留まる限り、どちらの側に立とうと 戦いも争いもなくなることはない。
ヒトラー体験の悪夢を終わりにしたいなら、それを非難するのも反対するのも意味ありません。
いくら反対しようと、ヒトラーたちが持ち出した優劣のものさしがそのままになっていることに変わりはない。
そのものさしは、ナチスドイツ帝国の記憶と共に 私たちの中に存在するのです。
アメリカの白人至上主義が再び声高になってきたとか、ヨーロッパでも移民排斥を唱える動きが広まってきたとかいう現象は、そんな危なっかしいものさしが いまだに私たちのあいだに残ったままになっていることの示唆にほかなりません。
アジアでもアフリカでも民族対立の犠牲者は増えるばかり、二つの大戦を遠く隔てたいまも、世界のありようはほとんど変わっていません。
すべてを根本から変えたいなら、分け出したものさしを いったんゼロに戻すこと。
どんな長ったらしい数も複雑怪奇な計算も、0を掛ければ一瞬で0に戻ります。
0とは、分け出されたすべてのものの大元の、無の世界。
この0を 「ないものを数える必要はない」 としたギリシャの数学者のように 意識から外して忘れてしまったことで、私たちの世界はいまのようなありさまになっています。
私たちひとりひとりが 自分の中の五感を超えた “ないものがある” 領域を思い出し、ものさしを選びなおすことで、世界をいくらでもよりよく創り変えるチャンスが生まれます。