毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

すべてが無 (ゼロ) にかえるって、なんてすばらしいことなんでしょう

2018年08月10日 17時15分20秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


そもそも 「博士の愛した数式」 を読むきっかけは、先に借りた 作者の小川洋子さんと心理学者 ・ 河合隼雄さんの対話集 「生きるとは、自分の物語をつくること」 でした。

冒頭から 「博士の~」 をテーマにした話が出てきて、それがとても魅力的なやりとりだったので、ぜひそちらも読んでみたくなったのです。

と同時に 河合隼雄さんの書かれたものももっと読んでみたくなり、「こころと脳の対話」 「無意識の世界」 「生と死の接点」 「カウンセリング入門」 「心理療法対話」 とたて続けに借りているのですが、興味深いのが 「博士の~」 のあの0という数の “ないものがある” という要素があちこちに見受けられるところ。

とりわけ読んでいてワクワクするのが 「心理療法対話」 で、宗教学、人文科学、美術史学、行動生態学など さまざまな分野の第一人者と河合氏との対話集なのですが、カウンセリングであれ 他の分野であれ、五感の及ぶ範疇だけですっきり割り切り解決できることばかりではない、という例が随所に出てくるのです。

理屈では割り切れない、頭だけでは納得いかない、そういう力が思いがけず働いて 予想外の展開となり、なぜかはうまく説明できないけれど つかえていたものが流れ出すようなことが起こったり、その逆で 理屈で説明できない要素を省いたことでうまくいかなくなったり、そんな話が次々出てきて、「博士の~」 で0のエピソードに感動した貴秋には もう楽しくて楽しくて。




“ないものがある” の “ないもの” とは、「存在しないもの」 ということではないのですね。

五感ではどうしても捉えられないけれど それでも何かがあると どこかで感じる、それはマインドや言葉ではどうにも表しようがない、でも確かに “ある” とわかる、だから理屈の上では “ない” としたもののための場所を確保したのが、0という数字。

その0が、カウンセリングでも 数学でも 量子物理学でも 芸術でも 生物学でも 自然科学でも 宗教でも その他あらゆるところで不思議な作用を及ぼす。

どんな長ったらしい数も複雑怪奇な計算も 0をかければ一瞬で0になる、これまでは考えもせず機械的にしていた計算だけれど、よく考えればこれってすごいことだなと思うようになりました。

ああでもないこうでもないと理屈でいくらこねくりまわしても答を得られず悩みぬいたものが、言葉の及ばない領域に触れるだけでたちまち解ける (溶ける) 、すなわち問題が解決するのではなく 問題そのものが消え去る、そんなことを貴秋自身 いくど体験したかわかりません。

起こる事象はすべて中立、そこに問題意識を持ち込むから問題が生まれるのであり、そのこと自体は 本来の自分ではないものを体験したくてこの世界にやってきた私たちにはむしろ歓迎すべきことともいえるでしょう。

そうやって悩んで苦しんで 十分体験し尽くして もういいやとなれば、おおもとの0の世界に返す、それだけのことだったのです。




これまでの私たちは、見えるもの、聞こえるもの、嗅げるもの、味わえるもの、触れるもの、五感で確かめられるものばかりに重きをおいてきました。

理屈に合わないもの、理論上受け入れられないものは、置き去りにし 切り捨ててきた。

灘だったかどこだったか 有名な酒どころで、酒造りに欠かせない名水を分析して そっくり同じに合成したのに、どうしても同じ味にならなかったという話を聞いたことがあります。

どんなに科学が発達して精密な機器を作れるようになっても捉えきれないものが、この世界にはたしかにある。

でも、古代ギリシャの数学者たちが 「ないものを数える必要はない」 として 0を勘定に入れなかったように、そういう頭ではつかみ切れない要素を、私たちは度外視し 無視してきた。

その結果が、今のこの混沌とした世界。

もちろんまだまだ混沌を味わっていたい人は このまま進んでOKですが、もう十分だからそろそろ抜け出したいと望むのなら、いまこそ0の領域を思い出すときですね。

すべてはそこから分け出されたのだから、そして忘れようが無視しようが 私たちの内に 0はつねにあるのだから。