そもそも神のごとく無垢で完璧な赤ん坊だった私たちが、時間が経つほどに 色付けが進み 型にはめられてゆく、というのは、例外もあるかもしれませんが、基本デフォルトなんですね。
この世に生まれ出た時点で、誰もが大なり小なりの不条理を背負い込むのは避けられない、ということ。
これを三次元視点で見れば、ひどい話だ、こんな理不尽は許されない! となるのは 自然なこと。
でも それだけだと 大方の人は、恨みや復讐心がどこまでもついて回り のちのち争いの種になるのを避けられません。
私も例外ではなく、こんな怒りは不毛とわかっていても、地雷を踏まれるたびに カッとなるのはどうしようもなく。
かといって、それをいちいち表に出していては まともな社会生活は送れないので、大部分を抑え込んでしまい、ますますどす黒いものが膨れ上がるという悪循環に悩み続けていたのですが。
ブレイクスルーのカギは、新しい視点にありました。
それが、これまた何度も繰り返し書かせてもらっている、魂の視点。
この世で起こることはすべて 生まれる前の魂があらかじめ仕掛けておいた設定で、もともと完璧な存在である私たちが わざわざ制約を受けてまでこちらの世界に生まれてくるのは、自分ならざるものを通して 本来の自分の素晴らしさを体験するため。
自分をより深く味わいたいがために、いったん真の自分から離れて また戻ってゆく、それが 神々の戯れ ・ リーラ。
私たちは、自分をより深く知るという贅沢な遊びのために、望んでこの世にやってきた、“神であることを忘れた神” 。
こんな話をどこで初めて聞いたのか まったく覚えていませんが、なぜか繰り返しやってくる この手の情報が 抵抗なくすっと入ってきて、度重なるうちに 既定事実として いつの間にか心の内に根を下ろしていたのです。
この視点を通すと、何もかもが まったく違う色合いを帯びてきます。
私たちをさまざまな枠組みの中に押し込めようとする不愉快な相手は、リーラに不可欠の仕掛けを施してくれる協力者で、深い結びつきの魂仲間。
私たちを手こずらせる負の感情は、立ちはだかる壁ではなく、成長するために置かれたハードル。
そして 私たちは、人生の犠牲者ではなく 冒険者。
どんな難問とて、私たちを苦しめるためではなく、乗り越えて ほんとうの自分に近づいてゆく喜びを味わわせるために 現れるのだと。
この視点が確立すると、私たちは 自由に選べる選択肢を 複数持つことになります。
三次元の世界がすべてではなく、その外に違う世界があることを知り、引きの視点に立って 三次元で起こっていることを 客観的に吟味できるようになります。
そこで初めて、被害者の立場に固執するのをやめ、すべての結果を引き受けて 自分の手に力を取り戻すチャンスが生まれます。
自分は 人生に振り回されていると見ることもできるし、人生を創っているのだと見ることもできる。
被害者でい続けることは、すべてを人のせいにできるから ある意味楽ですが、そこに留まっていては 自ら動き出す力は湧いてこず、せっかくこの世に生まれてきた 真の喜びを味わうこともできません。
あとは、勝手知ったる楽な世界に留まるも、思い切って執着を断ち切り 新しい世界に飛び込むも、自分次第。
そしてその先はというと、実はこれ 私もほんのちょっと前に知ったんですが、被害者の立場を捨て 創造者としての自分を認めて初めて、生まれる前から決めてきた “お役目・天命” が 鮮明に見えてくるんですね。
ためらいなくその道に突き進めるほど はっきりと。
天命なんていうと 大上段で大げさに聞こえるかもしれませんが、要は 今回の人生では ぜひともこれをするぞ! と 生まれる前に決めてきた仕事のこと。
それがそうかどうかは、そのお役目を思い浮かべたときの感じでわかります。
ほんとうにこれでいいんだろうか、などという迷いがいっさいない。
それは 自分の望みであると同時に 天の流れに沿うものでもあると理解できる。
それをすることで 魂磨きにいっそう拍車がかかり、さらに 縁ある人のお役にも立てるとわかっている。
思い浮かべるたびに 深い喜びや満足を覚える。
そして、そちらにフォーカスしている限り、暮らしにまつわるこれまでの悩み
雲が消えれば お日さまが現れる、とわかってはいても、真の自分でないものを解放し続けた先に こんなうれしいものが待ち構えていようとは、思いもよりませんでした。
自分の内を見つめ ほんとうの思いを知ることは、喜びで一杯の ほんとうの人生を取り戻すことにつながる、と、今は自信を持って言い切る貴秋です(^^)