毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

お役目

2015年02月16日 00時58分15秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


そもそも神のごとく無垢で完璧な赤ん坊だった私たちが、時間が経つほどに 色付けが進み 型にはめられてゆく、というのは、例外もあるかもしれませんが、基本デフォルトなんですね。

この世に生まれ出た時点で、誰もが大なり小なりの不条理を背負い込むのは避けられない、ということ。

これを三次元視点で見れば、ひどい話だ、こんな理不尽は許されない! となるのは 自然なこと。

でも それだけだと 大方の人は、恨みや復讐心がどこまでもついて回り のちのち争いの種になるのを避けられません。




私も例外ではなく、こんな怒りは不毛とわかっていても、地雷を踏まれるたびに カッとなるのはどうしようもなく。

かといって、それをいちいち表に出していては まともな社会生活は送れないので、大部分を抑え込んでしまい、ますますどす黒いものが膨れ上がるという悪循環に悩み続けていたのですが。




ブレイクスルーのカギは、新しい視点にありました。

それが、これまた何度も繰り返し書かせてもらっている、魂の視点。

この世で起こることはすべて 生まれる前の魂があらかじめ仕掛けておいた設定で、もともと完璧な存在である私たちが わざわざ制約を受けてまでこちらの世界に生まれてくるのは、自分ならざるものを通して 本来の自分の素晴らしさを体験するため。

自分をより深く味わいたいがために、いったん真の自分から離れて また戻ってゆく、それが 神々の戯れ ・ リーラ。

私たちは、自分をより深く知るという贅沢な遊びのために、望んでこの世にやってきた、“神であることを忘れた神” 。




こんな話をどこで初めて聞いたのか まったく覚えていませんが、なぜか繰り返しやってくる この手の情報が 抵抗なくすっと入ってきて、度重なるうちに 既定事実として いつの間にか心の内に根を下ろしていたのです。

この視点を通すと、何もかもが まったく違う色合いを帯びてきます。




私たちをさまざまな枠組みの中に押し込めようとする不愉快な相手は、リーラに不可欠の仕掛けを施してくれる協力者で、深い結びつきの魂仲間。

私たちを手こずらせる負の感情は、立ちはだかる壁ではなく、成長するために置かれたハードル。

そして 私たちは、人生の犠牲者ではなく 冒険者。

どんな難問とて、私たちを苦しめるためではなく、乗り越えて ほんとうの自分に近づいてゆく喜びを味わわせるために 現れるのだと。




この視点が確立すると、私たちは 自由に選べる選択肢を 複数持つことになります。

三次元の世界がすべてではなく、その外に違う世界があることを知り、引きの視点に立って 三次元で起こっていることを 客観的に吟味できるようになります。

そこで初めて、被害者の立場に固執するのをやめ、すべての結果を引き受けて 自分の手に力を取り戻すチャンスが生まれます。

自分は 人生に振り回されていると見ることもできるし、人生を創っているのだと見ることもできる。

被害者でい続けることは、すべてを人のせいにできるから ある意味楽ですが、そこに留まっていては 自ら動き出す力は湧いてこず、せっかくこの世に生まれてきた 真の喜びを味わうこともできません。

あとは、勝手知ったる楽な世界に留まるも、思い切って執着を断ち切り 新しい世界に飛び込むも、自分次第。




そしてその先はというと、実はこれ 私もほんのちょっと前に知ったんですが、被害者の立場を捨て 創造者としての自分を認めて初めて、生まれる前から決めてきた “お役目・天命” が 鮮明に見えてくるんですね。

ためらいなくその道に突き進めるほど はっきりと。

天命なんていうと 大上段で大げさに聞こえるかもしれませんが、要は 今回の人生では ぜひともこれをするぞ! と 生まれる前に決めてきた仕事のこと。

それがそうかどうかは、そのお役目を思い浮かべたときの感じでわかります。

ほんとうにこれでいいんだろうか、などという迷いがいっさいない。

それは 自分の望みであると同時に 天の流れに沿うものでもあると理解できる。

それをすることで 魂磨きにいっそう拍車がかかり、さらに 縁ある人のお役にも立てるとわかっている。

思い浮かべるたびに 深い喜びや満足を覚える。

そして、そちらにフォーカスしている限り、暮らしにまつわるこれまでの悩み    対人関係や 仕事・お金の心配など    に惑わされずにいられる。




雲が消えれば お日さまが現れる、とわかってはいても、真の自分でないものを解放し続けた先に こんなうれしいものが待ち構えていようとは、思いもよりませんでした。

自分の内を見つめ ほんとうの思いを知ることは、喜びで一杯の ほんとうの人生を取り戻すことにつながる、と、今は自信を持って言い切る貴秋です(^^)




















取り急ぎお知らせ

2015年02月15日 10時04分18秒 | その他


ブログ宛に送られてきたメールを 過去に遡って ごっそり消去してしまったようです。

おそらくコメント通知が大半と思われ、そちらは問題ないのですが、もしメッセージが混じっていれば、未読のまま消えてしまった可能性があります。

思い当たる方がおられましたら、お手数ですが 再度ご通知いただくか、コメント欄にてお知らせいただければ幸いです。


お騒がせして申し訳ありません m(__)m     貴秋























不毛

2015年02月15日 08時44分27秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


これまでにも何度も引用させてもらっている ニール・ドナルド・ウォルシュ著 「神との対話」 ですが、文庫版第2巻の 「ヒトラーは天国へ行った」 という話に絡んで、「どんな者でも、自分なりの世界モデルにてらせば、何も間違ったことはしていない」 という一文があります。

これ、ほんとその通りだと思うんですね。

誰のどんな行動も、本人視点では 筋が通っている。

傍目にどんなとんでもないことをやらかした人でも、自分には こうするだけの理由があるという思いを 心のどこかに持っている、ということ。

社会的規範を侵したのはわかっているから、相応のペナルティを科されるのは仕方がないとしても、そんなところまで追い込まれた自分にも 言い分はあるんだ、という氣持ちも その奥に潜んでいるんじゃないかな。




人が成長してゆく道筋において、誰でも 赤ん坊の頃は 幸せで満ち足りて 純真無垢。

生まれながらに “黒い赤ちゃん” なんていないものね。

生後間もないほど、それだけ神に近い存在。

そこへ、まわりの大人たちから さまざまな制約が課せられ、少しずつエネルギーを削がれてゆく。

これって、本人目線で言えば すごく理不尽なことですよね。

何を悪いことしたわけでもないのに、枷をはめられ 自由を奪われて つらい思いをして。

ゆえに 多くの人が、本来自分は プラスもマイナスもないゼロ地点にいたはずなのに、不当にエネルギーを奪われ マイナスになってしまったのだから、貸しがあるんだ、いつでも取り返しにいっていいのだ、という感覚を (無自覚にでも) 持っていて 不思議はありません。

制約の度合いは人によっていろいろだから、ほとんどわだかまりのない人から 恨みの塊みたいになってしまう人まで、その差は大きいけれど、影響は社会全体に及ぶわけですね。

いや、今はマイナス分を取り戻すどころか 「倍返し」 がもてはやされるような時代だから、よりエスカレートしているというべきか。




私の場合、この 「不当感」 はそうとう大きかったし、そこへ抑圧が加わって 怒りなどの感情をストレートに出せず 抑え込んでしまったものだからなおさら 溜め込んだマイナスエネルギーも半端なく、しかも素直に表現できないまま 常に爆発寸前という 二重苦、三重苦。

それだけ、おのれ見ていろ、いつか必ず奪い返して目にもの見せてやる! という一念も強固だったわけで。

でもね、あるときわかっちゃったんです。

奪い返す! って思うのは、そうすれば 自分の不当に奪われたマイナスを取り戻して満足し、再び幸せな自分になれるっていう期待がどこかにあるからだけれど、実は どれほど人から奪っても、欠けたものが埋められることは 決してないんだっていうことが。




だって、私も人から奪ってやる! と決めた時点で、自分もダークな人になっちゃっているんだもの。

その暗いエネルギーは、確実に自分に返ってくる。

奪うという不条理な行為に 同じ行為で返すと決めたところで、終わりの見えない 負のサイクルに入り込んでしまうだけ。

想像してみればわかります。

人を傷つけて、被害者がある人数に達したとたん くるりと心が入れ替わり、晴れ晴れと幸せな氣持ちになって、もう二度とこんなことする必要ないわ♪ なんて思えるものかどうか。

放った負はそのままにしておきながら、自分だけが貸しをプラマイゼロにし、清らかな心を取り戻して 無条件の幸せを得られるはずなんてないのですね。




実際 まったくその通りでした。

どれほど怒ろうとごねようと、たとえ傷つけた張本人に 直接怒りを叩きつけたところで、小さな意地の悪い満足は得られても、ブラックになってしまった氣持ちが 清々しく晴れ渡り、怒りの念が雲散霧消するなんてことは、ただの一度もなかった。

そして、これをどれほど続けても、怒りと奪い合いの循環から解放されるときなんて 決してやってこないんだって 身に沁みてわかったのでした。

今はさらにわかるんだけれど、私が敵意を持ってエネルギーを奪おうとした相手って、実はみんな自分なんだよね。

自分のダークな部分の象徴。

つまりは、あきらめきれない自分のひとり相撲だったんですね。

マイナスを取り戻そうという試みに 終わりがなかったわけです。

執着して すごいエネルギーを注ぎ込んだというのに、なんたる不毛。




そんなこと言ったって、じゃあ現にここにあるこの怒りはとうすればいいのよ? っていうことになるかと思いますが、ブレイクスルーの機会は ちゃ~んとありました。




次に続きます(^^)













抱き参らせる

2015年02月14日 20時52分10秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


昨今、二極の対立が いっそう際立って、白いものはますます白く、黒いものはますます黒くなってきていると言われていますが、二元対立を超えていくときってそういうものなんじゃないかな、という氣がします。

私自身、思い込みが減ったようで 新たに見えてくるものもあって、これからはさぞやのんびり安らかな日々に・・・・なんて期待も秘かにあったけれど、どうしてどうして。

むしろ、「あれも残ってるんですけれど」 「これも残ってるんですけれど」 と、まだ氣づいていなかったわだかまりやら思い残しやらがぞくぞく上がってきて、前以上に氣分乱高下の毎日 ( ̄∇ ̄;)

今のコイツならやれる、ついに解放のときだ~! とばかりに 溜まりに溜まっていたものが押し寄せてきているらしい

これまで以上に落差の大きい内と外の世界を めまぐるしく 行ったり来たり

まあ、なにがどうなろうと することはただひとつ、感じ続けることだけ、その中から新しい境地が必ず見えてくる、と信じられればこそ、どうにか腹も据わろうというものですが。




*           *             *             *





唐突ですが、日月神示っていう 日本の方が書かれた予言の書みたいなのがあるらしいですね。。。。よくは知らないんですが。

あちこちのサイトで ときおりお見かけするんですが、その中でひとつ 印象に残る言葉に 「抱き参らせる」 っていうのがあって。

うろ覚えだったので 今ちょっと調べてみたら、


“大神は大歓喜であるから悪をも抱き参らせてゐるのであるぞ。抱き参らす人の心に、マコトの不動の天国くるぞ。抱き参らせば悪は悪ならずと申してあろうが。”


というくだりがあるそう。

これを貴秋的偏見で勝手に解釈することをお許しいただけば、まさに二元対立を超えていくっていうことじゃないのかな。




「悪」 という言葉が適切かどうかはともかく、自分の中にある見たくないものから目をそらしたり、無理やり正当化したりしていたとき、心が休まることはありませんでした。

で、その正体をずっとたどっていったら、それはちゃんと理由があって生まれたもので、それがわかってしまえば もう醜いなんて思えなくて。

さらに、「悪」 だの 「醜い」 だのという言葉さえ外して、ただ感覚だけを味わってみた・・・・だって 体験するために生まれてきたものなのだから。

そうしたら、まだまだ現在進行中ではありますが、どんどん荷を降ろして楽になるほうへと変わってきている。

悪しきものとレッテル貼って 自分の外へと分け出して切り離してしまった (あの 「モノノ怪」 の源慧さんのように) ものを、再びレッテルを外して 自分の中に取り戻してひとつになる (このあたり 前に書いた 「魔法騎士レイアース」 の光とノヴァのエピソードにも重なりますね)。

これ、「抱き参らせる」 って言えるんじゃないかな。




私の限られた体験からいうと、自分の中の影を正視できないっていうのも大きなブロックですが、もうひとつ、対立を手放したがらない心っていうのもあって。

私はひどい目に遭わされたんだ、だから 勝って仕返しするまではやめない、って強硬に言い張る部分が 自分の中にあるんですね。

これがなにより手ごわい、っていうか、扱いに氣を遣うところかもしれません。




少し前に、アニメ 「モノノ怪」 だとかこの世ならざるものの話だとかを ちょっと書いたことがありましたが、こういう仕返しの欲求って 時として あちらの世まで持ち越しになるほど すさまじいものがあります。

自分のそういうところをよぉく観察してみたら、どうやら 自分はそもそもゼロのところに立っていて、そこからプラスになる分にはかまわない、いや むしろ大歓迎だけれど、マイナスになるのはがまんならないっていうバランス感覚があるような。

もし誰かに奪われてマイナスになったら 何が何でも取り返してゼロに (あわよくばプラスに?) 戻さないと氣がすまない、って強固に思い込んでいるらしい。




これって かなり厄介な思い込みなのですね。




続きは 次に。



















唐辛子入りココア♪

2015年02月13日 07時30分28秒 | 日々の楽しみ


おはようございます (⌒∇⌒)ノ

けさも 寒いけれど清々しい朝ですよ~

まだ暗い6時前に表に出てみたら、3分の1ぐらい欠けた月が 白く輝いていました。

ああきょうもいいお天氣だなって うれしくって♪




先日たまたま目にした 唐辛子入りココアのレシピ。

見たとたんに思い出したのが、ジュリエット・ピノシュ主演の映画 「ショコラ」。

偏屈な老女家主のアルマンドに チョコレート店の店主・ヴィアンヌがすすめるホットチョコレート。


 アルマンド : シナモンが古いね

 ヴィアンヌ : シナモンじゃないわ、チリペッパーよ

 アルマンド : チリペッパー!?ホットチョコレートに?


で、おそるおそる飲んでみたら。。。。


このシーンを見て以来、一度試したいと思いながら すっかり忘れていたんだけど。

けさみたいに寒~い朝にぴったりかも☆




というわけで、さっそく作ってみました

無糖のピュアココアと砂糖、隠し味の塩をカップに入れておいて、唐辛子入りで沸かしたお湯を注いで混ぜるだけ。

唐辛子は、一夜漬け用に常備している輪切り状のものから、小さいのを二かけ。




う~ん、いつものココアがぴりっとしてるだけだけれど、なかなかいけます♪

さらにスパイシーに、シナモンやナツメグ、カルダモンなんか混ぜてみてもいいかも♪

とりわけ、寒いこの季節に ぴりっと刺激的なココアは、からだが温まってなにより。

私 わさび系の鼻につーんとくるのはダメなんだけど、唐辛子系の舌にぴりっとくるのは大好きだから、次はもう少し唐辛子多めに入れてみようかな

改良の余地ありだけれど、昨年の柚子茶ココアに続いて、これもまたヒットの予感がします(^^)v




そういえば、この 「ショコラ」 も、対立の解決に 力でねじ伏せることを選ばなかった物語なんだよね。

おとぎ話仕立てのほっこりするストーリー、最初はレンタルで見て、すっかり魅了されて、その後DVDを買ったんだった。

そういえば、しばらく見てないなぁ。。。。

久しぶりに見てみようっと♪

















あたたかな光の中で

2015年02月12日 12時06分39秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


きのうもきょうも いいお天氣~ \(^o^)/

昼間の部屋は相変わらず温室だし、外に出ても 風は冷たいけれど お日さまの光があったかいし、日照時間はどんどん長くなるし、日ごとに春が近づいているんだなぁって思わせてくれます

ロウバイも見られたし、そろそろウグイスの声も聞こえるかもね♪

今年の春は、これまでにない素敵な春になる予感




*             *             *             *





このところ、ブログ書いてて 「これ前にも書いた?」 って思うことが多くて。

デジャヴ? → いや、記憶力が薄れただけです、たぶん (^◇^;)

いちいち過去記事を読み返すのがおっくうで (おのれの文章の長さが仇になっている) リンクも貼っておりませんが、ただ ほんとうの自分に目覚めていくって そういうことなんだろうなぁ、という氣もしています。

以前は、氣づきって 新しい情報が増えていくことのように思っていましたが、最近は逆に 余分なものが落ちて より鮮明に研ぎ澄まされていくのが氣づきなんだなぁ、と。

同じことの繰り返しでも、消化吸収が進んで より腑に落ちて、わかりやすく 自分の言葉になっている、というような。




思い込みや迷いが次々と剥がれ落ちてゆく中で、逆にどんどん存在感を増しているのが、「感じること」。

ずっと からだの感覚を感じることの手ごたえについてお話していますが、それは さえぎるものがあまりにも多くて、本来の自分を感じることができなかった私ならではのこと。

心友の月うさぎちゃんは、ヨガを通じて 意識の無限の広がりを体験したと教えてくれたけど、そういうふとしたきっかけで すっと本質とつながれるものなら そんな素直な目覚めが何よりだと思います。

でも私は、瞑想しようとしたって 心がざわついてざわついて、そういうのは右から左へ流しなさいって聞いていたけど、流すほどにどんどん増えて、しまいには 誰か止めてー ってほど収拾がつかなくなって 強制終了 (;T▽T)

何度やってもこんなていたらく、おかげで長いこと 瞑想っていう言葉を聞くのもうんざりだったぐらい

座禅組んで目を閉じるばかりが瞑想じゃなく、わくわくするような大好きなことをしているときも 同じような状態なんだよって聞いたけれど、これも私の場合 料理とか手芸とか畑仕事とか 好きなことをしているときほど、過去のいやな思い出や そこから発展する妄想が とめどもなくわさわさ上がってきて。

何をどう試みても、“無心” という状態に入れなかった。

目を背けて溜め込んだままフタしてきたものが、あまりにも多過ぎたのでしょうね

おかげで、からだの感覚にフォーカスすることで それらに捕われずに済むようになってから どれほど楽になれたことか。

だからこれは、私と同じように どっさり溜め込みすぎた人に向く手立てなのだと思います。




雑念がぐっと減って 心が軽くなり ありがたいことですが、では次はどうするの? っていったら、やはり 感じ続ける、これしかないような氣がします。

今までは、目前に立ちふさがる迷いやわだかまりに特化する形だったけれど、さえぎるものがあろうがなかろうが、本来の自分っていうのは 五感を超えたところで 感じること = 生きること なんだろうなぁ、と。

それがわからず、長い間 頭で考えた世界を生きているつもりになって、さんざん翻弄されたけれど、そこを通り抜けたと思しき今、つくづく思います。

本質の前で 言葉は無力

言葉が力を持ってなにかを成すこともあるけれど、それは 言葉に乗ったエネルギー (言霊?) が起こしているのであって、言葉そのものは パワーの入れ物でしかありません。

本質と結びつかない 雑音としての言葉は、人の心を惑わせ、袋小路に追いやるだけ。

・・・・・って、じゃあ こうして言葉数多く書いている私はなんなんだ? ってことなんだけど

いつの日か 人はまた 言葉を使わずに 思いをひとつにできるところに戻っていくのかもしれません。

それまでは、せめて 感じるところから 力のこもった言葉を使いたいものだと思います(^^)




お日さまのまぶしい光を受けて、ぽかぽかあったかくて、遠くから鳥の声が聞こえて、なにやらうっとりして。。。。。

ほんとうの自分をおおい隠していた曇りが薄れて、その向こうに、天が与えてくれる こんなうららかなひとときを 心ゆくまで満喫する自分がいます。

内に触れてくるままに ただ感じて、異質な感覚が現れれば それもまた感じて、どこまでも感じ続けて。。。。。

そこから ふと思い立って動くとき、それはきっと いのちに素直でまっすぐで、幸せに向かうものであるはず。

うらうらと春めく今、どこまでもそんなふうに生きてゆきたいと思いました。






















檻の内外

2015年02月10日 22時15分14秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


きのうのブログで、 新しい視点が生まれる = ほんとうの自分を取り戻す、みたいなことを書きましたが、このお話をもう少し。

かなり前から 「渦に呑まれる」 「渦の外に出る」 という表現で、主観と客観の切り替えについて たびたび書いてきましたが、この切り替えが 例の 「からだの感覚に集中」 に慣れるに従い、ずっとスムーズにできるようになってきたんですね。

そして、渦の内と外、二つの世界が 同等の重みを持つようになった。。。。これが、大きく歩みを進めさせてくれました。




こちらも何度も書かせてもらっていますが、昔のつらかった記憶を思い起こさせるなんらかの出来事をきっかけに、まずスイッチが入るのは からだの感覚。

そして、その感覚に刺激されるやいなや、怖い・悲しい・悔しい などの 感情が 瞬時に立ち上がるわけです。

この感覚も感情も、実は 過去の記憶でしかないっていうところがポイント。

原点となった出来事自体は ずっと前のこと、その記憶が 上記の順で刺激されることで、リアルタイムに出現・展開する。

でも、このからくりがピンときていないと、それを たった今受けた痛みだと思い込んでしまうんですね。

まあ、それだけ生々しく感じ取れるのだから 無理もないのですが、ほんものかどうかは そこに意識を集中してみればわかります。

ほんものなら残り続けるし、幻ならいずれ消える。




ここで、感情ではなく 感覚のほうに集中する、という氣づきをもらえたのは、私にとって 計り知れないほど大きな贈り物でした。

感覚のスイッチに氣づかず、感情のほうばかり追いかけていた頃には、今のこの 確実かつスピーディな負の解消は望めなかった。

なぜなら、感情は 言葉で表現されるので、追いかけるほどに 新たな言葉が次々と付け加えられ、どんどん発展して、過去だと認識するどころか、「今」 の物語 ・ 「今」 の痛みとして貼りついてしまうのです。

そして、その痛みへの反発は それと知らずにスイッチを押してしまった人に向けられ、わざわざ 「今」 に 新たな火種を生むことになる。




感覚に集中するようになってからは、それを 痛みだの圧迫感だのと名づけることはできても、感情と連動させない限り それ以上言葉が先走って 話が膨らむことはありません。

慣れると、名づけることさえやめて、言葉のない 感じる世界に意識を留め置けるようになってきます。

それを繰り返して ふと氣がついたら、心が軽く明るく 風通しよく感じられる時間が 増えていました。




こうなって初めて、これまでの自分は もともと不幸なのでも否定的なのでもなく、ただ一時的に “閉じ込められていた” だけだったんだ、と思えるようになりました。

以前は、負の思いに捕われている時間がほとんどだったため、それが本来の自分だと思い込んでいたけれど、そこから抜け出す時間がぐんと増えた結果、そんなふうに見えてきたのです。

「ネガしかない」 のではなく、その外にはまったく別の世界もあるのだ、ただ はずみで入ってしまって 出方がわからないだけなんだ、と。




自由選択っていうのは、ただ 複数の選択肢があるというだけでなく、どちらを選ぶチャンスも 同じようにに与えられて初めて “自由” なんですね。

出方がわからないでいる間は 苦しさばかり感じていたけれど、その苦しさをこそ味わえばいいんだ! とわかってからは、不安がなくなり、自分は外にも出られるんだ、もう被害者じゃないんだ、自分の意思で自分の道を決められるんだ、と思えるようになりました。

スイッチが入ること自体は相変わらずですが、なすべきこととその結果がわかっていれば それ以上恐れることもない。




心の檻の内と外、二つの視点が同等に感じられるようになったことは、被害者のドラマから抜け出す力をもたらし、安心感と静かな自信を与えてくれました。

いずれ、内も外もない、檻自体が幻だったんだと ごく自然に思えるようになるでしょう。

見つめることで 幻の中から ほんとうの自分を掬い出す (救い出す)。。。。個人も世界も、そんな段階にさしかかっているのかもしれません。






















新しい時代 新しい見方

2015年02月09日 10時55分20秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


そういえば、先日のブログ記事の中で、「ハリーポッター」 のほかに 「One Piece」 にもちょこっと言及していて、ハリポタについては あとから詳しく書いたのに、「One Piece」 のほうは、戦闘場面などがそぐわない氣がするとだけで そのまんまになってたなぁ (^^ゞ




たしかに、個別の戦闘シーンは やはりバリバリ二元対立構図になってるし、激しい戦いの描写など 正直言って 苦手です

ただ、そんな赤勝て白勝ての単純な話では終わらない、と思わせてくれるのが、この作品の何よりの魅力。




詳しく語りだしたらきりがない(笑)ので、ざっと挙げれば、


・ 対立する勢力が、お話全体で言えば 海賊・海軍・革命軍、偉大なる航路のパワーバランスで言えば 海軍・四皇・七武海、と 「二」 ではなく 「三」 な点

・ 加えて、横暴な世界貴族・天竜人や 空島編に出てきた神という存在、身内の対立から袂を分かった 海軍大将青キジやCP9、世界政府に加盟していない国、など、さまざまなファクターが絡んで、より複雑な図式になっているところ (海賊同士の対立もあるし、海軍も一枚岩とは限らない)

・ 物語のカギを握ると思しき “Dの一族” が、海賊・海軍・革命軍のどのグループ内にも散見されること

・ 魚人島の種族差別や オハラの悲劇、「珀鉛」 の被害隠しのため迫害されたフレバンスの人々のエピソードなど、現実世界とリンクするテーマが挿入されていること


などなど、とてもじゃないが すっきり紅白二色などに分けようがないほどの入り乱れ具合。

ここまで多彩な要素で織り成された物語が、よもや “悪を倒してハッピーエンド” 的単純な終わり方をするとは思えない。


まだまだお話の途中、回収されていない伏線や謎もいっぱいあるようで、現実世界でも出口を見出せずにいるテーマまで織り込んだこの物語が この先どんな展開を見せてくれるのか、そして どんな結末に導かれるのか、楽しみでならない貴秋なのです




*             *             *             *





いちおうお断りしておけば、別に シンプルな二元対立のストーリーを目の敵にしているわけではありません。

そういう物語として楽しむのは おおいにありです♪

ただ、様式美には、それが映える話の長さとか筋の運び・テンポなどがあると思うので、ハリポタの場合、7年がかりでの物語の膨らませ具合と その帰結に どこかアンバランスなものを感じてしまい、がっかりしたというだけです。




ここしばらくの世の中の動きを見れば、以前は通用した価値観や身の処し方が どんどん通用しなくなってきています。

それにつれて、みなに受け入れられる物語や情報も 変わってきているんですね。

大変なことが多い今の時代だけれど、じゃあ昔がよかったのかといえば そうとも言い切れない。

いつでも不安はあったけれど、以前はそれをごまかせるだけの余裕があったのが、今はその余裕もなくなってきているというだけじゃないのかな。

ごまかしが効かなくなって 真実が表に出てくるのは むしろいいことだと 貴秋は思っています

これまでの物差しが使えなくなってきているのも、もっと新しくていいものに取り替えるチャンスなんじゃないかな☆




新しい時代を生きるための手がかりは、そこここに散りばめられています。

今を恐れ過ぎないで 少しでもいい氣分になれるほうに ちょっと意識を傾けるだけで、いろいろと新しいものに出会えます(^^)

ここしばらく アニメの話が続いたけれど、そういうものの中にも 見て取れることはたくさんあるわけで♪

今いる世界を変えたいなら、以前と違うものの見方をするのが 一番の早道。

といって、新しい視点を あちこち探し回る必要はないんです。

答えはいつでも 自分の中にあるのだから

その答えといつでもアクセスできるよう、さえぎっているものをそっと脇に置くだけで 十分

ほんとうの自分という なによりの視点を 取り戻せます(*^ー^*)
























限りなく

2015年02月08日 09時20分06秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


前の記事。。。。投稿して しばらく経ってから、ふと氣がつきました。




前にも 同じようなこと書かなかったっけ?




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ (^◇^;)




最近 過去記事読み返すことがほとんどないので、定かではないのですが、父の手料理やら 梅シロップやらの話、な~んか書いたことあるような。。。。。


もし重複してて 「またかよ」 と思われた方がおられたら ごめんなさい m(__)m




ただ、今回一番言いたかったことは、おしまいの一文に集約されていまして。

年末に実家にいたとき、こんなことがあったのです。




あれはたしか12月28日、NHKだったと思うのですが、 「年内残り3日で 1年分の老化をゼロに戻して若返る」 だったかな? そんなムチャ振りのようなテーマに取り組む番組をやっていて。

台所で立ち働きながら 見るともなく見ていたのですが、最初のうちは冗談半分みたいな回答ばかりだったのが、終わり近くなって ん? と耳をそばだてるような内容に変わり、たしか一番おしまいが、実際に数人の男性被験者の協力の下行われた、ある実験。

実は私、ディーパック・チョプラ著 「エイジレス革命」 という本で、この実験の元である ハーバード大学の心理学実験の話を読んでいたので、すぐぴんときたんですが。

テレビのほうは 細かいところを忘れてしまったので、元実験のほうで説明すると、1975年に行われたこの実験、75歳以上の健康な男性数名に 田舎のリゾート地で1週間共同生活をおくってもらうというものですが、条件がひとつあって、20年前、つまり1955年以降の新聞や雑誌・本・家族の写真などを いっさい持ち込まないよう指示されるのです。

現地に着くと、実験の舞台となる部屋に置かれている新聞・雑誌、流れる音楽など すべて1955年当時のもの。

さらに、全員が20年前の姿の写真を身につけ、20年前の出来事や家族の様子などを 現在形で語り合い、自身も20歳若い 現役バリバリのつもりで仕事の話などをすることになったのです。

要するに、20年前の自己イメージでもって 1週間を過ごす、ということ。

今回のテレビでも、そっくり同じようにして 現代日本バージョンで 実験が進められました。

結果は、ハーバードのときも今回も共に、実験後のさまざまなテストによって、肉体的にも精神的にも 多くの面でほぼ全員が 実験前より若返ったことが確認されたのです。




これを見て すぐに思ったのが 父のこと。

身近で見慣れているゆえか あまり意識したことはなかったのですが、父は 歳よりはるかに若く見えるらしく、実年齢を聞いて驚く人たちを 何度も見てきました。

健康状態もきわめて良好、ちょくちょく受けている検診などでも 悪いところはまったくといっていいほど見当たらず。

仕事も現役バリバリ、むしろ 母に氣を使うことがなくなった分 以前より精力的に打ち込んでいる様子。

これって、やはりこの 「自己イメージ」 と関係があるのでは? という氣がしたのです。




ハーバードと今回の番組、どちらの実験も 被験者はすでに現役を退かれた方々のようで、それが20年前の現役時代の意識に戻るとどうなるか、というのが この実験の肝。

「エイジレス革命」 によると、ハーバードの実験の前提にあったのは、「自分を若いとみるか、年寄りとみるか、自己イメージが老化のプロセスに直接的な影響を与えるのではないかという仮説」 。

結果から見るに この仮説、どうやら正解らしい。

なら、ハナから自分が老いたと思ってもいない人の場合は どうなるのか?




母が旅立ったあと、父とのコミュニケーションが それまでになく濃くなって 思うのは、「この人の目線は 常に前を向いている」 っていうこと。

これからは こんな仕事をやっていくつもりだ、事務所をこういうふうにしたい、次はこの料理に挑戦しようか、部屋をこんなふうに改装したい、趣味のマンドリンをもっと練習したいし アマチュア合唱にもまた参加したい、と、常に夢と希望に溢れた話ばかり。

しかも、ただの夢に終わらせず、少しずつながらも 着実に実現させている。

自分を年寄りと思うどころか、そもそも 「老い」 という概念自体を持ち合わせていないとしか見えません。

自分を老いたと思う氣持ちは 過去との比較から生まれるものですが、この人の意識は 常に 今してること・今したいことにフォーカスされている。

思い出話をまったくしないわけではありませんが、そこから 「昔はよかった」 的な方向にいくことは まずなし。

その結果が、若返るより先に そもそも衰えが進まないという形で現れるのかと。

老いを考えない意識は、どこまでも意氣盛んな精神と 健やかな肉体を生み出し続ける、そんな氣がします。




これほど身近に 生きた見本があると、改めて 思いが現実を創ると知ることの重要さが心に沁みると同時に、いつ何時からであろうと、よくなるチャンスは限りなくあるのだと おおいに勇氣づけられます。

思い方ひとつで、人生は がらりと変わる。

そして、思いは いくらでも変えることができるのです。



















開花♪

2015年02月07日 12時34分51秒 | ふと思うこと


立春を過ぎたとはいえ、まだまだ寒さは続くのですが。。。。

でも こちら、けっこう暖かいのですよ(*^^*)

ストーブが必要なのは、朝起き抜けと 寝る直前ぐらい、昼間なんて 日当たりいい温室部屋のおかげで、時間によっては こたつもいらないぐらい♪

日もずいぶん長くなってきたし、すでに春の予感に胸ときめかせたりして




こんなこと書いてたら、実家の父から電話がかかってきました。

毎年牡蠣を送ってくださるお友達から 今年もいただいたので、牡蠣フライを作ろうと思うが、レンジの揚げ物機能がうまく働かないとのこと。

私は 揚げ物機能自体知らずに、実家では 普通に揚げ物用じゃないほうのコンロで かき揚げもコロッケも作っていたので、たぶんそれでいけるよと伝えましたが☆

とにかく ひとりではいただききれないほどの量なので、いそいでフライにして、ご近所におすそ分けしたり、私にも送ってくれたり。

去年は ちょうど白浜の寮で受け取ったのだけど、お手製のタルタルソースまでついて、感激だったなぁ♪

明日の晩は、どうやら牡蠣フライで決まり! のようです、うれし~ \(^o^)/




母が すっかり氣力も調理意欲もなくして たびたび助っ人に行ってたころは、もう親の手作りご飯に甘えるなんて日は来ないんだなぁ。。。。と ちょっと寂しいような 名残惜しいような氣持ちだったのですが、まさか 父でそれが復活するとは 思いもよりませんでした。

実家に行くと、着いてすぐの晩ご飯は 父の手料理。

氣に入ったメニューは、飽きるまで同じものをえんえん繰り返し作り続ける人で (実は 私も同じなんですが) 、ゆえに レパートリーが増える速度は遅いものの、確実に一品ずつものにしていって、今では得意料理が7~8種はあるはず。

これがまた、どれもこれも美味しいのですよ♪




見ていて面白いのは、私や母などは どちらかというと 感覚・ひらめき派 (適当ともいう) だったのに対し、父は 理論派というか 男性脳優位というか、料理本も 機械のマニュアルや 法律文書と似たような扱いで、とにかく書いてあるとおりきっちりやれば それなりのものが出来る、という姿勢。

調味料なんかも 薬剤の調合のごとく 小さじ2分の1だの4分の1だのまで きっちり計るし、材料も つけ合せや薬味に至るまで まったくのレシピどおり。

この融通利かない堅実な方式が 初心者たる父には合っていたのでしょう、仕事を忙しくこなしながら 調理意欲も衰えるどころか ますます盛んになり、事務所には毎日手作り弁当持参、好物のあんこも 欠かさず煮て常備、昨夏など 訪ねていったら 台所に手製の梅シロップの瓶がどん!と置かれていて、こちらは完全ノックアウト。

「男子厨房に入らず」 というほと頑固ではないけれど、よほどの非常事態でもない限り まあ台所に立つことはないだろう、と信じて疑わなかった父が、しかも80過ぎて ほぼ一からのスタートで、しかも やむを得ず渋々・・・ではなく おおいに楽しんでいる! Σ(゜д゜ノ;)ノ




世の中なにが起こるかわからないものですね (おい)

父の手料理に舌鼓を打ったり、父と 料理技だの 調理道具だのについて あれやこれやと楽しく語り合う日が来ようとは。。。。

ましてや、父からご飯の差し入れが送られて来る日があろうとは。。。。




あれ?

最初はこんな話じゃなく、なにかもっと違うことを書くつもりだったんだけど。。。。。

牡蠣フライのお知らせで、すっかり飛んでしまいました (^◇^;)

ま、いっか~♪




半世紀 身近で眺め続けてきた人の、本人すら氣づいていなかった 新たな一面が開花するさまを眺めるのは、なかなか心躍るものです

母を見送った喪失感が薄れるにつれ、元気を取り戻し、新たな意欲が湧き、ついには 仕事に家事に趣味に 大ブレイクした父。

人間、自分で限界を設けない限り そもそも限界などないのだ、という生きた見本が こんなにも近くにいてくれたこと、そして そんな事実に氣づく機会があったこと、心から感謝です