毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

言葉のもつ力

2018年08月15日 08時35分33秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


「自分が創った物語を生きている」 という見方をすると、いろいろと見えてくるものがあります。




この夏の暑さについて テレビなどで 「生命に危険を及ぼす」 などとやたら声高に叫ばれるのを見ていて、あらためて言葉の持つ力について考えさせられました。

たしかに39℃だ40℃だということになれば、小さい子やお年を召した方、体調を崩されている方、外で作業をされる方など 十分な備えを怠ると危ないという注意喚起は必要でしょう。

実際病院に搬送されたり亡くなったりということも いつもより多いようだし。

一方で、流れる映像には 汗をかきかき観光を楽しむ人や 帽子もかぶらず町を闊歩する人も映っているし、高校野球を見ても もちろん万全の暑さ対策で臨んでのことでしょうが、強烈な日ざしのもと 選手も応援団も元氣いっぱい。

例年以上の暑さについても、その解釈もそこから生まれる物語も人それぞれ、ということですね。

でも マスメディアは 「危険、命にかかわる」 一辺倒、この言葉を梅雨明け以来 何十回何百回聞いてきたことか。

このことに意識を向けておくほうがいいのではないでしょうか。




記録破りの高温は 特定の地域でしか観測されていないし、例年35、6℃のものが突然50℃になれば たしかに即命の危険に結びつくでしょうが、3~4℃の差なら 一番暑い時間帯は家で静かに過ごすなどの工夫で乗り切れないものではありません。

実際50℃近い砂漠の地で当たり前に暮らしている民だっているのだし、人間のからだはもう少しフレキシブルに創られているはずです。

大事なのは、「対応できる 大丈夫」 から 「冷房の効いた室内で静かにしていないと危険」 までのどこに自分がいるかに絶えず氣づいて、状況に応じた手立てを怠らないことではないかしら。

からだの状態は、人それぞれ そのときどきで違うもの。

いまの自分がどんなふうか いつもからだの声に耳を傾けて、つねにからだ最優先の選択をしていれば、そうそう簡単に壊れてしまうことはないでしょう。

むしろ 「危険、生命が危ない」 という言葉のイメージに引っ張られて 氣持ちがダウンすれば、それがからだに響くこともあります。

「異常な暑さなんだ」 という不安が、同じ温度をいつもより暑く感じさせもすれば、「氣をつけなくちゃ」 という氣持ちが 必要以上の不安をかき立てもする。

注意は注意として受け止めつつ、人の言葉より自分の感覚を大切にするほうが、きめ細やかな対応ができる氣がします。




もうひとつ、真昼の高温時間帯でも外で仕事をせざるを得ない人や お金がなくて冷房を十分使えない人がいることは、マスメディアはほとんど口にしないけれど どうなんでしょう。

危険から遠ざかりたいのにそれができないという状況は、大きなストレスとなって からだにもいっそうのダメージを与えます。

危険一辺倒の注意喚起は、「したいのにできない」 という物語にさらなる苦しさを与えることにもなるのではないでしょうか。

国を挙げて 「十分な注意を」 という言葉を使うのなら、発した言葉に対して責任をもつことも必要なのでは。




言葉の持つ力は、私たちが思う以上に強いものです。

言葉で紡ぎ出される物語を生きている私たちは、言葉の影響を受けやすいことを知っておいたほうがいいでしょう。

まずは、自分の物語は自分の言葉で創るという意思をもつこと。

外からの言葉は 正確に聞き取り しっかり吟味した上で、取り入れるか入れないか、取り入れるならどのように取り入れるかを意識的に決めることだと思います。




夏生まれの貴秋は、夏が好きです。

とりたてて暑さに強いわけではないけれど、クーラーなんてなかったころでもちゃんと元氣に過ごしてきたことを思えば、冷房や冷蔵庫を活用して 例年以上の暑さとも折り合いをつけられるいまは 天国です (^^)

高温だって悪いことばかりじゃない、昼近くに干した洗濯物もたちまち乾くし、毛布やカーテンなど厚手のものを洗うにはうってつけ、32、3℃ぐらいの時間帯にからだを動かして家事にいそしめば しっかり汗をかいてデトックスにもなるし、そのあとのシャワーや冷たい麦茶のなんてうれしいこと♪

暑い季節ならではのレシピ探しにも熱が入るし、どうにもこうにもがまんできなくなってクーラーを点ければ、文明の利器のありがたさにひれふしたくなります。

「この暑さは凶器」 と思うか、「この暑さがからだの潜在能力を引き出し高めてくれる」 と思うかで、からだの様子も大きく変わります。




大変な状況を 愚痴と文句の物語にするも 感謝の物語にするも 私たちの氣持ちひとつ、どうせなら言葉の力をフルに活かして いい氣分になれる物語を増やしたいですね。





















ゼロに戻すことの大切さ

2018年08月14日 11時22分50秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


私たちはみな、自分の人生の物語の創り手であり演じ手です。

そしてその物語は、はたからどう見えようとも 本人の中では筋が通っているものなんですね。




以前にも書いた ニール ・ ドナルド ・ ウォルシュ著 「神との対話」 の ヒトラーについての神の言葉に、こんな一節があります。


      “ 彼 (ヒトラー) は 「悪事」 をしているとは思っていなかった。

        彼は同胞を助けていると思っていたんだよ。

       (中略) どんな者でも、自分なりの世界モデルにてらせば、何も間違ったことはしていない。

       (中略) ヒトラーは同胞のために善行を行なっていると考えていた。

        それに、彼の同胞もそう考えていたのだ!

        それこそが、狂氣なのだよ!

        国の大半が、彼に同調したのだ! ”


終戦記念日を目前に控えて テレビでも新聞でも戦争関連の話題が目につきますが、改めてこの神の言葉と考え合わせると、あのナチスドイツの一連の行為をはじめ 世界中で起こった酷く忌まわしい出来事はすべて、それを是とする人々の物語から生じたものだと納得がいきます。

ヒトラーと彼の支持者たちは、自分たちが他の民族よりも優れているという意識から 世界を見ていた。

優劣というコントラストを通して世界を見つめ、ゲルマン民族優位というものさしで 世界を切り分けようとした。

もし彼らが その狭い見地を抜けて 宇宙から地球を眺めるように もっと広大な意識から世界を眺め渡していたら、歴史はどのように変わっていたでしょうか。




神の言葉は続きます。


      “ あなたは、ヒトラーが 「悪事」 をしたという。よろしい。

        そのものさしで、あなたは自分自身を定義し、自分をもっと知るだろう。よいことだ。

        だが、それを教えてくれたヒトラーを非難するのは筋ちがいだ。

        誰かが教えてくれなければならなかった。

        冷たさがわからなければ、熱さもわからない。下降がなければ上昇もない。左がなければ右もない。

        一方を非難し、一方をほめるのはやめなさい。

        それでは、真実を理解できない。 ”


目に見える私たちの世界はコントラストの世界、どんな物事にも相反する二面があります。

そのどちらから見ようと どちらを選ぼうと、必ず反対の視点や選択が存在する。

ヒトラーたちがある偏った視点から悲惨な物語を生み出したのなら、それを非難する側の物語も やはり偏った視点から生まれているわけです。

私たちの意識がコントラスト世界に留まる限り、どちらの側に立とうと 戦いも争いもなくなることはない。




ヒトラー体験の悪夢を終わりにしたいなら、それを非難するのも反対するのも意味ありません。

いくら反対しようと、ヒトラーたちが持ち出した優劣のものさしがそのままになっていることに変わりはない。

そのものさしは、ナチスドイツ帝国の記憶と共に 私たちの中に存在するのです。

アメリカの白人至上主義が再び声高になってきたとか、ヨーロッパでも移民排斥を唱える動きが広まってきたとかいう現象は、そんな危なっかしいものさしが いまだに私たちのあいだに残ったままになっていることの示唆にほかなりません。

アジアでもアフリカでも民族対立の犠牲者は増えるばかり、二つの大戦を遠く隔てたいまも、世界のありようはほとんど変わっていません。




すべてを根本から変えたいなら、分け出したものさしを いったんゼロに戻すこと。

どんな長ったらしい数も複雑怪奇な計算も、0を掛ければ一瞬で0に戻ります。

0とは、分け出されたすべてのものの大元の、無の世界。

この0を 「ないものを数える必要はない」 としたギリシャの数学者のように 意識から外して忘れてしまったことで、私たちの世界はいまのようなありさまになっています。

私たちひとりひとりが 自分の中の五感を超えた “ないものがある” 領域を思い出し、ものさしを選びなおすことで、世界をいくらでもよりよく創り変えるチャンスが生まれます。



















       


いつだって誰だって 自分の物語は自分で書き換えられる

2018年08月13日 11時03分52秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


私たちは、言葉で分け出した物語の世界を生きています。

誰かにいやなことを言われて氣分が悪くなったら、それは 「いやな思いをしている自分と いやな思いをさせた相手」 という物語を創り出して みずから体験しているのです。

同じ体験でも 視点をずらせば、「ネガティブな感情を言葉に乗せて発散している人と それを眺めている自分」 というように書き換えることもできる。

起きたことはひとつでも それについての解釈は複数で、どんな物語を創るか ・ 選ぶかで 氣分も状況も違ってくる、それが 「人生を決めるのは、起こったことそのものではなく それについての解釈」 ということなんですね。

これがわかっていれば、いくらでも望み通りの人生を送ることが可能。。。。なはずなんですが、ときとして出来事についての解釈を自由に選べない場合があって、それが事を複雑にします。

かくいう貴秋が まさにそんな不自由な意識の持ち主だったわけですが (^^ゞ




この二極世界で ネガ感情とポジ感情は表裏一体、理論上はどちらを選ぶも自由なはずですが、その自由をきかなくさせているのが 幼い頃に入り込んだ思い込み。

先の例でいえば、「いやな思いをしている自分と いやな思いをさせた相手」 の物語の原型は、その昔 誰かに言われたことにショックを受け、そのときの不快感が記憶の奥底にこびりついてしまったところから生じており、いま体験していることは 実はその原型の焼き直しに過ぎないんですね。

生物学的にいえば、受けたショックに応じてさまざまな化学物質が分泌され、その感覚が出来事と結びついて 記憶に刻まれたということのようです。

この体験をその場できちんと受け止められれば それでおしまいで、それ以上あとを引くことはありません。

子どもはいやなことがあると ためらわずすぐに泣きますが、涙にはそんな化学物質を洗い流す効果があるそうで、そうやって流し去ってしまえば 体験と化学物質が結びついたまま残されることはないのでしょう。

が、そこで泣くことを禁じられるなどして 感情を押し殺さざるを得なくなると、それは心の奥のほうに押し込められ、原点の出来事は忘れても、同じようなことが起こるたびに 同じ物質の分泌が繰り返され、それに応じた感覚がからだによみがえり、そこに言葉が結びついて シチュエーションは違えど同じようなスタイルの物語が再現されることになり、それは 先送りにしていた 「受け止め 終らせる」 ことを済ませるまで 何度でも際限なく続くようです。

逆に見れば、そんな不毛な繰り返しをおしまいにするために 意識が同じような状況を呼び寄せて物語を再現し、心の痛みやからだの不快感を通じて 「ここに未消化のわだかまりが残っているよー、ちゃんと氣づいて終らせてくださ~い」 と知らせてくれているともいえますね。




そんなつもりはないのに いやなことを繰り返してしまうというのは、とても苦しいものです。

でも、繰り返していると氣づいたということは、すべてを終わりにするチャンスを手にしたということでもあります。




自分が言葉で生み出された物語を生きていることが納得できると、これまでムリとか難しいとか思っていたことが 違って見えてきます。

「ムリ」 「難しい」 というのもやはり物語であるとわかるからです。

事実は動かせなくても、物語は書き換えられます、だって作者が自分なのだから。

記憶に残る感覚に言葉が結びついて 望まぬ物語が生まれるのですから、物語の解体には その逆をやればいい。

まずは感覚と言葉を切り離し、言葉は脇において 感覚が指し示す事の発端をしっかり受け止め 終らせればいいのです。

具体的な手立てはいろいろありますから、アンテナを張り情報を集めて 自分に合ったものを見つけてください。

あっさり一度で終ることもあれば 何度も見つめなおさねばならないこともあり、そこはケースバイケースですが、しっかり感じ切れば どんなしぶとい物語もやがては終わりを告げます。




こんな苦しみをどれだけ繰り返せばいいのかと弱氣になったとき、立ちはだかる強大な壁に比べて自分があまりにも無力に思えたとき、この 「物語の書き換えは可能である」 という話を思い出していただければ幸いです。



















すべてが無 (ゼロ) にかえるって、なんてすばらしいことなんでしょう

2018年08月10日 17時15分20秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


そもそも 「博士の愛した数式」 を読むきっかけは、先に借りた 作者の小川洋子さんと心理学者 ・ 河合隼雄さんの対話集 「生きるとは、自分の物語をつくること」 でした。

冒頭から 「博士の~」 をテーマにした話が出てきて、それがとても魅力的なやりとりだったので、ぜひそちらも読んでみたくなったのです。

と同時に 河合隼雄さんの書かれたものももっと読んでみたくなり、「こころと脳の対話」 「無意識の世界」 「生と死の接点」 「カウンセリング入門」 「心理療法対話」 とたて続けに借りているのですが、興味深いのが 「博士の~」 のあの0という数の “ないものがある” という要素があちこちに見受けられるところ。

とりわけ読んでいてワクワクするのが 「心理療法対話」 で、宗教学、人文科学、美術史学、行動生態学など さまざまな分野の第一人者と河合氏との対話集なのですが、カウンセリングであれ 他の分野であれ、五感の及ぶ範疇だけですっきり割り切り解決できることばかりではない、という例が随所に出てくるのです。

理屈では割り切れない、頭だけでは納得いかない、そういう力が思いがけず働いて 予想外の展開となり、なぜかはうまく説明できないけれど つかえていたものが流れ出すようなことが起こったり、その逆で 理屈で説明できない要素を省いたことでうまくいかなくなったり、そんな話が次々出てきて、「博士の~」 で0のエピソードに感動した貴秋には もう楽しくて楽しくて。




“ないものがある” の “ないもの” とは、「存在しないもの」 ということではないのですね。

五感ではどうしても捉えられないけれど それでも何かがあると どこかで感じる、それはマインドや言葉ではどうにも表しようがない、でも確かに “ある” とわかる、だから理屈の上では “ない” としたもののための場所を確保したのが、0という数字。

その0が、カウンセリングでも 数学でも 量子物理学でも 芸術でも 生物学でも 自然科学でも 宗教でも その他あらゆるところで不思議な作用を及ぼす。

どんな長ったらしい数も複雑怪奇な計算も 0をかければ一瞬で0になる、これまでは考えもせず機械的にしていた計算だけれど、よく考えればこれってすごいことだなと思うようになりました。

ああでもないこうでもないと理屈でいくらこねくりまわしても答を得られず悩みぬいたものが、言葉の及ばない領域に触れるだけでたちまち解ける (溶ける) 、すなわち問題が解決するのではなく 問題そのものが消え去る、そんなことを貴秋自身 いくど体験したかわかりません。

起こる事象はすべて中立、そこに問題意識を持ち込むから問題が生まれるのであり、そのこと自体は 本来の自分ではないものを体験したくてこの世界にやってきた私たちにはむしろ歓迎すべきことともいえるでしょう。

そうやって悩んで苦しんで 十分体験し尽くして もういいやとなれば、おおもとの0の世界に返す、それだけのことだったのです。




これまでの私たちは、見えるもの、聞こえるもの、嗅げるもの、味わえるもの、触れるもの、五感で確かめられるものばかりに重きをおいてきました。

理屈に合わないもの、理論上受け入れられないものは、置き去りにし 切り捨ててきた。

灘だったかどこだったか 有名な酒どころで、酒造りに欠かせない名水を分析して そっくり同じに合成したのに、どうしても同じ味にならなかったという話を聞いたことがあります。

どんなに科学が発達して精密な機器を作れるようになっても捉えきれないものが、この世界にはたしかにある。

でも、古代ギリシャの数学者たちが 「ないものを数える必要はない」 として 0を勘定に入れなかったように、そういう頭ではつかみ切れない要素を、私たちは度外視し 無視してきた。

その結果が、今のこの混沌とした世界。

もちろんまだまだ混沌を味わっていたい人は このまま進んでOKですが、もう十分だからそろそろ抜け出したいと望むのなら、いまこそ0の領域を思い出すときですね。

すべてはそこから分け出されたのだから、そして忘れようが無視しようが 私たちの内に 0はつねにあるのだから。
















人生なにが起こるかわからない ~ 小川洋子 「博士の愛した数式」 を読んで

2018年08月06日 10時20分33秒 | 大好きな本・映画・ほか


内的変化にリアルタイムで氣づくのは難しいが、反応や行動が変わることで後からそれと感じ取れる、と以前のブログに書きましたが、最近感じ取れたひとつが 読む本のジャンルの変化。

図書館でこれまで熱心に足を止めたのは 精神世界系と児童書、料理本や手芸本、欧米の小説ぐらい、同じ小説でも理系の棚と共に完全素通りだったのが、日本人作家の小説。

それが この6月からなぜか風向きが変わって 邦人作家の棚を長時間巡り歩くようになり、そこで借りた 「博士の愛した数式」 に思いがけないインパクトを受けることに。




「博士の愛した数式」 は、交通事故で記憶が80分しかもたなくなった初老の元数学教授と シングルマザーの若い家政婦、そして彼女の小学生の息子の三人の心の触れ合いを描いた物語。

一度出会った人とも80分を過ぎて再び顔を合わせると初対面になってしまう博士が、他人と交流するために絶えず持ち出すのが、数字にまつわる質問。

心おきなく話せるのは数学の話題だけ、毎朝 靴のサイズはいくつか、電話番号は、出生時の体重は、といった問いかけから始まる博士との交流が続くうち、主人公は博士の繰り広げる数の世界に次第に魅了されてゆきます。

そんな博士が直線について語るくだりで、不意に思い出したことがありました。

紙に引かれた直線は 実は二つの点を最短距離で結んだ 「線分」 であって、本来の直線の定義には端がなく 無限に伸びてゆかねばならない、さらに鉛筆の芯にはわずかなりとも太さがあるから 紙に描かれた直線は実は線ではなく面である、つまり 現実の紙に本物の直線を描くことは不可能なのだ、という話。

博士は言います、“物質にも自然現象にも感情にも左右されない、永遠の真実は、目には見えないのだ” と。

ここで、高校の倫理社会の授業で “イデア” について習ったときの場面が鮮やかによみがえったのです。

あのとき例に出たのはたしか正三角形でしたが、やはり鉛筆の芯の太さもあり 完全な正三角形を描くことは 人間にはできない、そんなこの世にはあり得ない完璧な存在を “イデア” と呼ぶ、と。

倫社の授業で他に覚えてることはなにひとつなく、なぜかこの “イデア” のワンシーンだけがくっきり刻まれているのですが、かれこれ40年近く経ってふと手にした小説に そんな埋もれていた記憶を引っ張り出す一節があったとは。




さらに読み進むうちに 今度は博士がゼロという数字の素晴らしさを力説する場面に出くわしました。

無であるものを数える必要などなく ましてや書き表すことなど不可能と考えていた古代ギリシャの数学者たちに代わり、名もないインドの数学者が無を数字で表現し、非存在を存在させたのだ、というのが、ゼロについての博士の説明。

博士は続けます、38と308が区別できるのは 0が十の位が空いていることを示してくれているためであり、物差しで長さが正しく測れるのは目盛りの左端が0から始まっているおかげ、さらに0が驚異的なのは、そういった記号や基準としてだけでなく 正真正銘の数である、という点だ、と。


        “最小の自然数1より、1だけ小さい数、それが0だ。

         0が登場しても、計算規則の統一性は決して乱されない。

         それどころか、ますます矛盾のなさが強調され、秩序は強固になる”




五感の世界の視点に加え 五感を超えた世界の視点を思い出し広げてゆく過程で起こるのが、自分はおかしいのではないかという疑念に苛まれること。

マインドと真我意識を行き来していると、五感を超えた世界に全力で入れ込む自分が マインドから見て異様に思えることがままあります。

社会人としてのまっとうな生き方を放り出し ほんとうにあるかどうかもわからないものに没頭して、おまえはいったいなにをやっているのだ、氣は確かか、と。

マインド優位のときにこんなふうに責め立てられ、言い返しようもないまま自信がぐらつくほどつらいことはありません。

が、博士は言うのです、インドの数学者により 非存在が存在することは とうの昔に発見されているのだ、と。

十の位が空いていることを0が示さねば 38と308を区別することはできないし、目盛が0からスタートしなければ 正しい長さは測れない、“ないものがある” からこそ世の秩序は守られるということを、私たちは日ごろ当然のように0を使うことで 知らず知らずのうちに認めていたのですね。




それにしても、高校生のころはまだバリバリ三次元世界オンリーだった貴秋が、“イデア”という五感を超えた領域、言い換えれば0の世界に すでにぴんとくるものを感じていたとは驚きです。

そして人生とはわからないものですね。

身震いするほどの数学嫌いだった貴秋が、いまや数の世界に関心を寄せ始めているのですから。








       







いのちを超える物差しなんてあるのでしょうか ・ その6

2018年08月03日 12時37分02秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


いじめや過労で亡くなった方の話を聞くたび、その辛さに思いを馳せると同時に、いのちを落とすぐらいなら 苛酷な環境からどうにかして離れられなかったものかと 我が事のように悔しくてなりません。

いのちに関わる事態になってなお 「ここ (職場、学校) をやめる ・ 離れることはできない」 と思わせるほど、脳が未完のころの刷り込みは強力です。

ちょっとやそっとでは解けない催眠術のようなもの。

無限のいのちより有限の物差しが力を持つなんて、お釈迦様の手の上の孫悟空がお釈迦様をあやつろうとするようなものだと思いますが、そこに氣づかれぬよう お金や時間や法に人間をしのぐ力があると思い込ませ、同時に五感ではつかめないいのちというものの存在を悟られないようにする、そんなからくりが この三次元世界にはたしかにあると感じます。

が、本来の自分でないものをとことん味わう 「行き」 の道から 本来の自分を思い出す 「かえり」 の道へと転じたいまは、そのからくりも次第に力を失い、嘘やつじつま合わせのほころびがあちこちで露呈しているのが見受けられます。

もし いまのままでいたくない、もっと自由に豊かに安らかに幸福になりたいと望むなら、かえりの道の追い風が吹くいまは この上ないタイミングといえます。




そして、一見忌まわしいとしか思えない否定的な出来事こそ、その望みを叶える絶好のチャンスなのです。

自分に社会的価値がないと切り捨てられようとしている、厳しい上司やいじめっ子たちに取り囲まれてなす術もない、などというときに感じる心の苦痛、そこに集中して目を向けてください。

権力者や上司やいじめっ子はいったん脇に置いて、耐え難い事態にうずく心を ひたすら感じてください。

言葉の判断解釈は抜きで、その痛みや圧迫感を感覚として感じ取れればしめたもの。

貴秋は最近、この感覚フォーカスにホ ・ オポノポノを併用することで、変化が加速するのを感じています。

このコンボは これまで用いたさまざまな手立ての中でも最強です。




また ひとりで立ち向かうのは不向きと思われる方にも、カウンセリングやセラピー、さまざまなヒーリングにワークショップなど 手を貸してもらえる場はいくらもあります。

アンテナを張っていれば、きっとぴったりのものが見つかるでしょう。

長いあいだ内的探究を続けてきて いく度となく体験したことですが、真摯にひたむきに取り組んでいれば、道は必ず開くようです。

思いがけないところから情報が舞い込んだり たまたま出くわしたり、偶然としか見えないようなことが 向こうからひょいと起きてくるのです。

貴秋は、生まれる前の自分と “おおきなひとつ” が設定した流れにうまく乗れている証拠と思っています。




最近知ったのは、これまた愛読する 「misaのブログ」 の 宮里俊樹さんとおっしゃる方の催眠ワークの話

なるほど 負の刷り込みが言葉を超えて意識の深部に働きかける催眠なら、それをまた催眠で解くことも可能なはず。

ぴんとこられた方は アクションを起こしてみるのもいいかもしれません。




とにかくお伝えしたいのは、心に突き刺さる苦痛や いのちに危険を及ぼすほどの状況をがまんしなければならない理由なんて、決してないということ。

6記事にわたってタイトルにしてきた 「いのちを超える物差しなんてあるのでしょうか」 という問いかけを、どうお感じになりますか?

いのちの上に立ち いのちに指図する物差しなどというものが ほんとうに存在するのか、存在を許されるのか。

否定的な状況に陥ったときは、どうぞご自身の心に問うてみてください。

イエスと答えることにほんの少しでもためらいを覚えるなら、「そのままがまんする」 以外の選択をしてください。

ただ、そこで相手に挑みかかるのは ひたすら耐え忍ぶよりはましですが、戦ってもほんとうの解決には至らないことは知っておいてくださいね。

自分を束縛し苦しめているのは、実は相手ではなく 自分自身の思い込みなのです。

他者は変えられないけれど 自分を変えることはできる、ここに事態を好転させるビッグチャンスが潜んでいます。




今回のお話、実は5記事で終るはずでした。

なぜか終わりのご挨拶を書き忘れ、そこにインスピレーションがきて これを書くことに。

前5記事もそうでしたが、今回のこれは 特になにかが書かせたと感じています。

文章のほうから 勝手に溢れ出してくるようでした。

このタイトルはこれでおしまいです。

6回にわたって長文をお読みくださり ありがとうございました。





















いのちを超える物差しなんてあるのでしょうか ・ その5

2018年08月03日 09時24分03秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


ある状況について 私たちが怒りを感じるのはなぜでしょう。

まず、それが私たちの意に染まないから。

でもそれだけなら 怒る必要はありません。

日ざしがまぶしければカーテンを引く、ボタンの掛け違いに氣づけば直す、状況を変えるため すみやかに行動するだけのこと。

怒りが生じるのは、その変更がしたくてもできないと感じるときです。

カーテンやボタン程度のことならイラッとくるだけで済みますが、事が大きければ 怒りも増します。

さらにそこに 「変更できないままだとマズいことになる」 という怖れや焦りが加わると、怒りは一段と大きくなります。




杉田議員の例でいうと、いまの自民党は安定多数で 議員の発言が実際そのとおりになりかねないという不安や、このまま進めば自分たちにはどうすることもできなくなるという無力感が、意見を異にする人々の怒りをかき立てるのでしょう。

しかし、そこに不安や無力感が入り込むのはなぜなのか。

それは 「三つ子の魂百まで」 のことわざどおり、幼いころにがっちり刷り込まれたある種の観念が 現在もなお効力を発揮し続けているためです。




以前の貴秋は いわゆる "権力者” への反感が人一倍強いたちでしたが、その反感の出所を探っていくと、まず 自分を無意識に弱者の側に置いていることに氣づかされます。

ではなぜ自分を弱者だと感じるのか さらにたどっていくと、幼児期の記憶に突き当たります。

貴秋の母親は 自身も大きな不安を抱えていたせいで やたら周囲に干渉し 強引にコントロールしたがる人で、父親は 仕事が忙しいせいもありましたが そもそも間に入ってとりなすより 母の目が他に向いているのを幸い 自分ひとりの世界で安穏と過ごすタイプ、いわば精神的な虐待とネグレクトの組み合わせ。

その中で幼い貴秋は 自分の力ではどうしようもない無力感や不安に苛まれ、そこから派生する怒りを口にできぬまま溜めに溜め、それが父母を連想させる人や状況への過剰な怒りとなって 半世紀あまり貴秋を突き動かしていたようです。

この怒りや不安や無力感がかくも強力だったのは、それが言葉にならない形で入り込んだから。

言葉で入り込んだものなら 言葉で説得解除することも可能ですが、まだろくにしゃべれない幼児への刷り込みは、相手や状況から漂う氣配だの雰囲氣だのといったものを介して 言葉になる前のイメージとして心の奥深く染み込んだようで、あとからいくら言葉で言い聞かせても まるで歯が立ちませんでした。




これが、貴秋が言葉を切り離してただ感じる ・ 氣づくことをお勧めしてやまないゆえんです。

どれほど怒り狂おうと 激しく抗議しようと、それが外に向いている間はなにも変わりません。

縛りは自身の内にあるのです。

それに氣づけば 手放すこともでき、心が自由になれば どんな状況もカーテンやボタンと同じくすっきり解決することが可能になります。

縛りを解かれたマインドは 本来の自分 (真我) を思い出すので、生きてきた年月分の限られた知識だけでなく 宇宙の無限の情報とアクセスできるようになるからです。

戦って勝ちを収めるのではなく、理不尽なルールそのものからすっと降りる ・ 離れるという選択ができるようになります。




貴秋の愛読ブログ 「世にも奇妙なフツーの話」 に 「目の前から忽然と消えた?」 という記事があります。

内容はお読みいただいてのお楽しみですが、ここに出てくる 「戦わなかったインディアン」 に 貴秋もなると決めています。

実際過去に、厳しく当たられたり揉めたりしていた相手と これ以上戦うのはやめる! と決心したとたん、相手が引っ越したり どれほど近所の人でもぱたりと顔を合わさなくなったりという経験があるので、これからも自分の意識が変われば 状況も変えられると確信しています。




自分が変われば世界が変わる、これがわかれば いのちを超える物差しが握られたままの世界で怒ったりがまんしたりする必要なんて もうないのです。























いのちを超える物差しなんてあるのでしょうか ・ その4

2018年08月02日 11時28分04秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


杉田水脈議員のLGBT発言について考えていて ふと連想したのが、二年前に起きた 「相模原障害者施設殺傷事件」 。

(念のために申し上げれば、殺傷事件の加害者と杉田議員を同列に置く意図はまったくありません。)

あのとき多くの人が衝撃を受けたのは、事件の凄惨さもさることながら 加害者の男性が 「障害者の存在は健常者の負担であり 税金の無駄遣い」 という考えのもと 犯行に及んだという点でしょう。

過去何度もあったことですが、無機質な物差しを強引にいのちの上に置こうとする者が現れると、多くの人に動揺が走る。

これは 私たちが 「いのちより尊く いのちより重く いのちより大切なものはなにもない」 ということを固く信じる一方で、実際にはその信念に相反する基準に従って暮らしているという矛盾をいやおうなしに突きつけられるからではないでしょうか?




「お金 ・ 時間 ・ 法」 の三つは、私たちがこの三次元世界で 係わりを避けて通れない物差しです。

とりわけ 「お金」 の持つ力は強大で、お金がなければ人は生きてゆけない仕組みになっています。

どんないのちも等しく無条件に尊いもの、そう固く信じながら、他方では お金のあるなしで待遇が大きく変わり、極端な場合いのちを落とすこともある世界に 私たちは生きています。

現行のお金のシステムを受け入れる (受け入れざるを得ない) ことで、私たちはいのちの流れに逆行する力を 意志に反してでもやむを得ずでも 支え生かし続けているのであり、直視しようとしまいと その矛盾を抱えたまま 日々暮らしています。

そんな普段は目をやらないようにしている矛盾を いやおうなしに意識させられるのが、このような事件や問題なのではないでしょうか。




人が他者に向かって反発するとき、実は自身の受け入れがたい面を相手に投影しているのだ、という話があります。

この 「いのちとお金と どちらが大事?」 という疑問を突きつけられるたび 大論争が起こるのは、互いに 矛盾する二面の受け入れ難いほうを他者に叩きつけて 心のバランスをとろうとしているためではないでしょうか。

「いのちよりお金が大事なんてひどい!」 という思いと 「そんなこといったって お金がなければ生きていけないじゃないか!」 という思いがぶつかりせめぎ合う。

まわりの世界は自身の意識が形になったものという見方をすれば、このせめぎ合いは 私たちひとりひとりが抱える矛盾のせめぎ合いとも見てとれます。

となると 杉田議員の発言は、私たちが心の奥深く押し込んでいた矛盾をあぶり出し まっすぐ向き合うチャンスをくれたととることもできるのかもしれません。




心の内に矛盾を抱えていると、人は苦痛を感じます。

その苦痛を感じないよう 日ごろは心の底に押し込めて見ないようにしているわけですが、貴秋はこの数年 事あるごとに浮かび上がる苦痛を 言葉を切り離した上で ひたすら直視し 感じ続けてきました。

からだの感覚として響き渡るそれは、一度で立ち去るものもあれば 何度となく戻ってくるものもありましたが、向き合うたびに薄れ 最終的にはほとんど存在を感じなくなるまでになりました。

あるとき 「古いものを手放して空いたスペースに 新しくもっといいものを育てよう」 というインスピレーションが湧き、以後は二つを並行して勤しんでいます。

そしてふと氣づいたのです、これは物差しの入れ替えなのだと。

自分を幸せにしない価値観を手放し もっと幸せになれる価値観と取り替えることを、知らず知らずのうちにしていたのです。




自分の世界をよくするのに 人と戦う必要はありません。

矛盾を見て見ぬふりする必要も、そんな自身を責める必要もありません。

ただありのままの自分に、自分の真実に氣づいていればいいのです。

自分軸が矛盾をはらんでぐらついたままでは、幸せな世界を築くことはできません。

信念に反して入り込んだつらい物差しは、このコントラストの世界で ほんとうの自分ではない要素を体験するためわざわざ置いたもの、十分味わえば 役目をまっとうして去ってゆきます。

代わって育て始めた新しい軸がしっかり根付けば、あとのことは向こうから起きてくるし、それにどう対応すればいいかもおのずとわかります。


すべては自身の軸 ・ 信念から生じていること、意識が変われば世界が変わります。




















いのちを超える物差しなんてあるのでしょうか ・ その3

2018年08月02日 08時44分26秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


動物を無理やり杭につないで拘束しようとすれば暴れますが、生まれたときからずっとつないだままにしておけば それを当たり前のこととして受け入れ、杭を取り除いても ロープの半径より外に出ようとしないという話があります。

私たちが 「お金 ・ 時間 ・ 法」 というものを受け入れ 逆らおうとしないのも 同じようなものではないでしょうか。

生れ落ちたときから それは自分たちを左右する力を持っていて、従うのが当たり前と思い込んでいた。

やがてこの三つの物差しは 私たち自身の基準として意識に浸透し、宇宙の法則や自然現象同様に扱われてきたのです。




最近、以前は当たり前すぎて疑問を持たなかったものに 違和感を覚えることが多くなりました。

たとえば テレビのコマーシャル。

幼いころからごく自然に受け入れていましたが、いまは氣に障ってなりません。

感動的なドラマであれ 真摯な報道であれ 異国の地に実際に立っているかのように思わせてくれる紀行番組であれ、一定時間ごとに その流れをぶった切る異質な映像や音声が挟み込まれる。

その内容といえば、さまざまに演出を凝らしてはいても つまるところ 「私たちを選んでください、私たちにお金を落としてください」 という熾烈なPRなのです。

番組とはおよそ相容れないそんな "異物” の侵入を おかしいとも思わず受け流していた以前の自分。

誰かが大切なことをけんめいに語りかけている横から 見知らぬセールスマンが一方的に割り込んで売り込みを始めたら、「なにこの人?」 と思いもすれば、「話が済むまで待ってください!」 と文句のひとつも言うでしょうに、テレビとなると当たり前に受け入れていた自分の感覚が いまは妙に思えます。

もうひとつ強烈なパンチをくらったのが、お金について 知らず知らずのうちに身についていた意識。

お金持ちの資産、土地の評価額、施設の建設費用、スポーツ選手の契約金、災害の被害額、などなど お金に換算され語られることのいかに多いことか。

そしてその習慣を不思議に思わず、語られる金額が大きいほど 「すごい!」 と思い込んでいた自分。

金額が大きい = すごいこと なのだという物差しを いつのまにかがっちりつかんでいた自分に驚きです。

それもたしかにひとつの基準ではあるけれど、金額ではとうてい推し測れないもののほうが ひとりひとりの人間にとってはるかに大きいのだということをきれいに見落としていた自分にショックです。

お金をたくさん持っている ・ お金がたくさんかかっていることと 「すばらしい ・ 優れている」 はつねにイコールなのか、被害額の大きさで 被害を受けた人の心の痛みを感じ取れるものなのか。

センセーショナルな金額の向こうに置き去りにされた個々の人生の物語を忘れ お金の高にばかり氣を取られていた自分が、いまは不思議です。




杉田議員の話に戻れば、LGBTの人たちを 「生産性」 という物差しで判断評価しようとする姿は、まさにお金をいのちとしての人の上に置くという議員の意識のありようを浮き彫りにしています。

そんな議員の発言がここまでの問題となったのは、同じ考えを持つ人が 杉田議員ひとりだけではないということ。

個人の価値観なら 「へぇ~そんなこと思ってるんだ」 「それってどうなの?」 ぐらいで済む話ですが、そうならないのは 価値観を同じくする人がそれだけおおぜいいるということでしょう。

とすれば、杉田議員の発言の是非をいくら問うても、争いが大きくなりこそすれ みなが氣持ちよくうなずける解決を見ることは まず不可能。

「抵抗すれば 相手はますます大きくなる」 、意見の異なる相手に反発すればするほど 相手も強さを増して押し返してくるのですから。

ここで大切なのは、「人であれ他の何であれ いのちという無限の存在の価値を お金という有限の物差しではかることを 自分は選ぶのか」 と 自分に向けて問うことだと 貴秋は思います。

他者ではなく、自身に問うのです。




戦いが目的なら 他者と言い争うのは有効ですが、これ以上誰も辛い思いをすることがないよう願うのなら 非難の応酬はなんの役にも立ちません。

歴史を振り返れば明らかなこと、争いや戦いで未来永劫続くような平和が得られたことなど ただの一度もないのですから。

同じことの繰り返しは不毛なだけ、私たちは新しい意識で新しいやり方を見つけるときに来ているのだと思います。


















いのちを超える物差しなんてあるのでしょうか ・ その2

2018年08月01日 15時04分35秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


このブログにもたびたび書いていますが、いのちとは 本来分けられないもの。

対して 私たちの生きているこの三次元世界はコントラストの世界、正誤 ・ 優劣 ・ 高低 ・ 寒暖 ・ 明暗など 対立する二要素で構成される世界です。

しかしよく見れば、その相対する二要素も 実は同じものの程度の差でしかありません。

同じ摂氏20℃でも 夏なら涼しい 冬なら暖かいと感じるように、「この線からこっちが寒でこっちが暖」 などとくっきり分けられる絶対の境界線というものは存在しないのです。

基準となる線は 相対的に人の数だけあり、ひとりひとりが自分なりの基準に照らし合わせて選択行動し、その積み重ねがその人ならではの個性を培ってゆく、というのがこの三次元世界のありようです。




形ある世界に生きる私たちは、つねに 「分け出す」 ことで成り立っています。

そもそもその出自自体が 形なきいのちから 肉体という形で分け出されての誕生であり、以後 もともと境界のないところに自分なりの線引きをすることで つねに他とは違う自分というものを分け出し創り続け、その生き様をもって 「私とはこういう者である」 と宣言し続けています。

そしてその線引きは、いのち同様 本来とても柔軟であるべきものだと思います。

運動会で紅白に分かれている間は敵だけれど、運動会が終ればすぐまたもとの仲良しに戻るように。

電卓で計算を終えるごとにクリアボタンを押してゼロに戻すのと同じく、役目を終えた線は 「すべては分けられないひとつのいのち」 という私たちの本質にいちいち返すことで 真実の私たちを見失わないようにするというのが、この形ある世界を氣持ちよく生きてゆく極意だと思うのです。

有限の線がいつまでものさばり続け 無限のいのちより力を持つようになれば、私たちの穏やかな世界は 大きく揺らぐことになる。

そんな憂慮すべき事態が まさにいま起こっていると感じます。




以前 「雲が消えれば太陽が顔を出すように、本来の自分でない要素を手放せば 次第に真の自分が表れて、あとのことは向こうから起きてくる」 と書いた覚えがありますが、その “起きてきた” 中のひとつが、この現存する 「いのちを縛る有限の線」 の正体が見えてきた、ということ。

本来用が済めば無効になるはずなのに、そのまま頑固に居座り続け 自然なはずのいのちに不自然に介入してくる線、私たちが生み出したものでありなが
ら 私たちを上回る力を持ち、私たちを左右し ときに傷つけ力を奪う線、その最たるものが 「お金 ・ 時間 ・ 法」 の三つだと感じます。

三つに共通するのは、私たち人間が頭で作り出したものであること、そして人間社会にしか通用しない物差しであること。

ここでいうお金とは、硬貨やお札といったお金そのものではなく、お金のシステムのことです。

そして、時間や法は 根本ではそのお金のシステムを守り支えるために作られたもののように見えます。

無限のいのちであるはずの私たちを無情に切り刻み 力を失わせるのがお金のシステムであり、この線引きは 人を 「システムを使う者と使われる者」 「システムから利益を受ける者と受けない者」 に分ける役目をする。

「強者と弱者」 と言い換えてもいいでしょう。

そしてこのシステムは、強者によって作られたものなのです。

お金も時間も法も 私たちが生まれる前からあったものだから、ついつい空氣や太陽や大地と同じようにあって当然のものと思ってしまいがちですが、それは天が定めたものではなく、同じ人間の手になるものです。

天が定めたものは変えられないけれど、人が作ったものは変えられます。

多くの人が不都合と感じる線引きならば、いったんゼロに戻して よりよいものに作り替えることができる。。。。はずなのですが。

そうならないのには わけがあります。