Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

2001年宇宙の旅<物語編>

2006-06-08 | 外国映画(な行)
文句なし★★★★★ 1968年/アメリカ-イギリス/148分
監督/スタンリー・キューブリック 主演/ケア・デュリア、ゲイリー・ロックウッド

「モノリスが何だって、いい」


私が一番最初にこの映画を観たのは高校生の時です。その時の感想は「何が何だかさっぱりわからない」というものでした。しかし、あれから何度見たことでしょう。さっぱりわからないものを、人間何度も見ようとするものでしょうか?私にとっては、謎だからこそ何度も見たくなる、ドラッグのような映画です。

私はこの映画のストーリーについて「自分なりの」結論を持っています。でも、それが正しいかどうかはわかりません。もしかして、再び見たら違う結論が出てくるかもしれない。この映画をキューブリックと共に制作したアーサー・C・クラーク博士が書いた原作では、映画の中の謎に対してより具体的な答が提示されているようです。でも、私はなぜか原作を読む気には、なれない。そこで何かしら一つの結論に達してしまえば、もうドラッグの効果が薄れてしまいそうで嫌なんです(笑)。



とはいっても、です。
この映画の最大の議論点は「登場する3枚の謎の黒石板(=モノリス)はいったい何物か」ということでしょう。これが、「神の形」をしていたり、「美しい光」や「宇宙人」だったらば、イメージしやすいものを、ただのでかい石なもんだから、その唐突さにわけがわからなくなる。しかし、映画でモノリスの存在が明らかになっていない以上、モノリスについて観客は推測するしかありません。科学者が推測するモノリスと宗教家が推測するモノリスは違うだろうし、高校生が推測するモノリスと老人が推測するモノリスは違う。その違いを生むことこそが、この映画の一番の面白さではないでしょうか。わからないなりにも、「自分なりの結論」を出せばいいし、そこを楽しむのだ、と。まさに「ただのでかい石」であることがそれを物語っているんではないでしょうか。

映像美に優れた映画というものは、えてして「感じる」映画などと称されたりします。でも、私はこの映画は「感じる」映画ではなく「考える」映画だと捉えています。セリフも非常に少なく、説明的な描写も極力廃している。そういう極めてシンプルな構造だからこそ、「考え、推測する」ことこそが、唯一の楽しみになるのです。

宇宙の大星雲を頭に思い浮かべつつ、一体モノリスはどこからやってきて、何をしようとしているのか想像していると、脳内にドーパミンが放出されていくような感じさえします。考えることが快感になる。私の場合、そんな映画は後にも先にも、この映画しかありません。ヒトザルが放り投げた骨が宇宙船に取って代わるあのシーンは、多くの方が語っているように映画史上に輝く名シーン。ただ骨が宇宙船になった、それだけのことでここまでイマジネーションをかき立てられるんですから。次にもう一度見たら、きっとまた違うレビューが書けるでしょう。何度見ても、いろんな見方ができる、すごい映画です。


映画ランキングに参加しています。面白かったらポチッと押してね。


野菜の花

2006-06-08 | 野菜作りと田舎の食
私の大好きな小説に、宮本輝の「流転の海」というのがあります。野菜の花の写真を撮りながら、主人公松阪熊吾が息子の伸仁に心斎橋の居酒屋で耳にした話を聞かせてやる回想シーンを思い浮かべました。

---------------------------------------------------

「こないだ心斎橋の飲み屋で、誠に含蓄のある話を聞いた。人相とか、その人間がもっちょるたたずまいというものの大切さについての話じゃった。」と熊吾は言い、田園を見渡して、遠くにキュウリの畑とおぼしきところをみつけてそれを指差した。
「野菜の花っちゅうのはじつに可憐で品があって美しいもんじゃという話題から始まってのぉ…」とつづけた。
 居酒屋の主人は、その野菜の花の美しさは、人々に季節の味や栄養をもたらし、人々の役に立つ働きとか使命を担っているが故に天から与えられた徳のような気がすると言った。
 そうとでも解釈しなければ、あの野菜の花の可憐な品の由来は説明できない、と。
 すると客は強く同意し、人々を楽しませ、人々の役に立ち、人々を癒すために生まれたからこその品格が小さな花にも厳と存在するならば、人間もまた同じではあるまいかと言った。そしてそれは見事なまでに人相にあらわれるのではないだろうか、と。(中略)
 人間の相、そして目の深さは、その人の心根や教養や経験や修練や、とりわけ思想や哲学といったものに培われていくもので、決して生まれつきのまま不変であったり、また毀誉褒貶によって変化するものでもない。品も徳も、それによってもたらされる人相も目の深さや力も、野菜の花と同じく、人々のためになるかならないかの、その存在の意義に依っているのかもしれない……。

---------------------------------------------------
「流転の海」シリーズには、我が意を得たり!と思わず膝をぽんっと打ってしまう人生論がたくさん出てきます。この一節を読み、なるほど世の中が野菜の花のような人間ばかりならよいのになぁとつくづく感じました。最後にトマトの花と茄子の花を。(冒頭はじゃがいもの花です)可憐ということでは、スナックえんどうの花もぴったり来ますね。






にほんブログ村 生活ブログへ 
楽しかったらポチッと押してね。やる気が出ます!