Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

セブンス・コンチネント

2008-05-06 | 外国映画(さ行)
★★★★★ 1989年/オーストリア 監督/ミヒャエル/ハネケ
「デビュー作からサディストぶり全開」



「感情の氷河期 三部作」なんてネーミングからして哲学者みたいだな。とんでもない展開の映画ながら、ふーんとかはぁーとかほぉーとか感心している内に終わってしまった。

最初から最後まで観客は不安で不安でたまらない。両親と娘ひとりという核家族の日常が淡々と描かれてゆくが、物語がちっとも紡がれない。断片的にそれぞれの生活シーンが挿入されていくだけ。特に娘は何か精神的な問題を抱えているように見えるが、その原因など全く不明。
そして、表情(顔)を映さない。手元を映したシーンが実に多い。おそらく、全体の半分以上は手元、または静止画ではないだろうか。つまり、そこで人物は喜んでいるのか、悲しんでいるのかが予測できない。しかし、手の動きはイマジネーションのきっかけは与えてくれる。買い物をする手、食器を片づける手…etc。それらの映像から、観客は何とか物語の前後を埋めようと苦心する。もしかしたら、手元の映像だけで映画って作れてしまうものじゃないか、なんてあらぬ方向へと考えが及んでしまった。映像から温度を感じられないことも不安の一端。
最後に、スクリーンが真っ暗になること。エピソードとエピソードの間、必ずスクリーンが真っ暗になる。その間、約3秒くらいか。これが実に中途半端で居心地の悪い間(ま)なの。このまま、映画が終わってしまうんじゃないかってくらい。

これだけ、観ていて不安でありながら、スクリーンに惹きつけられて仕方ない。もういいや、と止める気にはなれない。それは、物語の断片と手元の映像というほんの少しの「エサ」に、観客がつられているからだろう。これは、人間の本能かも知れないなあ。ちょっと見せられたら知りたくなるっていう人間の本能。そういう条件反射的な本能をつついてくるハネケって、やっぱ根っからのサディストなんだろう。

ラストの破壊シーンは息を呑むばかりだけど、一方でその徹底ぶりに爽快感すら覚えてくる。我々が享受している文明を全てこの世から排除する彼らの行動は、もしかしてとても真っ当な行為なんじゃないかとすら。大学で哲学と心理学を学んだということで、その世界観は彼なりの理論でがっしりと構築されているようなんだけど、一方モノだけを取り出したカットなんて、そのままポスターやポストカードにしても映えるような機能的な美しさがあるのね。本当に一分の隙もない作品。天晴れというしかない。