Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

ベニーズ・ビデオ

2008-05-09 | 外国映画(は行)
★★★★★ 1992年/オーストリア 監督/ミヒャエル・ハネケ
「もはや現実は映像の中にしかないのか 」



「感情の氷河期 第二作」

ベニーは「映像」と「現実」の境がつかなくなっているのだけど、その曖昧さと言うのは、観客である我々自身も既にどっぷりそうなっているんじゃないか、と思って戦慄してしまう。なぜなら、このベニーと言う少年の心情、そして死体を隠蔽しようとする両親の異常性、共にスクリーンを通じて観ていると何となくわかったような、共鳴してしまうような感覚に陥ってしまうから。例えば、自分の隣の家の少年が実際に犯罪を犯し、両親が隠蔽工作をしたとする。それを、私は事実として受け止められるだろうか。おそらく、理解したくない、知りたくない、拒否反応が先立つような気がする。つまり、スクリーンの中のベニーには深く入り込めても、実在する隣の少年には入り込めないかも知れない。

結局、現代人って「何かを媒介する」ことでしか、物事を受け止められない体質になってるんじゃないのだろうか。その媒介がビデオであり、テレビであり、ラジオであり、映画である。本作では、戦争や政治などのシビアな話題から、天気予報に至るまで、ラジオのニュースもあちこちで挿入されている。ラジオから聞こえてくる戦争のニュースは、あまり現実味がない。だけど、実際に起きていることには間違いない。その事実を確かめたくて、今度はテレビを見る。戦場で逃げまどう人々を見てようやく戦争を実感する。時には、かわいそうになって涙を流したりするかも知れない。しかし、その涙は映像と言う媒介物があってこそ、生まれたものであって、本当に戦争を心から憎んで生まれる涙じゃない。

また、息子と母がエジプトに逃避行した時に、ホテルの部屋のテレビ映像が幾度となく映されるのだけど、もしかしたら、ベニーは実際に観光しているよりも、そのテレビ映像によって、そこがエジプトなんだというのを強く実感しているのかも知れない。そう考えると、旅行先のホテルでテレビを見て、自分がどこにいるかを実感することって、我々にもよくあることだと思い出す。

だから、映像って実に怖いメディアなんだ。映画だと思って見ているものが実はビデオだったという二重構造も、ハネケから映像を鵜呑みにしちゃいけない、という我々に対するお仕置きのような気がしてしまう。もちろん、このラストにもたらされる二重構造が驚くべきどんでん返しになっていることは、映画作品としての大きなカタルシスを観客に与える。つまり、お説教しながら、映画としての楽しさも味わわせてしまう。そこが、ハネケの凄いところ。

それにしても、物事をこれほど客観的に捉えるという作業は、一筋縄じゃ行かないだろう。殺害の事実を知った後の母親の愚鈍な描写なんて、私が女優なら降板したいと思うくらい。とはいえ、デビュー作ほど、登場人物の行動は不可解ではないし、ハネケ作品の中では比較的わかりやすい部類だと思う。少年の抱える闇とメディアがテーマなので、多くの人にぜひ見て欲しいと思う。