Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

ブーリン家の姉妹

2008-11-15 | 外国映画(は行)
★★★★ 2008年/アメリカ・イギリス 監督/ ジャスティン・チャドウィック
<TOHOシネマズ梅田にて鑑賞>

「ため息のDNA」


タイトルが「ブーリン家の姉妹」ですので、ひとりの男を奪い合う姉妹の確執にとことんスポットが当てられています。ですので、史実をひねり過ぎはないかとか、王様は政治もせんと女のことで頭がいっぱいすぎる、と言った突っ込みどころは満載なのです。それでも、ある程度は歴史的に間違いないのですから、このドロドロ劇をとことん堪能しようではありませんか。本当のところは、もっと悲惨な物語が隠されているようですし。

多くの方が連想されたように、観賞後私も「大奥」を思い出しました。政治の道具として利用される女性たちの波瀾万丈な生き様。その人間性などまるで無視されたようなひどい扱いぶりに同性として腹立たしい思いでいっぱいになる。ところが一方で、誰が生き残るのか一寸先は闇というサバイバルゲームをワイドショー感覚で楽しんでいる自分がいる。そんな自分に嫌悪感を感じたりもして。結構、この手の作品って、「かわいそう」と「オモロイ」のアンビバレンツに悶え苦しむのです。これは、きっと女性特有の感覚でしょうね。

そして、生まれた赤ん坊が「女の子」であった時の静寂。喜ぶ者はひとりもいない。無音のスクリーン。でも、私にはため息が聞こえるのです。女で残念、と言う皆々のため息が。命の誕生。それは、最も喜ばしき瞬間。なのに、女はこうして何世紀もの間、女で残念という刻印をDNAに刻み込まれ続けてきているように感じて居たたまれなくなる。だから、晩年のメアリーは幸福に過ごした、というラストのナレーションにも安堵感を感じるどころか、ごまかしのように聞こえる。やっぱり、この手の作品を見ると、女性として賢く生きるって、なんだ?と思わされるのです。だって、男性として賢く生きる、という文脈は存在しないでしょう?

さて、作品に戻って。フランス帰りで洗練されたというアンが、「あんま、変わってないやん」というところがちょっと残念。史実では6年も待たせたんですってね。だったら、なおさら変身ぶりを見せて欲しかったなあ。宮殿もセットを組んだということですし、衣装も豪華絢爛。歴史大作としてのスケール感はかなり堪能できました。女性が頭にかぶっている、顔を五角形の鋲なようなもので覆うアレはなんというのでしょうかね。既婚者がかぶるものでしょうか、ずいぶんイカツイ。フランス王朝のロココファッションは、もっと軽やかで優雅なんですけど、そういう違いも面白かった。

それにしても、やっぱりイギリスは階級社会。「大奥」ならどんなに身分が低かろうと男の子さえ生めば安泰なのに、正式な王位継承者でなければ私生児でしょ。アンにしてもメアリーにしても、王を取り巻く貴族たちが出世するための道具。「大奥」でも男たちの出世のためにという背景はあるけど、「大奥」という箱は与えられているので、案外日本の方が環境は上かもと思わされます。だって、アンの最期はとても壮絶なんですもん。「エリザベス」及び「ゴールデン・エイジ」が未見なので、基礎知識ができたことだし、見てみようと思います。