Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

アネモネ

2008-05-15 | 四季の草花と樹木
4月半ばから、ほぼ一ヶ月、花壇のあちこちで
花を咲かせてくれています。

ふんわりした花びらと花心の濃い色とのコントラスト。
我が家の花壇ではいちばん好きな花かも知れません。

球根で増えてくれるとはいうものの、
どんどん増えるというわけではなさそうなので
毎年秋にあちこちに追加して植えています。


この真ん中の白い円がかわいいですよね。


これは一重じゃないですね。八重になるんだろうか。


このポンポンみたいな真っ赤な花もアネモネの一種。
近所のお友だちから分けてもらいました。




ラナンキュラス ゴールドコイン

2008-05-13 | 四季の草花と樹木
昨年、友人にほんのひと株分けてもらっただけなのに、
花壇のほとんどを占有するような勢いで増えまして、びっくり。
どんどん、ランナーを出して広がりました。

でも、花がかわいいので良しとします。
花が終わったら、どんどん抜いた方が良さそうです。
だって、来年がえらいことになりそうだもん。

「ゴールドコイン」だけで調べると、違う花が検索されてしまいました。
ナルホド。
ラナンキュラスの仲間なんですね。私が好きなわけだ。



ものすごい勢いで咲いてます。
咲き終わると、べたっと倒れてしまうので、見栄えが悪い。
なので、びゅんびゅん抜いちゃってます。
切り花にして花瓶に入れてみましたら、意外ともつんですよ。これはいい。






復活!

2008-05-13 | 四季の草花と樹木
冬は、雪で気持ちが滅入るし、春になったと思ったら仕事が超忙しい。
というわけで、ごぶさたしていましたが、
我が家の花壇が花咲き乱れていますのでまたまた始めます^^
さて、何から紹介しようかしら…
もう、玄関の前が花だらけで…

最高の人生の見つけ方

2008-05-12 | 外国映画(さ行)
2008年/アメリカ 監督/ロブ・ライナー
<MOVIX京都にて観賞>
「味わいが足りない」



評判が良くて観にいったんですが、正直私は物足りなかったです。

二大俳優に頼りすぎで脚本に粗が目立ちます。そもそも死ぬ前にしたいことが、お金持ちでないとできないことばかりってのはいかがなもんでしょう。もちろん、エドワードとカーター、双方の願いを叶えていくわけですが、どうせ死ぬならゴージャスにやりたいことをやってしまおうぜ。そんなことばかりが目立っています。反発しあっていたふたりの関係性が、もう二転三転してさらに友情を深め合う展開にして欲しかった。エドワードの娘との再会も含め、後半あまりにもさらっと行ってしまいます。こんな展開、私でも書けそうって言ったら言いすぎでしょうか。

神を信じないエドワードと信心深いカーターという設定なのも、そこで反目しあったり、亀裂が生じたりするのかと思いきや、何もなし。じゃあ、なぜそんな設定にしているのかと突っ込まずにはいられません。あちこちに「思わせぶりな伏線」を敷いていながら、結局それらは単なる味付けとして存在しているだけで、物語そのものを突き動かすものではない。「死」を前にした人間同士だからこそ、もっと絞り出すような感情表現やエピソードがあってもいいのではないでしょうか。葬儀での泣かせるスピーチの後「知らない人のために役に立つ」という項目にチェックを入れる。ここだけは、面白いひねりだと思いましたが、あとは全てが予測どおり。下手に泣かせようとしていないのはいいですが、深みが足りなかった。

そして、この邦題はどうでしょう。「最高の人生」そこまで断言しちゃう?そりゃ、ありあまるお金があればね、と皮肉りたくなります。原題は「THE BUCKET LIST」で、劇中では「棺桶リスト」と訳されているのですが、BUCKETっていわゆるバケツのこと。アメリカでは、この単語が棺桶と言う意味を持つのでしょうか。その辺り、英語に詳しくないので何とも言えませんが、バケツなんてものが比喩として使われていることには、何か自嘲的な意味合いが込められているような気がしてなりません。「死ぬまでにしたい10のこと」(こちらは秀作)という邦題を意識して、敢えてかぶらないようにしたのでしょうか。原題が持っている(のかも知れない)悲哀をこの邦題が遠ざけてしまったように感じます。

スパイダーウィックの謎

2008-05-11 | 外国映画(さ行)
2008年/アメリカ 監督/マーク・ウォーターズ
<109シネマズ箕面にて観賞>
「ぴりっと小粒で」



人間を脅かす存在の妖精が森に住み、主人公の屋敷の周りには妖精たちの侵入を防ぐためにストーンサークルが敷かれている。本作のこの基本構造、日本で言うところの「鬼」と「結界」とそっくり。なので、感覚的な部分で日本の子供たちは全く違和感なくこの世界に張り込めるのではないでしょうか。その後展開される出来事も屋敷と家族にまつわることに終始していて、実にコンパクトで身の丈サイズのファンタジーと言えます。

開けてはならない本を開けてしまう、やんちゃな主人公の言うことをママが信じてくれない、などお決まりなパターン部分もありますが、グロテスクでリアルな妖精の造形が面白い。妖精と言うよりもクリーチャーと呼ぶのがふさわしいような生き物ばかり。ちょっと気味悪かったり、おバカだったりして、愛嬌があります。また、妖精の秘密を知ったスパイダーウィック氏は囚われの身になっているというビターな展開も、大人の観賞に堪えうるストーリーと言えるでしょう。原作を読んでいないと楽しめないということもないですし、老若男女、年齢を問わず、誰が子供と一緒に見ても楽しめるという点において、とても評価できる作品じゃないでしょうか。ラストのオチもなかなか面白いです。

SEX and the CITY Season2

2008-05-10 | TVドラマ(海外)
<vol.1>
「だんだん男子禁制ゾーンに突入してきた」

Season2から、4人の友情物語がだんだん深くなってきました。そこで、俄然面白いのは女同士の付き合い方。男にいい女と思われたいというメンタリティは、我々と変わらないと言いましたが、こと女同士では、日本人ではありえないシチュエーションが多数見られるんです。

例えば、友だちが付き合っているBFのことをこてんぱんに言ったり、付き合い方にダメ出ししたり。日本だと、友だちの彼氏の悪口って、友情にヒビが入るもんなんですよね。なので、このドラマが人気があるのは、むしろこう言った女同士の関わり方で我々ができないことをやってのけている爽快さにあるのかも知れない、と思ったりするわけです。だって、友だちのBF見て、「なんであんなヤツと付き合ってんの?」って思ったことないですか?でも、口には出せないでしょ。

そして、彼とのセックスで避妊具(女性が体に装着するものね。恥ずかしくて書けないよ)がずれたから見てくれ、とキャリーが友人にお願いするシーン。これは、もうお口アングリでした。このドラマで見てきたどんなセックスシーンよりも一番驚きましたねえ。その時サマンサが言ったセリフが「ネイル塗ったばかりなのに」ってのが、これまた唖然で。日本人じゃ、絶対、ありえないでしょ?なるほど、そういう関係性なら、彼とのセックス話も何でもかんでも話せるよなあ、と変なところで感心することしきり。

それから、ランチタイムにレストランで大声でセックスの話してます。これ、いわゆる「お決まりシーン」なんですけど、日本じゃ隣のテーブルが気になって絶対無理。酔いに任せてBARでこっそり打ち明け話がせいぜいです。しかも、彼とベッドの中で何をどうしたか、隅から隅まで報告してますもんね。聞いてる分には大笑い。もし、こんな友人がいてホントに全部報告されたら困ります。なので、まさに隣のテーブルで耳ダンボな人になった気分で見てます。


<vol.2>
「恋愛のパワーバランス」

困った。だんだんキャリーがイヤなオンナになっていきます。コラムニストのキャリアウーマンで、親友がゲイなんて設定なのに、男に依存度高い、高い。彼の部屋の洗面所に少しずつこっそり私物を残すなんて。しかも、歯ブラシですよ、歯ブラシ!おいおい、これ日本のクサイ恋愛モノでもよくある光景じゃないですか。自分の存在を男の世界にねじ込む、世界共通のパターンなんですね。私が男ならこういうオンナは別れます。だんだん、ビッグが気の毒になってきました。

結局、恋愛とは相手次第でパワーバランスはびっくりするほど変わるということ。ビッグという男は、自由人を気取り、彼女の友人たちの前に出るのを嫌がり、仕事やプライベートの相談も彼女にはしないタイプ。端から見ていると、サッパリしている分付き合いやすい男だと思えるのですが、女心は複雑。なんだかんだ言って「愛されている実感」が欲しいのです。たまにはベタベタしたり、堂々とBFづらして欲しいのです。かといって、ミランダが付き合い始めたスティーブのような朝も夜も付きまとってくるような相手にはウンザリしてしまうんですよ、きっと。

相手次第で優位になったり、劣勢になったり。それが、セルフコントロール不可能な恋愛のパワーバランス。ちょっとしたきっかけで天秤棒はあっちに傾いたり、こっちに傾いたりするのですが、変化を相手に求めていては無理ですね。やはり、変えられるのは自分だけ。キャリー、もっとシャキッとしなさい。

<vol.3>
「ほーら、言った通りじゃないの!」


君は素晴らしいと連呼してくれる男、出会って間もないけど君を愛していると断言してくれる男に対して「私たちちょっと距離を置いた方がいい」と引きまくるキャリー。ほら、言った通りじゃないのよ!ビッグにはあんなに愛をアピールして欲しがってたくせに、そういう男が現れるとウザいし、まだ信用できないって態度に出るんだ。ちょっとズルくないか、キャリー。さて、この巻でひとまずビッグは結婚してしまうけど、どうも彼の存在はずっとひきずりそう。ってか、さっき秋公開の映画のトレーラー見たら、ビッグ出てるし!えーっ、まだまだこの男引きずるんですかぁ。

さて、失恋や仕事のストレスで「靴を買う」ってのがよく出てくるんですけど、コレ大納得ですねえ。ジミー・チュウやマロノ・ブラニク。(「マリー・アントワネット」でも使われていたカラフルで超カワイイ靴たちもマロノ・ブラニク)。300ドルはするであろうオシャレな靴をバンバン買い込んで、紙袋ぶらさげて街を闊歩する。これ働くオンナの夢です。やっぱり靴は仕事のモチベーションを鼓舞させるアイテム。働きマンを阻む障害物は、全部この靴で踏みつけてやるってね。んで、こんなに高い靴買ったんだから、頑張って稼ぐしかねーよってことで、堂々巡りです。

4人の誰かに自分と似たところを感じて感情移入してしまう。そして、このグループの一員になったつもりでみんなの恋の行く末が気になっちゃう。そこが、このドラマの面白さですけど、あいかわらず私はミランダ派だな。自分のテリトリーがないとイヤなの。たまには、ひとりでゆっくり本を読みたいタイプ。そして、一番うっとーしいのが、シャーロット。だってね、この子結婚願望大きいくせに、尻軽でツマラン男に騙されすぎですよ。しかも、友だちを振り回しすぎ。おかしなセックスヨガ教室にみんなの分も申し込んだとか駄々こねちゃって。あたしなら即刻縁を切ります。他の3人は寛大だなー。まあ、この子のお馬鹿っぷりにアタシみたいな視聴者が突っ込むというのも、一つのパターンなんでしょうね、このドラマの。つーことは、すっかりのせられてるってことね…。

ベニーズ・ビデオ

2008-05-09 | 外国映画(は行)
★★★★★ 1992年/オーストリア 監督/ミヒャエル・ハネケ
「もはや現実は映像の中にしかないのか 」



「感情の氷河期 第二作」

ベニーは「映像」と「現実」の境がつかなくなっているのだけど、その曖昧さと言うのは、観客である我々自身も既にどっぷりそうなっているんじゃないか、と思って戦慄してしまう。なぜなら、このベニーと言う少年の心情、そして死体を隠蔽しようとする両親の異常性、共にスクリーンを通じて観ていると何となくわかったような、共鳴してしまうような感覚に陥ってしまうから。例えば、自分の隣の家の少年が実際に犯罪を犯し、両親が隠蔽工作をしたとする。それを、私は事実として受け止められるだろうか。おそらく、理解したくない、知りたくない、拒否反応が先立つような気がする。つまり、スクリーンの中のベニーには深く入り込めても、実在する隣の少年には入り込めないかも知れない。

結局、現代人って「何かを媒介する」ことでしか、物事を受け止められない体質になってるんじゃないのだろうか。その媒介がビデオであり、テレビであり、ラジオであり、映画である。本作では、戦争や政治などのシビアな話題から、天気予報に至るまで、ラジオのニュースもあちこちで挿入されている。ラジオから聞こえてくる戦争のニュースは、あまり現実味がない。だけど、実際に起きていることには間違いない。その事実を確かめたくて、今度はテレビを見る。戦場で逃げまどう人々を見てようやく戦争を実感する。時には、かわいそうになって涙を流したりするかも知れない。しかし、その涙は映像と言う媒介物があってこそ、生まれたものであって、本当に戦争を心から憎んで生まれる涙じゃない。

また、息子と母がエジプトに逃避行した時に、ホテルの部屋のテレビ映像が幾度となく映されるのだけど、もしかしたら、ベニーは実際に観光しているよりも、そのテレビ映像によって、そこがエジプトなんだというのを強く実感しているのかも知れない。そう考えると、旅行先のホテルでテレビを見て、自分がどこにいるかを実感することって、我々にもよくあることだと思い出す。

だから、映像って実に怖いメディアなんだ。映画だと思って見ているものが実はビデオだったという二重構造も、ハネケから映像を鵜呑みにしちゃいけない、という我々に対するお仕置きのような気がしてしまう。もちろん、このラストにもたらされる二重構造が驚くべきどんでん返しになっていることは、映画作品としての大きなカタルシスを観客に与える。つまり、お説教しながら、映画としての楽しさも味わわせてしまう。そこが、ハネケの凄いところ。

それにしても、物事をこれほど客観的に捉えるという作業は、一筋縄じゃ行かないだろう。殺害の事実を知った後の母親の愚鈍な描写なんて、私が女優なら降板したいと思うくらい。とはいえ、デビュー作ほど、登場人物の行動は不可解ではないし、ハネケ作品の中では比較的わかりやすい部類だと思う。少年の抱える闇とメディアがテーマなので、多くの人にぜひ見て欲しいと思う。

ノーカントリー

2008-05-08 | 外国映画(な行)
★★★★ 2007年/日本 監督/ジョエル・コーエン
<TOHOシネマズ梅田にて観賞>
「ハビエルの不気味さをとことん味わうことこそ醍醐味」


「アカデミー受賞」という冠は鑑賞者に、どうしても様々な先入観を与えてしまうので、良し悪しだと思うのです。私もこれまでコーエン兄弟の作品は「ブラッドシンプル」や「ファーゴ」「バーバー」など何作も見ていますが、個人的にはウマが合わない監督です。確かに映像は非常にスタイリッシュだと思うのですが、彼が取り上げるテーマにあまり共感できた試しがありません。というわけで、この「ノーカントリー」ですが、やはり「なぜこの作品がアカデミーを獲ったのか」という目線でどうしても見てしまうんですよね。それは、避けた方がいいに違いないのですが。

さて、本作はとどのつまり、物語としてはとてもシンプルで、最近の犯罪はワシの手に負えんとサジを投げる老保安官の物語。もちろん、そこには1980年のアメリカが投影されていて、その一時代を見事に切り取った作品なんだろうと思います。現代アメリカを考察するにも、この時代がターニングポイントとして重要ということでしょう。現金を持ち逃げするのが、ベトナムからの帰還兵であるということもミソで、例えば一部をネコババしてしらを切ることもできるのに、まるで自ら地獄行きを望むかのように、または自ら挑戦するかのように、全ての現金を持ち逃げしてしまいます。

そこには、ベトナムで味わった敗北感を取り戻すためとか、いろんな理由を見つけることができるのでしょう。ルウェリンのようなベトナムを経験した人なら、ルウェリンがなぜあそこまで全額強奪&逃避行にこだわったのか、十人十色の理由がひねり出せるのかも知れません。

そして、亡き父の後ろ姿を夢に見たというラストシークエンスも、アメリカという国そのものが持っていた父性の喪失、ということでしょう。ここは、非常にわかりやすいエンディングです。殺し屋が象徴するところの理解不能なものに押しつぶされていく、アメリカ人の苦悩、嘆き、あきらめetc…。

しかしですね、アメリカの来し方行く末に興味のない私にとっては、正直勝手に嘆いてらっしゃい、という感じなの。ぶっちゃけ、アメリカ人がアメリカを憂うという構図に何の感慨も持てないし、どう転ぼうとアメリカのやることは全て自業自得。外部の圧力によってにっちもさっちも行かなくなっているアフリカ諸国などの状況と比べると、憂う前にアンタが世界にまき散らしている悪行をまずは何とかしなさいよ、とか思ったりしてしまうのです。あまのじゃくですから。

しかし、この湿っぽい自己反省のような作品を俄然エンターテイメントとして面白くさせているのは、とにもかくにも殺し屋シュガー(ハビエル・バルデム)の不気味さにあります。彼の存在感がその湿っぽさを凌駕している。そこが面白かった。そして、その不気味さをあの手この手で印象的に見せる演出に、コーエン兄弟でしかできないオリジナリティがあふれています。スイッチの入っていないテレビの暗いモニターに映るシュガーのシルエット、アスファルトでごろごろと引きずられるガスボンベ。

最も秀逸だったのは、ガソリンスタンドのおやじとの全く噛み合わない会話の後のコイントスのシーンでしょう。理解できない、意思が通じない、そんなコミュニケーション不全を見事に表現しています。ここは本当に恐ろしかった。見終わった後だからこそ、これがなぜアカデミーなの?とか考えますけど、観賞中は、とことんシュガーの不気味さに圧倒され、ラストまであっと言う間。神出鬼没の殺し屋が引き起こす脇の下に汗をかくような緊張感をとことん楽しみました。

パッチギ!LOVE&PEACE

2008-05-07 | 日本映画(は行)
★★★☆ 2007年/日本 監督/井筒和幸
「主張は強いけど、元気がない」


いつものパワーがない。元気の良さ、ノリの良さがないのよ。最初のケンカのシーンが面白かっただけに余計に終盤まで中だるみな感じなの。主演の2人からも、何があっても生きてやる!ってエネルギーをあまり感じられなかった。きっと、それは井筒監督がそういう演出にしてないからだと思う。今作、監督の主張がいっぱい入ってるので、元気の良さを敢えて封印してしまったんだろうか。それから、主演の中村ゆりは下手ではないけれど、あまりにもピュアピュアなキャラクターで、私は引いてしまった。キョンジャってもっと芯の強いオンナではなかったかしら。子供が病気になってしまう、という状況も手伝って、非常に湿度の高い映画となってしまった。内容は、じめっとしていても、カラッとした演出でパワフルに見せる、それが井筒作品だと思ってたのに。

そして、気になったのが、各シークエンスが短くて、場面転換がせわしないこと。そのくせ、キョンジャと野村が居酒屋で飲むシーンとか、アンソンが佐藤と民宿でゴロゴロしてるシーンなど無駄なシーンが多い。主張の強さをそのせわしないカット割りでごまかされているような気がしてしまう。シーン数減らして、もっとじっくりカメラ回せばいいのに。で、最後にはは殴り合わんとあかんのでしょうか、井筒さん。そこが、どうにもこうにも、しこりのように胸に残りました。ラストの舞台挨拶の後の乱闘シーン。やっぱり、そうなるんかって、寂しかった。そう感じる私は甘いんやろか。

セブンス・コンチネント

2008-05-06 | 外国映画(さ行)
★★★★★ 1989年/オーストリア 監督/ミヒャエル/ハネケ
「デビュー作からサディストぶり全開」



「感情の氷河期 三部作」なんてネーミングからして哲学者みたいだな。とんでもない展開の映画ながら、ふーんとかはぁーとかほぉーとか感心している内に終わってしまった。

最初から最後まで観客は不安で不安でたまらない。両親と娘ひとりという核家族の日常が淡々と描かれてゆくが、物語がちっとも紡がれない。断片的にそれぞれの生活シーンが挿入されていくだけ。特に娘は何か精神的な問題を抱えているように見えるが、その原因など全く不明。
そして、表情(顔)を映さない。手元を映したシーンが実に多い。おそらく、全体の半分以上は手元、または静止画ではないだろうか。つまり、そこで人物は喜んでいるのか、悲しんでいるのかが予測できない。しかし、手の動きはイマジネーションのきっかけは与えてくれる。買い物をする手、食器を片づける手…etc。それらの映像から、観客は何とか物語の前後を埋めようと苦心する。もしかしたら、手元の映像だけで映画って作れてしまうものじゃないか、なんてあらぬ方向へと考えが及んでしまった。映像から温度を感じられないことも不安の一端。
最後に、スクリーンが真っ暗になること。エピソードとエピソードの間、必ずスクリーンが真っ暗になる。その間、約3秒くらいか。これが実に中途半端で居心地の悪い間(ま)なの。このまま、映画が終わってしまうんじゃないかってくらい。

これだけ、観ていて不安でありながら、スクリーンに惹きつけられて仕方ない。もういいや、と止める気にはなれない。それは、物語の断片と手元の映像というほんの少しの「エサ」に、観客がつられているからだろう。これは、人間の本能かも知れないなあ。ちょっと見せられたら知りたくなるっていう人間の本能。そういう条件反射的な本能をつついてくるハネケって、やっぱ根っからのサディストなんだろう。

ラストの破壊シーンは息を呑むばかりだけど、一方でその徹底ぶりに爽快感すら覚えてくる。我々が享受している文明を全てこの世から排除する彼らの行動は、もしかしてとても真っ当な行為なんじゃないかとすら。大学で哲学と心理学を学んだということで、その世界観は彼なりの理論でがっしりと構築されているようなんだけど、一方モノだけを取り出したカットなんて、そのままポスターやポストカードにしても映えるような機能的な美しさがあるのね。本当に一分の隙もない作品。天晴れというしかない。

薔薇の葬列

2008-05-05 | 日本映画(は行)
★★★★★ 1969年/日本 監督/松本俊夫
「新宿に現れた妖しきオイディプス」


のっけからエディとパトロンの叔父様のベッドシーンで幕を開けます。エディの裸身をカメラが舐めるように捉えていくのが、すごくキレイ。体の一部が艶めかしいアップで次々と現れる。モノクロームの映画って、なんて美しいのと思わせられます。主役のゲイボーイを若きピーターが演じていますが、これがまた妖しいのなんの。長い付け睫毛にぽっちゃりした唇で。ところがね、このエディがゲイボーイになる前のシーンが何度か登場しますけど、普通の少年の姿で敢えてノーメイクで暗い男の子を演じさせられているの。それが、ピーター自身のリアルストーリーとかぶって何だか切ない。

ピーターは幼い頃両親が離婚し、東京でゲイボーイをしていて何度か連れ戻されたという話を聞いたことがあります。(確かお父さんは日本舞踊の名手で人間国宝の偉い方ではなかったかしら…)この「薔薇の葬列」という作品も父に捨てられた息子の物語。また、当時の学生運動やアングラ劇団の様子も挿入され「現実」と「虚構」が入り乱れた独特の世界観が作り出されています。

タイトルともかぶる「葬列」を思わせるストリートパフォーマンスを群衆の中でひとり見つめるエディ。女の子の格好をしたエディを奇異な目で見つめる人々。これらのゲリラ撮影もいかにもATGという感じですが、当時の生っぽさがびんびんに伝わってくる。地下のゲイバーに蠢く人々、自称ゲバラと名乗る映画監督とその仲間たち。いやはや、本当にこの時代の新宿界隈は怪しい。怪しすぎる。できることならタイムトリップして、この退廃を共に味わいたいと心底思っちゃう。

エディと言う名は、エディプスコンプレックスのエディでしょう。元になったギリシャ悲劇のオイディプス王は父を殺し実の母と姦通しますが、本作のエディはその逆。我が母をその手で殺し、我知らぬ内に実の父と姦通するのです。なんとまあ、衝撃的なお話でしょう。でも、このいかがわしさがたまりません。禁断の果実ですね。禁断だからこそ魅惑的なんです。己の目に刃を突き刺したまま、路頭に飛び出すエディ。デビュー作ながらその体当たりの演技でラストまで我々を魅了します。エディが主演を務める映画内映画や突然の淀川長治のコメント挿入、ゲイボーイたちへのリアルインタビューなど、実験的な要素もふんだんに盛り込まれていて、本当にイカした映画です。

余談ですが、エディのファッションをキューブリックが「時計仕掛け」を作る際に参考にしたって話があるんですが、本当かしらね。

バブルへGO!タイムマシンはドラム式

2008-05-04 | 日本映画(は行)
★★ 2006年/日本 監督/馬場康夫
「何も描いていない」


映画なら何でもつい見てしまう映画好きの性で見てしまいました。が、映画館で見ていたら暴れていたかも知れません。

タイムスリップまでしてなぜ今バブルを描くのか、それこそが本作の主要本題ですね。しかし、何も描いていない。徹底的にバブルを笑い飛ばしたかったのか、それともあの時代を痛烈に皮肉りたいのか、またはあの頃をとことん懐かしむのか、そのどれでもない。懐かしむだけならまだ「ALWAYS」の方がましです。つまり、この映画の企画そのものがずさんなのです。企画書見せて欲しいくらいです。企画がなってない上に脚本もダメ。お座敷のケンカシーンのグダグダ感はこれがプロの手による撮影なのか、という気すらしました。

ホイチョイプロなら、おそらくバブルの恩恵を嫌と言うほど受けたはずです。なのに、なぜこのようなしょぼい描写の連続なのでしょう。あの時、ちょうど私は大学生で、週に3日はタダでディスコに通い、ボディコン着て朝まで踊り続けてました。高額なバイトが巷にあふれ労せずとも遊ぶお金が手に入りました。今思い起こせば心底恥ずかしくなるほどの浮かれポンチでした。当時の象徴と言えば、不動産、外車、ブランドスーツ、高級腕時計などのアイテムがいくらでも列挙できます。しかし、札束見せてタクシー止めたり、一等商品が現金200万円だったり、あまりにもワンパターンな描写が続き頭を抱えたくなりました。ホイチョイならあの頃のリアルを知らないはずはなかろうに。

バブルを描くということは、アリなネタだと思います。やりようによっては面白くなるモチーフでしょう。しかし、全く中身がないのだからどうしようもありません。何もあの頃を見つめ直せとか、日本経済の転換期としてしっかり描けと言っているわけではありません。映画としての中身が空っぽなんです。また、音楽が薄い。バブルを描くなら、もっと音楽に力を入れましょうよ。ディスコソウルに始まりブリティッシュ・ニューウェイヴからユーロビートへとバブル期のめくるめく音楽シーンは、当時を表現するには格好の材料のはず。それが、「Can't Take My Eyes Off You」の繰り返しですからね。あまりにもステレオタイプで悲しくなりました。制作者の方は「ブギーナイツ」でも見てお勉強してください。

天然コケッコー

2008-05-03 | 日本映画(た行)
★★★★★ 2006年/日本 監督/山下敦弘
「スタンダードにしてスタンダードに非ず」


「ジョゼ」や「メゾン・ド・ヒミコ」を書いた脚本家渡辺あやとのコラボレーション。胸一杯に膨らんだ期待を見事に満足させてもらった1本でした。山下作品と言えば軽妙な「間」のセンスを活かした作風ですが、狙い澄ましたような「間」は本作では多用していません。バカの一つ覚えみたいで恐縮ですが、やはり構図ですね。とても美しいカットの連続です。エピソードとエピソードの間にインサートされる花やトマト、稲穂などのカットは田舎を表現するにはあまりのも凡庸なアイテムでありながら、実に清々しくスクリーンを満たします。草花の位置から青空を取り込んだ「あおり」のショットなど、本来ありきたりで見飽きた構図のはずなのに、その美しさに見とれてしまう。また、浜辺や田園風景を捉えたロングショットもきれいです。

そして、「間」の代わりに本作では「ゆるやかな時の流れ」を捉えようとしたかにも思えます。スクリーンの右から子供たちが現れ、左へと消えていく。そんななんでもないシーンでも、田舎ののどかさを存分に味わえます。子供たちの歩く速さがとにかく遅いのです。しかも、これだけ田舎の子供たちならおそらく自転車に乗るはずです。でも出てきません。バスが走る絵もありません。山下監督は「速度」を感じさせるものを極力スクリーンから排除したのではないでしょうか。それでも、パシッと決まって見えるのは、構図とトリミングの巧さだろうと思います。これがしっかりしていれば、コメディだろうが青春物語だろうが何でも撮れるんですね。

自分のことを「わし」と呼ぶ主演の夏帆ちゃんがとってもキュートです。原作を読んでいないのですが、天然コケッコーとは天然ボケの天然なんでしょうか?ふわふわして人のいい中学生を実に魅力的に演じています。中坊の恋愛なのに、後半だんだん切ないムードまっしぐらでオバサンは胸がキュンキュンしてしまいました。また、大沢くんという転校生を演じる岡田将生もいいですね。デビューした頃の市川隼人を思い出させます。最初は東京から来た嫌な奴かと思いましたがすぐにそよに恋してしまうなんて。まあ、まずはチューありきなんですが、それもまた、甘酸っぱいですね。

さて、「リアリズムの宿」でオシャレ過ぎると感じたくるりの音楽ですが、本作では見事にハマりました。また、佐藤浩市という有名俳優が出演していますが、後ろ姿だけ、ステテコの足元だけみたいなショットがあったりして、全く気負いを感じさせません。山下監督らしいゆるい一定のペースは常に保たれています。そして、ブラックテイストに満ち満ちた「松ヶ根乱射事件」の後がこの作品というその落差が何より愉快でたまりません。次はどんな1本になることやら、その予測の付かなさを大いに楽しみにしたいと思います。

リアリズムの宿

2008-05-02 | 日本映画(や・ら・わ行)
★★★★☆ 2004年/日本 監督/山下敦弘
「ダメ男三部作、完結編」


しっかり構図をキメて撮ってるなあ、というのが第一印象。横長スクリーンを効果的に使う基本形、とも言えるべき構図ばかりではないでしょうか。このキメキメであまりにシンプルな構図は見ていて気持ちいいです。もし、構図がゆるゆるだったら、物語のすさまじい間延び感と相まって、退屈で退屈でたまらない作品になっていたでしょう。構図が作品全体のテンポやリズム感の役割を果たしています。

これまでの作品同様、本作でも山下流ボケが連発されます。「ばかのハコ船」で大勢を笑わせようとは思ってないと書きましたけど、本作ではさらに「オチ」をつけようと思ってないんじゃないか、とまで思わされます。私は生粋の大阪人なので、ボケには必ずツッこむ、ふったネタは必ず落とす、という流れが染みついているんですが、そういう匂いが全然しないの。もちろん、見ていてプッと笑ってしまうカットは、結果的には「オチてる」という事なんでしょうけど、作り手側が「おとしてやろう」とはたぶん思ってない。その、のびのび感が山下作品の味なんですね。これは、おそらく共同脚本の向井康介のセンスも多分にあるんじゃないでしょうか。

ダメ男三部作の完結編ですが、男たちに負けてないダメ宿っぷりが秀逸です。最後の宿なんて、風呂場のシーンで本当に気分が悪くなりました。カビの生えたタイル、吐瀉物の溜まった排水溝、椅子の上の入れ歯…。「どんてん生活」の部屋もそうでしたが、ありえな~い!的汚い描写がうまいです。ただ、こういうインパクトのあるシチュエーションがありながら、作品全体としてはパワーダウンした感じが否めません。それは、おそらく前作「ばかのハコ船」の完成度がとても高かったからでしょう。また、突然旅に加わる「あっちゃん」という女性がどうも私には受け入れられなくて。旅の途中でかわいい女の子に出会うというシチュエーションは、男性の方がしっぽり来るのかも知れないです。でも、裸で浜辺を走ってくるロングショットはとてもいいですよ。

さて、音楽をくるりが担当。古い作品から順番に見ていくと、むしろ楽曲の完成度が裏目に出たかな。音楽シーン全体を見渡すとくるりって抜けた感じが心地よいバンドですが、山下作品にはオシャレ過ぎる感じもします。長塚圭史という有名人も加入しているし、このあたりから山下作品がメジャー化していくんですね。