ひさしぶりに大東亜戦争(太平洋戦争)のことを書く。あまりにもテーマが大きくて重いので、今回の3回目でとりあえず終了する。
ここでは、無理やり、わたし自身の身近な話題に変えよう。わが田舎では父は戦争に行っていない。その替わり、父は農業のかたわら馬喰(バクロウ)をやっていたので当地で陸軍に納める軍馬の調達を任務としていたらしい。わたしの父はすでに30年前に亡くなったが、そのことばかりではなくてもわたしが生まれる前であり実際のことは不明である。今となれば、もっと、いろいろ父に聞いていればよかったが。
近くの岩手県南部の一関市、花泉町には空襲があった。それは、なかなか日本が降伏しないので地方都市まで空爆範囲を広げていったらしい。このことは、その後の読書で分かっている。その時期は昭和20年敗戦(終戦)の年、3月の東京大空襲、硫黄島玉砕、それに5月に米軍の沖縄上陸の後だったろう。サイパンを飛び立ったB29爆撃機によるもので、多分6月か7月だろう。いよいよ最後にあの原子爆弾の投下である。
戦争の痕跡としては、我が家の登って行った裏山に太い赤松林があるのだが、それが幹自体に斜めに上から下へ刻み傷を何重にもあったことである。ちょうど漆掻きのようである。戦中の石油不足かどうかはにわかに決められないが、松根油(松脂)を取るためである。
その次に思い出すのは、わたしの小学生の時分、アメリカの伝道師の連中がキリスト教の宣布活動にあんな片田舎に来ていたことである。聖書を持った牧師に路傍や田んぼや畑の畔道で呼び止められて話を聞く。後年、彼の自伝を読むとこのことは日本を占領した駐留米軍(GHQ)のマッカーサー最高司令官の発意であったらしい。
以下は蛇足である。戦争直後の言語についてである。これは全く記憶をもとにあて推量だから、読まれている方に誤っていたら教えていただきたい。
これはかなり勝手な推測だが、戦後に駐留米軍が持ち込んだ英語に、帽子のチャップ(cap)、ジャケツ(jacket)、トランプのぺーじわんのうさい(page one no signe)、お手玉のせっせっぱらっとせっ(set! set! put up set!)、車の後進の掛け声であるバックオーライ(back all light) などの言葉が日本語なまりに定着したのではないだろうか。当時はラジオ放送や映画館でのニュース映画が娯楽で、日本全国の津々浦々までつたわり耳で覚えたものではないだろうか。