うざね博士のブログ

緑の仕事を営むかたわら、赤裸々、かつ言いたい放題のうざね博士の日記。ユニークなH・Pも開設。

施工管理技術者としての仕事

2019年12月16日 05時46分05秒 | わたしの日常です。
 わたしの施工管理技術者としての仕事は、長年、勤めていた造園会社の業務縮小による退職後、自営業を数年間おこなったあとに就いた職業である。この後造園会社は倒産したが、結局、推定の退職金2,300万円は貰えずじまいであった。その会社での最終的な役職名は業務部長兼設計室長である。
わたしの60歳直前に、福岡県北九州市に本社がある散水機器・道具/浄水器製造販売会社での新規事業部門を立ち上げた(屋上緑化計画)会社に入社する。後で知ったことだが就職情報誌リクナビの250倍の応募の中でたった一人正社員に採用されたらしい。役目は、その事業について全国にある営業拠点での業務展開、現社員に対する教育、指導、体制づくりである。しかし、最終的に社内で要求されたわたしの国家資格貸与拒否による理由で一年足らずで退社する。この業務の本体は全国展開で散水機器ではシェア60%を誇る発展中のワンマン社長経営の企業であった。
 本格的な派遣業務としては自宅近くに位置する千葉市独自の市民ゴルフ場の植栽工事担当が最初であった。ゴルフ場はごみ集積場を埋め立てて出来た本格的な9ホールである。どうやら、植栽専門の分野では人手不足で、かつて当時の民主党政権によって廃止された都内の有楽町の人材銀行にわたしが登録していたのをあるコンサルタント会社が探し出したらしい。
 次は市原にあるURの3つの近隣公園などの新設工事までは造園担当であった。そのうちに専門分野外である一般土木を手始めに、宅地造成、道路舗装、東北の放射能除染、震災復興支援業務、成田空港での誘導路舗装、北越自動車道での高速道路の橋梁床版取替え、岩手県内の国道の新設橋梁やトンネル工事を担当するに至っている。単身赴任で行った先は、色々な業務を受けて関東地区から次に東日本大震災による災害復興工事で福島、そして希望して行ったわたしの郷里に近い宮城県気仙沼市、自宅通勤の千葉の成田空港、新潟県長岡市、岩手県宮古市と続いた。
 というふうに書くと、まるで業務経歴書のようで無味乾燥だが、好きな造園のみではなく見様見まねで土木工事までテリトリーが広がったのは生活費を稼ぐことが唯一の理由である。わたし自身には半世紀も前に身一つ地方出身者として出て来たからには業務展開できる資産があるでもなく、雇われて勤め人で収入を得るしかなかった。現時点では、お金は老後の生活を補うためで、ひっそり細々と暮らす分には現状でもなんとかやっていけるが、対外的な行動や自らがやるべきことをかなえるには先立つものがいる。その目的は生きて来たからには晩節を汚すことなく、後顧の憂いなく実現したいものだ。
 この間に出会った同僚は一種の人生の落後者が多くいた。当然なことに技術者がほとんどではあった。その人たちの経歴はいろいろだ。大企業のゼネコンや役所の技術職の中途退社、工務店自営者、企業倒産、自己破産者、夜逃げ、ひょっとしたら前科者もいたかもしれない。一匹狼か、家庭崩壊者、家族問題、妙な少女ファンの追っかけ趣味に走り独身者を貫かざる得なかった者、言ってみれば多種多様な人生模様だ。わたしにとってはその人の世の煩雑さに辟易しつつ、ある程度は我慢、我慢の道筋であった。そこでは、昔、わたしの20代半ばころにバイト生活で垣間見た世間の人生の裏街道を行く人々を思い出したもの。その様々な挿話については、まあ、読物でも大衆小説にでも書きたいぐらいである。 
 年金受給前にはハローワークからの失業保険もいただいたが、まだまだ住宅ローンもありやみくもにこの業務に進んできた。わたしには出張はともかく単身赴任生活も社員時代のバリバリの現役では全く経験がなくて、60歳も過ぎてやむを得ずというのが実情であった。 
 そして、年金受給開始もあり、ローンの支払いが済んで、初めて貯金というものをした。わたしの人生として初めてのことだ。このことはわたしにとって極めて不思議な経験でなんとなく落ち着かない気分、勿論うれしいことであるが、これからの人生に不思議な明るさをともなったものであった。つまり、やり残して来たことに気づきそれを成就せねばという展望が持てたのである。
 この記事はどこかの時点で書き継ぐかもしれない。
                  
コメント
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