落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

高雄ブルース

2009年07月19日 | movie
『あなたなしでは生きていけない』

貧しい港湾労働者のウーションは娘のメイとふたり暮らし。7歳になったメイを学校にやりたくて戸籍に登録しようとするのだが、蒸発した母親と正式に結婚していなかった彼には親権がない。当惑したウーションは、同窓生の議員を頼って台北まで出かけていくが・・・。
先週開催された台北電影節でグランプリ・最優秀主演男優賞・最優秀助演男優賞・媒体推薦賞の四冠を獲得した傑作。監督は俳優としても有名な戴立忍(レオン・ダイ)。

すばらしー。すごいよかったです。
2003年に実際に起きた事件を基にしてるそーですが。なんかあんまりそーゆー感じはしないです。すごくシンプルで、淡々としてて。
トーンは侯孝賢(ホウ・シャオシェン)そっくりですね。出演者も素人だし、主役がほとんど喋らないところも似てる。北野映画にもちょっと近いかな。
とくにぐりがいいなと思ったのは主人公父娘の独特の関係。無口でただただ働く以外に能のないウーションは少年のようだし(でも40代)、一生懸命に父を支えるメイには子どもらしさがまったくなく、異様に大人びて見える。ときどきふたりが父娘というより恋人同士のように見えたり、共犯者のように見えたり(『レオン』のジャン・レノとナタリー・ポートマンみたいな)、母と息子のように見えたりもする。互いに依存しあっているふたりだが、画面に甘さはない。どこか必死な緊迫感さえ漂う。微妙にセクシュアルにさえ感じられる。
なので父と娘の感動ストーリーなのに安易なセンチメンタリズムには決して流れず、どこかビターなハードボイルドのような映画に仕上がっている。だからこそ、たった一度流される涙が強烈に効く。ハイセンスです。

ひとつ残念だったのは音楽がチープだったこと。
これはこの作品に限らず昨今の台湾映画全般にいえることなのだが、もしかして台湾にはきちんとしたスコアが書ける映画音楽作家はいないのだろーか?ちょっといいなと思えば香港や日本のアーティストだったり、映画自体はすごくよくても音楽が全部打ち込み系の、ありきたりで非印象的な環境音楽っぽいのだったりすると手抜きみたいです。せっかくのいい話がもったいなさすぎる。
映画としての完成度は非常に高いし、監督も日本でも知られた人なので、これは是非とも一般公開してほしい。このまま誰にも観られないなんてもったいなさすぎです。

過越祭の晩餐

2009年07月19日 | movie
『ノラの遺言』

63歳で自ら命を断ったノラ。死の直前、彼女は「過越祭」の晩餐を下ごしらえし、親類に晩餐の手伝いを頼み、冷凍の肉を注文し、コーヒーポットを満たしておいた。弔いに集う人々をもてなすために。
ところが最初に遺体を発見した元夫ホセは彼女の計画にことごとく反発し、ラビの心証を損ねてしまう。

メキシコ版『お葬式』ですね。ユダヤ版とゆーべきか?台詞がスペイン語ってゆー以外にメキシコっぽさは全然ないから。画面も家からほとんど出ないし。
ひじょーにおもしろかったです。ハイ。ユダヤ教の厳格なしきたりにふりまわされるドタバタも笑えるし、しきりに「二十年も前に離婚した」「妻だ」なんて連発しつつも、本音ではその事実を受入れられないでいる主人公ホセの偏屈ぶりもかわいい。
いちばん興味深かったのは、離婚してからも通りを挟んで向いに住む元夫を監視しつづけていたノラのパーソナリティなのだが、残念ながら彼女は劇中では多くを語らない。この設定は実は監督自身の祖父母の間にあった事実を基にしているという。事実は小説よりも奇なりとはゆーけど、ホントです。何度も自殺未遂を繰返した祖母がついに亡くなったとき、最初に気づいたのは祖父だったというのも実際にあったことだそーだ。もちろんその他のストーリーは完全にフィクションなんだけど。

劇中ではこの夫婦がどうして離婚したのか、離婚してもなお家族として一定の距離を保っていたのはなぜなのかという説明はない。
でも人間の心は複雑なものだ。たとえ愛しあっていてもいっしょには暮せない、それでも他人になることはできない、という不条理もまた人間が生きているからこそ生まれる謎なのだろう。
埋葬のとき、ラビがホセにいう。「苦しみを引き継ぐな。そうでなくても人は苦しい」。
埋葬の後で、人々はノラが用意した料理を食べ、彼女が書いてくれた手紙を読む。彼らは二度とふたたび彼女に会うことはできない。声を聞くことも、微笑みあうこともできない。だが彼らの中に確かに彼女は生きている。その彼女を、生前のように苦しめる必要はもうない。彼らはまだ生きていて、生きていることはそれだけでも苦しい。
それでも、二度と会えない愛しい人をしのぶ甘い感覚にひたれるのは、人が生きているからこその証明なのだともいえる。
そう思えば、死は別れではなく、新たにもういちど彼の人に出会うことなのかもしれない。