落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

終の栖

2009年07月22日 | movie
『安らぎの家を探して』

高齢になるにつれ住宅事情が逼迫するセクシュアル・マイノリティのための集合住宅「トライアングル・スクエア」計画についてのドキュメンタリー。
LA近辺に住む7人のレズビアンとゲイの入居希望者に18ヶ月間密着し、それぞれの生い立ち、現在の生活環境についてインタビュー。彼らが「トライアングル・スクエア」に応募し、抽選と審査を経て入居が決まるまでを取材している。

うーん。
「トライアングル・スクエア」計画そのものはとってもいい計画だと思うんですがー。ぶっちゃけ映画としてはちょー退屈でしたん・・・。
あのねー。具体性に乏しいのよ。字幕のせいかもしれないけど、すごいわかりにくかった。こんな夢のような計画がいかにして実現可能になったのか、そこがいちばんしりたいのに、結局最後まで観てもよくわかんないわけよ。
立地も良い、環境も良い、設備も整ってる、家賃も安い、そんな立派なアパートが現実につくられて、入居条件は高齢者であること、セクシュアル・マイノリティであること、低収入であること。まさに夢の家だけど、もしかしてぐりの理解力がないからかもしれないけど、いったい何をどーやってどんな過程を経てそれがリアルになったのかが、ぜんぜんわからない。
お金だって要るし、土地買収や法律的な問題もある。素人にはわからない難しい課題がたくさんあったはず。それをどうやってクリアしていったのかがわからなければ、どんなに素晴しいプロジェクトでもリアリティを感じることができない。

救いになってるのは7人のレズビアンとゲイのキャラクターかな。
ひとくちにレズビアン、ゲイ、といってもそれはあくまで彼らの人格のごく一部でしかない。でもそのセクシュアリティに翻弄された彼らそれぞれのライフ・ヒストリーはやはりドラマにみちている。さまざまな山や谷を越えて生き抜いてきた彼らの顔は美しい。年齢という芸術家にしか刻めない美の上に、彼らにしか語り得ない数々の伝説が輝いている。それは誰が何といおうと、生命と人間性の美だと、ぐりは思う。
7人の中には落選した人もいたけど、映画では落選者のその後もちゃんと描いている。できればこれはまた続編をつくってほしいと思う。入居者のその後も観たいし、セクシュアル・マイノリティの高齢者ばっかりのアパートでの生活なんて、それだけですっごいおもしろそーじゃないですか。少なくとも、コレよりはおもしろくなると思うんだけどな(爆)。

廃人ワールド

2009年07月21日 | book
『ネトゲ廃人』 芦崎治著
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スペースインベーダーやファミコンがブームになった1980年代、ぐりは小学生だった。先日Ⅸが発売された『ドラゴンクエスト』シリーズが最初に登場したころは中学生だった。
世代的には初期のゲーム世代にあたるはずだけど、ぐり自身はゲームとゆーものをいっさいやらない。親がやらせなかったというのもあるかもしれないけど、大暴れしてねだり倒してゲームウォッチを買わせた次妹もどういうわけかゲームはそれっきりだったし、友だちの家にゲームをやりに行っていた末妹もいつのまにかやらなくなっていた。社会人になって仕事でゲームに触れるようになっても、まったくそのおもしろさはわからない。関心もわかないし、全然入りこめない。体質的に向いてないのかもしれない。
だから以前の職場であるオンラインゲームが大流行して、スタッフの多くがハマりきって徹夜までしてプレイして、昼間は揃って会社でぐうぐう寝てるなんて現象にはまったくついていけなかった。同僚同士がゲーム上で待合せして、オンラインでいっしょに遊んで、会話して・・・って意味わからんわ!みたいな。だって会社で会えるじゃん。喋れるじゃん。なぜに!?

この本の著者も実はゲーマーではない。たまたま学生時代の友人に著名なゲームクリエイターがいた縁でゲームライターになっただけで、個人的にはとくにゲーム好きというわけではない。
だからゲームの知識はそれなりにあっても、そこにハマる「ネトゲ廃人」に対してはかなり突き放して冷静に見ている。1年かけて取材したという廃人たちは数もすごいし地域的・生活背景的な広がりにしても相当な広範囲に及ぶ。果てはネトゲ中毒が社会問題化したインターネット先進国・韓国の取組みにもアクセスしている。
とはいえそれほど専門的な本でもないし、誰が読んでもわかりやすい読み物にもまとまっていて、それでいて鋭い示唆にも満ちている。おもしろかったです。

ぐりは普段、人身売買や未成年の売春・薬物濫用問題についての資料はときどき読むけど、この本を読んでいてなぜか既視感みたいなものをやたら感じた。
世間の大人は、ホスト遊びや援助交際に走る子やドラッグに手を出す子を「不良」「非行少年」などといってただ責めるけど、子どもがそこまで行ってしまうのには必ずそれ相応のわけがある。何の理由もないのにいきなりそこまで行く子はいない。どの子も、家庭や学校で何らかの問題を抱え、精神的に傷つき、追いつめられて、逃げるようにして転落していく。本人にその自覚があるかないかは場合による。
ゲームも似たようなものだ。ゲームはただそれだけでは害はない。たかがゲームだ。だがそこに救いがたいまでにハマりきってしまうには、ゲームの外の現実世界から逃げたいという潜在的な欲求があるからだと思う。とくに不安定な子どもはいつでもどこでも逃げ場を探している。バーチャルな世界はうってつけの避難所になる。繁華街や不良グループに逃げ場を見い出す子もいれば、バーチャルに逃げる子もいるというわけだ。

でも避難所はせいぜい避難所でしかない。インターネットもそうだけど、ぐりは個人的には子どもにはバーチャルワールドは必要ないし、害もあると思っている。現実世界すらわからない子どもには、バーチャルとリアルの区別がつかないからだ。
この本に登場するハードゲーマーの多くが、「自分が親なら子どもにはやらせない」という一方で、夫婦でハマって毎晩子どもをほったらかしでプレイしまくり挙句に「うちの子はゲームに理解がある」というゲーマーもいる。
どちらがまともな感覚なのか、ぐりはあえて判断はしないでいようと思う。ただ、この一例をとりだすだけでも、「ネトゲ廃人」の世界の広がりの一面が窺えるような気はした。

映画に出てくるインスタントラーメンはなぜうまそうなのか

2009年07月20日 | movie
『この愛の果てに』

ルームメイト・サイラスの影響でドラッグを覚え、売春に手を染めるようになった22歳のミン。見兼ねた恋人のヤンの通報で逮捕され更生施設に送られ、そこで兄弟分のクンとめぐりあう。

うーん。救いがない(爆)。
だって誰も幸せになれなくて、最終的には全員ダメになっちゃうんだよ・・・。
主人公のミンがいったい何をどうしたいのか、目的がないとしても何に怒っているのか、ストーリーの核となる部分がなかなか見えない。
彼の怒り(明らかに何かに怒り、反発している)がセクシュアリティや冒頭で起きる大事件とどれだけ関わりがあるのかが、画面からは知ることができない。友人に流されるままにドラッグに手を出し、誘われるがままに身体を売るのに、まったく何の躊躇も迷いもないのがなぜなのかもわからない。彼がいったい何に抑圧され、葛藤しているのかがぐりには最後まで理解できなかった。
それでもなんとなく観ていて自然につりこまれていくのはやっぱり、主人公ミンのキャラクターによるところが大きいと思う。主演俳優の名前がよくわからないんだけど、これが笑っちゃうくらい劉燁(リウ・イエ)そっくりなんだよ(笑)。もろそのまんま小柄で細面の劉燁って感じで、目つきや仕草や身のこなしまで似ている。あの頼りなさそうでいて力強いような不思議な眼差しで上目遣いに相手をじっと見つめる表情なんて瓜二つです。一見純朴なよーでばっちりとエロなとこなんかも同じ。

それでその彼を登場人物全員がとにかくどうにかしたくてしたくてしょうがなくて、そして結果的にずぶずぶと泥沼に巻き込まれてく、とまあそんなよーな話です。ええ。救い、ないですね(笑)。
いや、ホントなのよ。だってルームメイトのサイラスはミンのせいでヤンにタレこまれてお縄になっちゃうし、ヤンはミンにどんだけ尽くしてもせいぜい金づる程度にしか思われてない。クンはミンと離れられないばっかりにせっかく更生しかけた道を踏み誤るし、クンのガールフレンド・ジャッキーでさえミンのせいで恋人との将来を棒にふってしまう。ミンがそれだけ魅力的とゆーか、小悪魔的とゆーことなんだろーけど、映画そのもののスタンスが「悪魔的な美青年の裏道人生」的な雰囲気ではないのが中途半端に思える。それならそれで割りきってやってくれた方が観てる方はラクなんですけどね。

この映画も音楽がチープ。とゆーか音響設計自体がチープ。予算がないのはわかるけど、環境音くらいちゃんと入れてほしかったです。なんかもっそい、つくりかけの途中の映像を見せられてるみたいで落ち着かないったらありゃせんですよ。


ネットに落ちてた撮影現場の画像。右がサイラス役、左がミン役。劉燁やんけ。違うけど。でも服装までもがー。ぷぷぷ。

先日観た4本もそのうち日を改めてレビュー書こうと思います。あれだけじゃいくらなんでもねー。と反省中。
ところで今年の東京国際レズビアン&ゲイ映画祭、サイトにゲスト情報がほぼまったく載ってない。フライヤーもしかり。なんで?どーゆーことなんでしょー?まあいいけどねえ・・・。

高雄ブルース

2009年07月19日 | movie
『あなたなしでは生きていけない』

貧しい港湾労働者のウーションは娘のメイとふたり暮らし。7歳になったメイを学校にやりたくて戸籍に登録しようとするのだが、蒸発した母親と正式に結婚していなかった彼には親権がない。当惑したウーションは、同窓生の議員を頼って台北まで出かけていくが・・・。
先週開催された台北電影節でグランプリ・最優秀主演男優賞・最優秀助演男優賞・媒体推薦賞の四冠を獲得した傑作。監督は俳優としても有名な戴立忍(レオン・ダイ)。

すばらしー。すごいよかったです。
2003年に実際に起きた事件を基にしてるそーですが。なんかあんまりそーゆー感じはしないです。すごくシンプルで、淡々としてて。
トーンは侯孝賢(ホウ・シャオシェン)そっくりですね。出演者も素人だし、主役がほとんど喋らないところも似てる。北野映画にもちょっと近いかな。
とくにぐりがいいなと思ったのは主人公父娘の独特の関係。無口でただただ働く以外に能のないウーションは少年のようだし(でも40代)、一生懸命に父を支えるメイには子どもらしさがまったくなく、異様に大人びて見える。ときどきふたりが父娘というより恋人同士のように見えたり、共犯者のように見えたり(『レオン』のジャン・レノとナタリー・ポートマンみたいな)、母と息子のように見えたりもする。互いに依存しあっているふたりだが、画面に甘さはない。どこか必死な緊迫感さえ漂う。微妙にセクシュアルにさえ感じられる。
なので父と娘の感動ストーリーなのに安易なセンチメンタリズムには決して流れず、どこかビターなハードボイルドのような映画に仕上がっている。だからこそ、たった一度流される涙が強烈に効く。ハイセンスです。

ひとつ残念だったのは音楽がチープだったこと。
これはこの作品に限らず昨今の台湾映画全般にいえることなのだが、もしかして台湾にはきちんとしたスコアが書ける映画音楽作家はいないのだろーか?ちょっといいなと思えば香港や日本のアーティストだったり、映画自体はすごくよくても音楽が全部打ち込み系の、ありきたりで非印象的な環境音楽っぽいのだったりすると手抜きみたいです。せっかくのいい話がもったいなさすぎる。
映画としての完成度は非常に高いし、監督も日本でも知られた人なので、これは是非とも一般公開してほしい。このまま誰にも観られないなんてもったいなさすぎです。

過越祭の晩餐

2009年07月19日 | movie
『ノラの遺言』

63歳で自ら命を断ったノラ。死の直前、彼女は「過越祭」の晩餐を下ごしらえし、親類に晩餐の手伝いを頼み、冷凍の肉を注文し、コーヒーポットを満たしておいた。弔いに集う人々をもてなすために。
ところが最初に遺体を発見した元夫ホセは彼女の計画にことごとく反発し、ラビの心証を損ねてしまう。

メキシコ版『お葬式』ですね。ユダヤ版とゆーべきか?台詞がスペイン語ってゆー以外にメキシコっぽさは全然ないから。画面も家からほとんど出ないし。
ひじょーにおもしろかったです。ハイ。ユダヤ教の厳格なしきたりにふりまわされるドタバタも笑えるし、しきりに「二十年も前に離婚した」「妻だ」なんて連発しつつも、本音ではその事実を受入れられないでいる主人公ホセの偏屈ぶりもかわいい。
いちばん興味深かったのは、離婚してからも通りを挟んで向いに住む元夫を監視しつづけていたノラのパーソナリティなのだが、残念ながら彼女は劇中では多くを語らない。この設定は実は監督自身の祖父母の間にあった事実を基にしているという。事実は小説よりも奇なりとはゆーけど、ホントです。何度も自殺未遂を繰返した祖母がついに亡くなったとき、最初に気づいたのは祖父だったというのも実際にあったことだそーだ。もちろんその他のストーリーは完全にフィクションなんだけど。

劇中ではこの夫婦がどうして離婚したのか、離婚してもなお家族として一定の距離を保っていたのはなぜなのかという説明はない。
でも人間の心は複雑なものだ。たとえ愛しあっていてもいっしょには暮せない、それでも他人になることはできない、という不条理もまた人間が生きているからこそ生まれる謎なのだろう。
埋葬のとき、ラビがホセにいう。「苦しみを引き継ぐな。そうでなくても人は苦しい」。
埋葬の後で、人々はノラが用意した料理を食べ、彼女が書いてくれた手紙を読む。彼らは二度とふたたび彼女に会うことはできない。声を聞くことも、微笑みあうこともできない。だが彼らの中に確かに彼女は生きている。その彼女を、生前のように苦しめる必要はもうない。彼らはまだ生きていて、生きていることはそれだけでも苦しい。
それでも、二度と会えない愛しい人をしのぶ甘い感覚にひたれるのは、人が生きているからこその証明なのだともいえる。
そう思えば、死は別れではなく、新たにもういちど彼の人に出会うことなのかもしれない。