ふくい、Tokyo、ヒロシマ、百島物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

分水 山上の庵暮らし。

2019年11月10日 | 千伝。

出雲崎の名主の長男跡取りだった17歳の頃、名主の地位も家業を捨て、突然剃髪して出家します。

良寛は、出家の理由を書き残していません。

ただ、出家する17歳まで、この地でこの世の苦悩を耐えて生きていたと思うのです。

21歳の頃、備中玉島の円通寺ヘ修業、その後諸国放浪を終えて、故郷越後に帰った時、39歳でした。

その間、母は病死、父は入水自殺。

家業は弟が継いだものの没落はひどいものでした。

17年ぶりの帰郷は、良寛の心は、どのような面持ちだったのだろうかと偲びます。

良寛は、帰郷後、出雲碕には一度も托鉢をしていないはずです。

74歳の生涯を終えるまで、この出雲碕という土地の周辺を放浪して暮らさなければ為らない宿命を負ったのです。

出雲碕から、車で40分か50分かけて、寺泊の町を通り過ぎて、信濃川を分水した大治水工事でできた川を渡ると国上山があります。

現在は燕市となっています。

実際、現地を訪問して驚く事が多々あります。

国上山中腹にある20年暮らした五合庵と10年暮らした草庵を訪ねました。

良寛さんは、この山の中で実に30年もの間、徹底した清貧暮らしを過ごしたのです。

この六畳一間の狭い五合庵。

草庵も似たり寄ったりの建物です。

 この辺鄙な雪深い山中で、ぽつんと一軒庵、そこで暮らした30年間を思い描くと、心を打たれ鳥肌が立ちます。

まさに、良寛さんの宿命となる分水嶺だったかもしれません。

つづく。