国上山は、福井ならば、文殊山。
百島ならば、十文字山のような山です。
その国上山の中腹にある小さな庵で、30年間暮らしながら、里山に下りて托鉢生活を行っていたのです。
究極の断捨離生活を実践していたのが、良寛さんです。
ただ、その30年の歳月において、良寛さんの文芸の才は花が咲きました。
楷書、草書、仮名文字、和歌、漢詩、すべてにおいて秀でるものと成りました。
晩年が近づくにつれて、良寛さんの名声は、遠く江戸まで知られるようになったとのこと。
五合庵から草庵に引っ越した頃から、国上山を訪ねてる客人も増えたとのこと。
多分、その頃から、良寛さんから、良寛様と呼ばれて、生きている伝説の人物になったかもしれません。
地元の和島村の有力者木村家が、自宅で良寛様の、老後のお世話をしたいと申し出ました。
さすがに70歳になる良寛さん、山の中での暮らしは無理だと悟ったのでしょう。
国上山を下りて、終焉の地となる和島村に移ります。
国上山から、その和島(現長岡市)まで、訪ねてみました。
大河津分水の土提道路を抜けて、与板(長岡市)地区を経由で、車で約40分から50分ほどの距離です。
余談ですが、信濃川からの寺泊(長岡市)へと抜ける大河津分水という川は、人工川です。
先月の台風19号の大雨でも、信濃川は決壊しなかったのは、この大河津分水の御蔭だと言われています。
それまで、信濃川流域は過去何十回、何百回も大洪水、大水害に襲われたとのこと。
正直、この大河津分水のことは、詳しく知りませんでした。
そう説明されるまで、実際、自然の大きな川だと映っていました。
帰宅後、もっと現地見学しておけばよかったと後悔しています。
この人工の治水工事の発案は、良寛さんが生きていた江戸時代から紆余曲折を経て、完成に実に約200年。
延べ約1000万人の労働者によって完成されたもので、東洋一の大治水工事だったと言われています。
だから、この近くの西山で生まれた育った田中角栄先生は、日本列島改造計画の政治発想を得たかもしれません。
その大河津分水が完成したのが大正時代、新潟港に注がれていた信濃川の河口が半分に狭くなったとのこと。
当時、新潟で暮らしていた坂口安吾少年は万代橋が半分になるのが悲しかったと故郷を書き残しています。
堕落論を著し、京都、奈良の古寺を否定した坂口安吾・・・寺を持たず、住職にもならず、徹底した断捨離生活を行った郷土の偉人を、良寛様と書き認めています。
新潟愛、郷土愛、新潟ラブを感じます。
さて、和島村に移り住んだ良寛さん、人生最後に最高の輝きが放たれます。
40歳も年下の弟子となる貞心尼との出会いです。
男女間の相聞歌に関しては、よく分かりません。
良寛さんは、貞心尼に看取られて亡くなりました。
形見とて/何か残さむ/春は花
夏ほととぎす/秋はもみじ葉
(良寛)
良寛さんの心の指針だった道元禅師の歌と似ています。
貞心尼は、その後、40年生きたのち、明治5年には、良寛さんの遺した歌を集め「はちすの露」という歌集を出版します。
良寛さんの辞世の句。
うらを見せ/おもてを見せて/散るもみじ(良寛)
つづく。